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私の大切な私


頭が良くない私。

仕事ができない私。

運動ができない私。

友達が少ない私。

顔も体型も褒めがたい私。

好きな人に振り向いてもらえない私。

笑ってしまうくらい、いいところのない私。

それでも、それでも、大切な私。






手放しに自分を愛せたら、どれほどよかっただろう。
誰からも愛されずとも、一人の人間であるという事実だけで自分を貴い存在だと思えたら、どれほどよかっただろう。


私は自分を大切になんて思えなかった。
ゲイであるだけでも生きづらいのに、すべての事柄において劣っていて、本当に何をしても上手くいかなかった。
不公平な世の中にムカついたけれど、それ以上に何もできない自分自身への怒りと失望があった。


勝手に自分に期待して、勝手に自分に失望する。
死ぬ気で頑張って、本当に本当に努力して、今度こそはと希望を抱いては、それでも無様に差し出されるのはいつもバツマークだった。

期待しなければ、傷つくことはない。
常に最悪な未来を予想し、その通りの結果になると絶望よりも安心があった。
「そうだよね、やっぱりダメだよね」と安心するのだ。
たまに予想よりも良い結果になると、「どうせ次はダメなのに」と嬉しさよりもただひたすらに悲しくなった。

恋愛においてもそうだった。
体だけを求めてくる男たちを軽蔑し、同時に承認欲求を満たすためだけに簡単に抱かれる自分自身をも軽蔑した。
男たちとの関係を繰り返せば繰り返すほど自分が空っぽになっていくのを感じ、大切にされないことに安心した。

自分を大切にしないことに慣れていたし、大切にされる存在だとも思えなかった。



そんな私が、今では狂おしいほどに自分を愛している。

「ブスのくせにお高くとまってんなよ」
「なんでこんなこともできないんだよ」
「お前みたいな売れ残りに声かけてやってるんだから感謝しろ」

もう何も怖くない。
もちろんこいつらは殺すのだけれど、自分を嫌いになったり絶望したりなんかしない。
私の大切な私に舐め腐った態度をとるなよって普通に思う。




「生きているだけで偉いんだよ」

この言葉に元気をもらう人もいれば、なんだその薄っぺらい言葉はと呆れる人もいるかもしれない。
私はこの言葉に概ね同意している。

私は人生に目的、意味はないと考えているからだ。
何かを成すために生まれさせられたのではなく、生きるために生まれさせられたのだと思っている。

「善く生きること」を私は人生の目的にしているが、あくまでもそれは私個人の目的であり、生きることを主とした場合の副次的なものである。

つまり、生み落とされた私たちは、生きているだけでその使命を全うしている。生きているだけで世界は私たちを肯定してくれている。

しかし、世界が私を認めてくれていることと、私が私を好きになることは全くの別問題である。

生きているだけで偉いとか偉くないとか、使命を全うしているとかしていないとか、そんなこと知ったこっちゃない。

世界に愛されようが愛されまいが関係ない。
私が、私を、大切にしたい、愛したい。

誰に認められたいかを決めるのも私で、結局それは私が私を認めるしかないのだ。




自分を愛するということは、世界を愛するということだと思う。

私が存在しなければ他者は存在せず、世界すら存在しない。
私は私を通してのみ他者を理解し、世界を知覚することができる。

つまり、何かを好きになるということは、好きになった自分を好きになるということなのだ。
人を通じて、本を通じて、絵画を通じて、私は私を好きになっていく。

その人からの優しさを感じた自分を、その本の言葉に心を動かされた自分を、その絵に感動した自分を好きになる。

好きなものが増えれば増えるほど、私は私を大切に思うことができる。

優しさを知らなければ人に優しくすることはできないし、愛を知らなければ愛することもできない。

そうやって世界と私は鏡のような関係として存在している。

しかし、正直なところそれだけでは私は私を好きにはなりきれない。

経験とともに好きなものはたくさん増えた。
好きな言葉や好きな絵、好きな人たちが私の周りには溢れている。
ただ、ふとしたときに自分に絶望し、すべてがどうでもよくなってしまうときがある。
もういいかな、結局自分ってダメ人間だよな、と。

自分を大切にするとか愛するとかそんなことは頭から抜け落ち、消えてなくなりたくなってしまう。



そんなときに私の最後の砦として存在してくれるのが自分ルールである。
善く生きるための、絶対に守るべき自分との約束。

たとえば、どんなに車通りのない夜道であっても赤信号は無視しないこと。

たとえば、電車では迷わず席を譲ること。

たとえば、お会計の際は必ず店員さんにお礼を伝えること。

そんなの当然のことだろ、と言える人間でありたかったけれど、あいにく私はそこまで真っ当な人間ではなかった。

その場面になると自分ルールが頭を過ぎり、それを実行する自分に安堵する。


その他にも自分のためだけの自分ルールもある。
善く生きることとは少し離れた、自分にしか還元されないルール。

たとえば、年間300冊以上の本を読むこと。

たとえば、資格試験の勉強に週30時間以上費やすこと。

たとえば、週に一回は自炊をすること。

この自分ルールは流動的で、かつ、自分に厳しい人から見ればひどく甘いルールばかりである。
無理せず守れるギリギリのラインを設定している。だからこそ、私はこの自分ルールを破ったことがない。

正直、自分ルールを守ることと自分を愛することに因果関係はない。
ただ、そんなルールを日々守っている自分が少し誇らしいし、健気に思える。大切にしてみてもいいのではないかと思うのだ。

自分ルールを守っている間は、私は私を信用できるし、愛するに値する存在だと思うことができる。

正直、怖い。
ルールを守れなかったときを考えると気が気ではない。
ここまでくるともう一種の強迫観念でさえある。

ただ、逆に言えば、自分のダメさ加減に泣きたくなったとき、私が私を見捨てないでいられる。諦めないでいられる。




私の自己愛は、健全ではない。
無条件であるはずの愛に制約をつけている。
とても不健全な愛だ。



いつかこの自分ルールを守れなくなり、何も持たない私と直面しなければならないときがくるだろう。そのとき、私が私を愛することの背中を押してくれる存在が隣にいてくれるだろうか。

もし隣にいてくれたら、そんな存在と巡り会えた世界を私は愛するだろうし、そんな存在に愛してもらえる私を私は愛するだろう。

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