老害という化け物になってしまった私へ
こんな生き方が理想で
こんな恋愛をしたくて
こんな人間になりたくて
理想を語るとあいつらは決まって「若いね、いいね」と笑った。
幼い子どもが野球選手やサッカー選手、ましてや仮面ライダーやウルトラマンになりたいと言ったわけではない。
社会の一員となった青年がただただ理想の在り方を語っただけ。
それなのにあいつら老害は、その理想を存在しえない夢物語かのように笑い、否定してきた。
「考え方が若いね。色々と経験したらわかるようになるよ」
私はそれを言われる度に心底ムカついた。
若さゆえの考えじゃねぇよ。
「お前が」理想の姿になれなかっただけだろ。
「お前が」諦めただけだろ。
「お前が」手放したものを年齢のせいにするな。
善い人生を送りたい。
若き頃に掲げていた私の理想。
世界に対して誠実に生き、正しさを追求し、嘘や恥のない人生を送りたい。
優しい人間でありたいし、人を大切にできる人間でありたい。
正直者がバカをみる、そんな世の中で善い人生を送ることは難しい。
そんなことはわかっていた。
それでも、道徳的に正しく、徳のある生き方をしたかった。
このような思想を幼いながらも持っていたのは、宮沢賢治や山本周五郎の影響が多分にあった。
ここで語ることはしないが、彼らは今なお私の思想の柱として存在している。
「理想」という言葉は、言葉自体にどこか実現不可能性を帯びてしまっている気がする。
「理想は○○だけど実際は□□」という言葉をよく耳にする。
理想の状態はあるけれど、それは難しいからここらへんのラインを目指しましょう、と。
理想を実現するには、やはり生半可な覚悟ではいけないのだ。
それでも私には理想へ向かう強い信念があった。
老害たちのようには決してならないと信じて疑わなかった。
振り返ると恋愛における理想を否定されることが多かった。
これは単に人生の理想を話す機会より、恋愛の理想を聞かれて話す機会の方が多かったからだ。
「浮気は絶対にされたくない」
「好きな人としかヤらない」
もう少し言葉を選べば、誠実な関係がいいとか、お互いがお互いを尊重できる関係がいいとか、そんな表現になるだろう。
たったこれだけ。
理想というにはあまりにも陳腐で、もはや恋愛の大前提のようなものだ。
しかし、たったこれだけのことを、老害たちは笑いながら否定するのだ。
「浮気くらい許せないとダメだよ」
「浮気したからって恋人が大切じゃないわけじゃないんだよ」
「性欲と愛情って全く別の話だから」
お前ら、正気か?
浮気されてるってことは、一時の快楽と自分を天秤にかけたときに一時の快楽を取られてるんだぞ?
体を重ねるという行為はそんな気軽にしていいものなのか?
否定される度に、私は老害たちに熱心に説いた。
もちろん、それぞれのカップルの在り方があるのは百も承知だ。
それでも、私の理想が間違っているとも、否定されていいものだとも決して思わなかった。
私は、私の理想を追うだけ。
誰よりも優しい人間でありたいと願っていた私。
周りに流されず自分の心に従って生きていくと自身に約束した私。
好きな人としか枕を交わさないと胸に決めていた私。
ごめんね。
小さなことにイラつき、自分の機嫌すら自分でとれない私。
衝突を避けることを一番として「八方美人だよね」と言われる私。
名前すら知らない相手と寂しさを紛らわす私。
いつからだろう。
こんなにもみっともない人間になってしまったのは。
あれほど豪語していた私は、もはや恋愛の理想を語ることすらしなくなった。
理想を捨てたわけではない。
捨てたわけではないが、いつの間にかあまりにも遠く離れてしまっていた。
何より、理想を語っていた私には信じ難い出来事が起きてしまった。
若い人が理想を語ることに、苛立ちを覚えるようになってしまったのだ。
だから無理なんだって。
俺もそうやって頑張ったけど、どこかで妥協するしかないんだって。
考えが若い、甘すぎる。
そう、私はあれほど嫌悪していた老害になってしまっていたのだ。
若い人たちの理想を、若さゆえと切りつける。
「私が」理想の姿になれなかっただけ。
「私が」諦めただけ。
「私が」手放したものを年齢のせいにしてはいけない。
戻れなくなってしまう前に、私は私を戒めておきたい。
そもそもがひよわな志に過ぎなかったのだ。
若い頃の自分にせめて顔向けができるように。
わずかに残っている理想を捨てきらないように。
いつかの老害の私へ。
もしもまた変わってしまった心を歳のせいにするときがきたら、どうぞ心置きなく死んでください。
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