何も誇れるものがない人の幸福

物事への執着が希薄で、大した努力もできず、それでも不幸にはなりたくないと、ぎりぎりの安全圏を低空飛行している人がいる。

なんの才能も魅力もない、心も強くない、人生で成功した経験を聞かれても、自信を持って話せることがない。

これは紛れもなく私自身のことで、こうして書き並べるとなんとも言えない気持ちになる。

完全に休息モードの祝日、たっぷり寝て、ニュースを確認した後は時々やってくる無気力に襲われていた。
無気力な自分を意識したからか、「ダメダメな自分について」というめちゃめちゃ悲観的なテーマで思考が始まってしまったようである。

さすがに少しブルーになりかけたころ、不意に一つの新しい考えが浮かんできた。

でも、そんなつまらない人間でありながら、そこそこ幸福に生きている事実こそが自分を支えているんじゃないか?

もし他の誰かが私だったら、自分のことを大嫌いでみじめで、耐えられないのかもしれない。
けど自分は実はそうでもなく生きている、自分はダメな奴だけどそれなりによくやってきたと思ってる。なんの成果も実績もないのに根拠もなくそう信じてる。


もしかして、自分のことを認めたり労ったりしながら平凡に生き、身分相応の幸せを受け入れる能力が、自分はめちゃくちゃに高いんじゃないか。


以前は違った。やっぱり、そりゃそうだという感じではあるけど、自分は早く消えてしまえばいいという気持ちでいっぱいだった。
周りの人への劣等感、何も誇れるものがない虚しさ、そう思っていながら何も頑張れない自分への嫌悪感。

今思えばその状態こそが一番の問題だったけれど、数年前のある出来事をきっかけに、自分に対するハードルがかなり下がった。
大したことのない自分を許し、その上でなるべく一生懸命生きるスタンスに切り替わった。
そうすると、日々を過ごすことが自分なりに楽になった。それに、かえって以前よりもいくぶん生産的な考え方ができるようにもなった。

「現状に満足したら終わり」という言葉を嬉々として使う人がいる。
私はそういう人の軽蔑の対象になるのかもしれない。
満足とは、言葉通り心が満ちて足りることだとするなら、満足して迎えた終わりの後に何を求めるのかと思っている。
成長、向上、自己実現、そういったものが真の幸せだと信じる人にとって、
満足はまさに「終わり」なんだろう。

反面、満ちて足りることが幸せだと思っている自分はこれでいい。
ダメなのに幸せでいれる私の周りの世界と人々にありったけ感謝申し上げる。

これからも、それはアウトだよということだけはせず、興味が持てることがあれば一応取り組み、仕事はその時のやる気に応じて頑張り、面白みのない人生を生きていく気がする。

もしかしたら、このまま何も残さず生きて、何も残さず死ぬのかもしれない。

実はそれはちょっと悲しいなという気持ちもあるので、せめて考えたことを文章にしてみようとこれを書いた。
けどこれはかっこ悪いので内緒にしておこう。

以上‬

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