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「日本人とユダヤ人」講読


             野阿梓

 
 
 
   第十七講  ダビデとヨナタン
  

 
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歴史逆転はともかく、三笠宮の言及は、非常に新鮮な観点を、七七年当時の私に与えてくれました。すなわち、カナン侵攻した後のユダヤ人は、決して一枚岩でもなく、十二支族が強固に結びついた連合でもない。むしろソロモン王の死後に分裂した原因は、ダビデ時代より先から伏在してあった。むしろ南北は最初から対立していた。南北というより、ユダ族と、それ以外のイスラエル諸族全てです。そうすると、ユダヤ対ペリシテという従来の構図も、どこか歪んでくる。少なくとも、サウルから追われたダビデが、そこに属した。ということから、ユダヤ人あるいはイスラエル人と、ペリシテ人が争っていたかも知れないが、それは局外者のハビル人の長であるダビデとは無関係だった、ということになります。これは、ちょっと今までに考えていたパレスチナの情勢図式とは異なります。
 
そして、この新解釈は、図らずも、私が疑問に感じた、ルツ記を旧約の(古代ユダヤ人の)編纂者がそこに置いた、ということの説明にも巧く繋がります。すなわち、ルツ記は、ダビデが「どこの馬の骨か判らぬ」ハビル人の長ではない、れっきとしたユダ族のエッサイの末子である。というアリバイ工作なのです。こうしておかないと、(それでも多少、無理はあるのですが)、なまらその辺のならず者集団の長が、神聖なるヤハウェの民たるユダヤ民族の王になってしまい、それは元々、ユダヤ民族とは縁もゆかりもない人間だった、ということになりかねない。いや、ルツ記があり、サムエル記にそう記されているからこそ、ダビデはモアブ人の血が雑じっているかも知れないが、ユダ部族の一員だ、ということにしておかないと、歴史がおかしなことになってしまう。捕囚時代に編纂した古代ユダヤの(神に仕える)祭司たちは、いくら何でも、そうは記せなかった。そういうことになります。
だからダビデの血統を捏造して、ルツ記という異邦人への許容を含んだ物語さえデッチ上げて、ダビデが初めからユダヤ人だった、というフィクション(虚構)を描いた。
 
そう考えると、判る気がします。
むろん、本当にそうだ、とは言えないのですが、ダビデの出自が元から曖昧だったことは確かなようです。捕囚時代の聖書の書記としては、イスラエルが最大の栄華を誇ったソロモン王朝の始祖のことを、真っ正直に、ハビル人の長だったとも書けず、かといって純正なユダ族の出身とも書けず、葛藤した挙げ句に、モアブの血を引く、といった説話を編み出し、これをルツ記として、サムエル記の前に置くことで、少なくとも純粋かつ正統なユダヤ人の血統ではないことを、それとなく暗示したものか、との仮説はわりとスッキリと受け取れます。
 
ところで、殺害命令まで出されては、サウル王の治めるイスラエルの地には、もう居られなくなった、と判断したダビデは、ペリシテの都市ガテに逃れ、その王アキシに仕えます。ガテは、海の民ペリシテ人の沿岸拠点である五都市連合の一つです。五都市(ペンタポリス)とは、旧約以外にもエジプトの碑文にも出てきて、その存在が確認できます。五つの都市はガザ、アシドド、アシケロン、エクロン、ガテ(ガト)で、共同して軍事行動をするなど、強い結びつきがありました。最初の三つの都市は現在も同じ名で存在します。エクロンは現在のテル・ミクネ、ガテはテル・ツァフィットと比定されます。
 
サムエル記上二七章によれば、この時、ダビデは配下の従者六〇〇人を引き連れてアキシ王(正確にはサウルと同じ「君(ナギード)」)に降るのですが、いくらなんでも、昨日の敵がすぐに今日の友になるはずはないので、あらかじめ、ダビデとアキシは何んらかの誼みを通じていたのだと思われます。この時、ダビデは従者(軍勢)以外にその家族と共に行動しています。おそらく数千人単位の一族郎党だったでしょう。ダビデはガテに一年と四ヶ月いた、とあります。
 
