第1話 水戸乃梅昭男と朱雀しげると京大

 水戸乃梅昭男は27歳、独身の会社員である。苗字が相撲取りのようだとよく言われることを除き、取り立てて変わったところはない。見た目も相撲取りだとは言われたくないので、生まれてこのかた何かしらの節制や運動をして、痩せ気味の体型を維持している。
 今日も仕事で初めて会った打ち合わせの相手に「力士がフルネームで呼ばれる時の感じに似てますね」とか言われたな、初対面なのにわりと言うよなと思い出しながら最寄り駅からの道を歩き、アパートの部屋に帰ってきた。携帯を開くと、朱雀しげるからの不在着信が入っていた。
 朱雀しげるは昭男の姉、真里子の夫の姉である。昭男にはなぜか、そういった説明できる程度に遠い繋がりの知人友人が多い。一年ほど前、真里子の結婚式で初めて顔を合わせ、式を挙げた神社から駅までの帰り道で一緒になり、初対面にしては話が弾んだので連絡先を交換した。それ以来、月に一度ほど電話で話したり食事に行ったりする友人である。
 冷蔵庫から冷凍していたご飯の入ったタッパーを取り出し、レトルトカレーを電子レンジで温めながらしげるに電話をかけ直した。昔アルバイトをしていたコールセンターで「8回コールしても相手が出なかったら切りましょう」と教わって以来8回までは待つことにしているので、コール音の回数を数えながら聞いていると、7回半ほどで彼女の声がした。
 「あー、ごめんね。今大丈夫?」
 「こっちも帰ってる途中で電話気づかなかったわ、ごめん。大丈夫。」
 「あのさー、すっごいどうでもいい話なんだけど誰かに話したくて、聞いてほしいんだけど、なんか京大生がバカやる系のネットニュースとか小説とかあるじゃん。あれってどうしても『京大生』の主語が強すぎてバカやってる内容全然頭に入ってこなくない?」
 朱雀しげるには「誰か」がいないのだと、彼女からこういう話を聞くたびに昭男は思う。女友達とか恋人とか。そして自分は彼女の恋人になりえる存在ではなく、弟の妻の弟という適度に遠い距離を保ったちょうどいい友人なのだ。彼も何度彼女に会っても恋愛感情を抱いたことはなく、今の距離感を良しとしている。
 「んー、なんかちょっと、あんまり考えたことない方向だったわ。」
 「もう少し踏み込んで言うと、京大生が主語に付くことで『天才だけど俺らこんなバカもやれちゃいます』感が強くて脳が理解を拒絶する。絶対お前らのやってることなんか認めてやらねえって思っちゃう。」
 「多分それ、主語が『東大生』だったらそんなにいらつかないやつでしょ。」
 「そうなの、東大生はありなの、日本の最高学府だから。ひれ伏すしかないから。京大って東大とは違う方向の天才感を醸し出してるじゃん。なんかかっこいいじゃん。私もうちょっと成績が良かったら京大に行きたかったもん。…私このあいだ、自分にとっての幸せってなんだろうって考えたんだけど、いい大学行って一流企業の総合職でバリバリ働いて同じくらい稼ぐ人と結婚して健康で聞き分けがよくて顔がかわいい子供を産んで子育てしながらまたバリバリ働くみたいなことしか浮かばなくて、全部は無理だし薄っぺらいなって思った、我ながら。でも全部叶わないと私は納得できないんだと思う。」
 そこらの京大生の話がいつの間にか幸福論という壮大なテーマにすり替わっているのが、朱雀しげるの性質なのか女性にありがちなものなのか昭男には分からない。しかし彼女の言いたいことは何となく分かるような気がするし、彼女の言葉を否定する気にはならないので、友人としての良い付き合いが続いているのだと思う。
 「今の朱雀に言っても響かないかもしれないけど、幸せはこうじゃなきゃいけないとかないし、朱雀がそう思ったなら今はそれが幸せってことでいいんじゃない。何気ないこととか普通に生きてることを幸せと思え、それ以外は我儘みたいな風潮はあるけどね。全部叶えられたらいいじゃん、頑張ってよ。」
 「そうだねー、頑張るわ。もう遅いし申し訳ないからその風潮なんやらの話はまた今度しよう。あーお金欲しいな、お金。でも京大の話ができたから今日はすっきりした、ありがとう。」
 じゃあね、おやすみと言って朱雀しげるの電話は切れた。昭男は電子レンジの中のレトルトカレーがとっくの昔に温まって、もはや冷めはじめているであろうことに気づいた。まだご飯の解凍も済んでいない。就寝時間から3時間以内の食事になってしまうが、明日の食事を調整すれば大丈夫だろう。そんなことを何かを食べるたびに俺は気にしているなと昭男は気づき、姉は水戸乃梅の苗字を捨てられて幸せだろうなと思った。

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