先述した聖書地図で見ると、ガテはユダ族の嗣業地に近い、元アモリ人の都市だったラキシの北、沿岸都市としては、やや内陸部にある都市です。ここでアキシに仕えたダビデは、戦場としては主に、より南方のネゲブの諸都市に求めては、襲う時は皆殺しで臨んでいます。その理由として、誰かを捕虜としてガテに引くこともなく、一人残らず殱滅すれば、生き残りが「ダビデがこうした」といった通報をさせることが出来ないからです。いわば本心ではユダヤ人に心を残して、裏切った形で敵中にいるわけですから、かなり慎重に軍事活動に従事していたと思われます。
 
もし、ダビデが本当にユダ族の出身なら――そして三笠宮が仰言るように、「(ユダの部族員が)おめおめと北の部族同盟イスラエルのサウルの傭兵隊長にはなれない」としても――、仮にそうなったとしたら、それでサウル王から生命を狙われた場合、彼は、そのままユダ族の地に帰ってくればよい話です。それをしないで、彼はペリシテ人の都市に走っている。だとしたら、やはりダビデはユダ族の出身ではありえない、ということを示してはいないでしょうか。
 
三笠宮の言によれば、その時点では南北の支族はもう分裂しているわけですから、たとえユダ部族連合が成立前であったとしても、ユダ族の出身で北の部族同盟に与力しに行った軍団指揮者がいて、それが北の王から指名手配された(=殺害命令が出された)としても、いくら何でも、同族ならユダ族は匿ってくれるでしょう。それを阻む理由はなにもありません。でなきゃ、何のための部族だか判らない。モアブの血を引いていようがいまいが関係ない。政治的に分裂した北の部族(連合)からは、ユダ族は独立しているのだから、古代の部族の結束は固い。自分の部族員ならユダ族は絶対にダビデを庇う。サウル王が引き渡せ、と言っても拒む。十二支族の沽券にかけても同族の一員なら他の十一支族全部を敵に回してもダビデを守り抜く。そのはずです。だが現実にはそうなっていないし、そもそもダビデはユダ族を頼ろうとしていない。これは矛盾でしょう。
 
しかしながら、ダビデとその一党が、ユダ族とは関係がなく、最初から完全にカナン地方の傭兵隊であるなら、雇い主であるサウル王が彼らとの関係を切った段階で契約も切れますから、古代にあっても、そういう自由な(フリーランスでドライな)軍隊があって、活動していた、と想定すれば、話は違ってきます。その場合、はなからダビデには南のユダ族を頼る、という発想がないでしょう。むしろ同じユダヤ人なのだから、北の王から指名手配されたら南に逃げても駄目だ、と思うかも知れない。だとしたら、後は、もう、つい先日まで戦っていた相手、ペリシテ人しか頼る道はない。自分一人なら、どうとでも流れ者でいられるかも知れないが、手下が数百人もいて、その家族だっている。どうしたって誰か第三者を頼らざるをえません。
 
そのように、純粋に傭兵隊だったダビデ一党がサウル王との契約を終えて、ペリシテ人アキシ王との契約に入った、と考えれば、一応の筋は通りますが、それでも、近い過去に「ダビデは万(のペリシテ人)を撃ち殺した」と讃美されているのです。さらには、王の娘と自分では身分が違うので(=婚資が用意できない)と、結婚を断ったのですが、悪辣老獪なサウル王から結納の代わりとしてペリシテ人のペニスの包皮(「陽の皮」と聖書にはあります)百枚を求められるや、戦闘に行って倍の二百枚、包皮を広げて王の娘と結婚している。これだけの大量殺戮をしているのだから、ダビデとしても、すんなりとペリシテ人に受け容れられるとは考えていません。あまりにも虫が良すぎるでしょう。それくらいは彼も弁えています。
 
アキシ王の下に赴いた時のダビデは、非常に低姿勢で(反乱の意思がないことを示すため)ガテの首都には住まず(おそらくガテは城塞都市であり、その城内には入らず)、地方の町に駐留することを願いでて、チクラグを与えられています。もっとも、ダビデがアキシ王の下に来たのはこれが二度目で、一度目は周囲の人々が怪しんだため気狂いの振りをして立ち去っています(サムエル記上第二十一章)。
ガテは、元はカナン侵攻後の分配で、シメオン人の飛び地だった都市で、その後の闘いでペリシテの支配下に置かれていたようです。ダビデが王となった後は、ユダの土地になりました。現在、その地がどこかは分明ではなく、死海の南西部のベエルシェバ近くにあるテル・セラとする説がありますが、異説もあります。いずれにせよ首都の郊外なら、それほどガテから遠いはずはないでしょう。ガテはかつてはゴリアテの出身地でもあり、また不思議なことにソロモン王時代にもアキシ王の名があります。同一人物とは思えませんが、ダビデが仕えたアキシは「ガテの王マオクの子アキシ」(サムエル記上第二十七章第三節)ですが、後にソロモン王時代に「ガテの王マアカの子アキシ」があります(列王記上第二章第三十九節)。この時点でダビデは死んでいますから別人だと思われますが父親の名前まで似通っているので、ややこしいです。
 
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サムエル記上第二九章では、ペリシテ人の五都市連合軍がイスラエル戦に出陣した際に、アキシ王はダビデを信頼していて、彼はアキシ王軍の殿軍(しんがり)をつとめましたが、他のペリシテ人が目ざとく見つけ「これらのヘブルびとはここで何をしているのか」と質しています。ということは、ハビル人は、時系列に目をつぶって言うと、やはり人種的にはペリシテ人とは異なり、ヘブル人=ユダヤ人に見えたのでしょう。ともあれ、他の王たちが不安に思ったのだと思われますが、彼の従軍は認められず、アキシはダビデを帰投させます。六〇〇の手兵全てを率いてきたダビデは、やむをえずチクラグに帰るのです。
ところが、その間にアマレク人がチクラグを襲撃し、全員を生かしたまま連れ去られ捕虜にしています。聖書の記述では、これが他のペリシテ王の差し金かどうか、そこまでは判りませんが、とにかく、一同は嘆き悲しみ、地に伏します。彼らはダビデを石打ちで殺そうとまで思いつめます。だが、ダビデが祭司を通じて神に問い、「追うべし」との託宣を得て、追撃すると、ちょうどアマレク人らがチクラグを襲って得た酒や食い物に酔い痴れているところに追いつき、一晩中かけて殺戮し、ラクダの乗って四百人が逃れた他は、全てを撃ち殺し、分捕り品も奪い返しています。その中にはダビデの二人の妻もいました。
 
また、この追撃戦は、ネゲブの沙漠地帯で行われたのですが、ガザに流れそそぐペソル川を渡河しての強行軍で、六百人の内、渡河できた二百人しか最後の討伐には加われなかった、とあります。しかし、アマレク人からの分捕り品を持ち帰った彼らをみて、居残った連中の中のよこしまな者らは、「自分たちは討伐に同道できなかったのだから、分捕り品の分配には預かれない。ただ妻子らを返してもらおう」と言い、ダビデはそれを遮って、「いや、兄弟たちよ。主が我らを守って、襲ってきた軍勢を我々に渡されたのだから、その主が賜ったものをそういう扱いは出来ない。討伐した兵らとその間、荷物の番をしていた者の分け前は等分でなければならない」と言い、それがダビデ軍の掟であり、それは今もイスラエルの定めとなっている、とあります。
これが本当だとしたら、ダビデ率いる傭兵隊の掟がイスラエルの軍律になったことになります。
 
この三日後に、サウル王軍はペリシテ五都市連合軍の前にギルボア山で壊滅し、ヨナタンも戦死します。冒頭のダビデの悲痛なる歌はその時の慟哭(さけび)です。
サウルやヨナタンの死後、ダビデは神命に従い、ユダのヘブロンに上り、そこで油を注がれ、「ユダの家の王」となりました。他方、サウル王の軍団長アブネルはサウルの子イシボセテを擁立し北イスラエル部族同盟の王とします。その後、両者は互いに代表を出してギベオン(エルサレムの北郊)に相対峙し、それぞれ十二名の戦士を出して一騎打ちを行いますが両者はともに差し違えて倒れます。よく意味が判らないのですが、この代表戦でどちらかが勝利すれば片方はそれに従い争いを止めたので、単なる儀礼的な緒戦にすぎなかったのか。
ともあれ、結着が付かなかったため、その後、両者は争いを劇化させユダヤの地は南北の内戦となります。しかし結局、サウル王朝は内訌によりイシボセテが暗殺され、殺害した家臣はその首級をダビデのもとに持ち来たりますが、彼はその二人の家臣を縛り首にしています。つまり、サウル王朝は二代目があり、ダビデはそれを継いだわけではなく、新たに興した王朝なわけです。
ここに至って、イスラエルの全部族が、ヘブロンに来て南のダビデ王朝に降り、イスラエル部族同盟の長老たちはダビデに油を注ぎ、契約を結ぶことによってダビデは三十歳にして南北ユダヤを統一します。この際、ダビデはサウル王が彼に嫁がせた後、去っている間に他の男に与えた娘ミカルを取りもどしています。
 
その後、ダビデはカナンの先住民エブス人がいたサレムの要害シオンを攻め、これを獲り、これをダビデの町と名付けます。ここは現在のエルサレム旧市街地ではなく、その南に連なる「オフェルの丘」とよばれる細長く伸びた小さな尾根にあり、東西南の三方を深い谷に囲まれて、東の谷に「ギボンの泉」と呼ばれる水源をもつ、天然の要害です。ダビデの即位を聞き、ペリシテ人たちが襲撃しますが、ダビデはこのシオンに拠って、そこから出陣し撃ち破っています。そしてサレム全体からエブス人を追放し、エルサレムと名を革め、これを全イスラエルの首都としました。
 
私たちは、なんとなく、エルサレムがカナン侵攻の初期からずっと全ユダヤ人の聖地のように思いがちですが、そうではなく、青史にエルサレムを登場させたのは、ダビデが嚆矢なのです。
エルサレムはユダ族の嗣業地にありますが、ヨシュア記によると、カナン侵攻の際にも、エブス人だけはユダ族は力では追い払うことが出来ず、この当時は、いっしょに住んでいたと思われます。しかし、全イルラエルを制圧したダビデの軍勢には勝てず、追放されたようです。申命記にはエブス人を含めたカナン先住民を「聖絶」せよ、と有りますから、その神命がやっと成就した形です。とはいえ聖絶された訳ではなく、後のゼカリア書には「(ペリシテ人たちは)ユダの一民族のようになる。(五都市の一つ)エクロンはエブスびとのようになる」(第九章第七節)とありますので、融和政策でイスラエルに呑みこまれたのではないか、と言われています。
サレムの町は、最も古い記録では、紀元前一五世紀のエジプト側のアマルナ文書に「ウルサレムのアブディヒバ王」からの外交文書があり、そこにある「ウルサレム」が今のエルサレムだと比定されています。ウルサレムとは「サレム神の礎」という意味で、サレム神とは、黎明と黄昏の女神なので、おそらく当時その神を祀った人々の聖地だったと推察されます。オフェルの丘は現在、アラブ人の密集居住地区でシルワンと呼ばれます。
 
さらにダビデは、先のオフェルの丘に自らの王宮を設け、昔は主に、エフライムの嗣業地シロの聖所にあった聖櫃(いわゆる「契約の箱(Ark of the Covenant)」)を移して安置します。その際、ダビデはヤハウェを祝して祭衣をまとって舞い踊るのですが、これがサウルの娘ミカルには品位がなく不評だったようで、彼女はダビデにそう直言して不興を買い、以後、二人の間に死ぬまで子はなかった。とありますので、せっかく取りもどした元嫁をダビデは見限ったようです。とまれ、この時から、エルサレムは名実ともにイスラエルの「聖都」となりました。
 
聖櫃は、出エジプト記からすでに、この通りに作成せよとのヤハウェの神命があり(やたらめったら細かい仕様書です)幕舎生活の間、ずっとユダヤ人はこれを移動しつつ運んでいたのですが、カナン定着後は、主にシロの聖所に置かれていました。しかし、ペリシテ人がエフライムを襲った時に掠奪されています。すると主の怒りで大層な疫病などの被害が出て、閉口したペリシテ人はユダヤにそれを返して寄こした。という逸話まであります。その後は聖櫃への言及は少なく、ヨシヤ王時代(紀元前七世紀)の「歴代誌下」に、ヨシヤ王がレビ人たちに「あなたがたはイスラエルの王ダビデの子ソロモンの建てた宮に、聖なる箱を置きなさい。再びこれを肩にになうに及ばない」(第三十五章第三節)と言ってからは比喩的表現以外、見えなくなります。
伝説ではモーセが授かった十戒の石版などが奉納されているそうですが、ソロモンの神殿が作られた後は、もはや幕舎での人員の移動もなく、聖櫃も動かす理由がなくなり定着したものと思われます。何度かの神殿崩壊のうちに失くなったようですが、その経緯を伝える記述はなく、そこから、いわゆる(インディー・ジョーンズのような)「失なわれた聖櫃(アーク)」の物語が簇出することになります。旧約のどこにも確たる記述はないのですが、無数の伝承に彩られることになります。なお、エチオピア正教会は未だに聖櫃を保管していると主張していますが、その教圏以外の賛同は得ていないようです。
 
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先の山本七平・三笠宮対談で、
 
「三笠宮 ダヴィドが神殿を作らなかった理由の一つは、遊牧的な宗教がまだ残っていたことだと思います。遊牧している場合には、もちろんお宮は建てられないし、いわゆる「神の箱」を持って移動していた。『サムエル記』にはペリシテ人にそれを取られた物語がありますね。そのくらい簡単なものだったわけです。それをダヴィドがエルサレムに持ってきたわけですが、そのときにダヴィドが祭司の服装をしていたと書いてあります。
山本  ダヴィドは神の箱の前で踊り、サウルの娘であった妻のミカルがそれを見て、内心で彼を軽蔑したという……。
三笠宮 「はねたり踊ったり」と記されていますね。これをペリシテ人との関係からクレタ島の踊りだと想像する学者もいますが……。それはともかくとして、ダヴィドが祭司の服装をしたというのは無視できませんね。おそらく従来は王を監視していた祭司長職まで自分が兼ねてしまうという意図だったのではないでしょうか。(中略)
しかしながら、神殿を建てなかったということは、やはり天幕生活の習慣が強く残っていて、固定的な神殿をつくることに踏み切りえなかったんじゃないかと思うんですがね。
山本  それがソロモンになると、明らかに神殿建設ということになるわけですね。
三笠宮 ええ、ですから、サウルは部族制、ダヴィドは古代国家への過渡期、ようやくソロモンのときに古代国家という感じがしますね」(八六頁から八七頁)
 
――と語られています。
その少し前の箇所ですが、ダビデの戴冠に関して、三笠宮は、
 
「それでダヴィドは南の部族同盟の王兼北の部族同盟の王になりました。つまり北と南の部族同盟を解体して一つの王国に融合したのではなく、今の英国のエリザベス女王みたいなもので、ダヴィドという偉大な人格の下に結び合わされた、いわゆるパーソナル・ユニオンだったわけです。こうなると、カナアンにおける勢力関係は、「ユダヤ+イスラエル」とペリシテという東西問題にまたなってきたんです。そして、ダヴィドが王都をつくったエルサレムは、北の部族同盟にも南の部族同盟にも入っていないエブス人のいた、いわば第三の地帯だったのです。そういう場合に、パーソナル・ユニオンの支配者は、どっちかの縄張りに入ったらいけないのでしょう。エルサレム、すなわち「ダヴィドの町」を守る軍隊としては、部族兵は信用できなかったので、以前から行動をともにしていたイブリーを中核とした親衛隊を駐屯させたのだと想像されます。『サムエル記下』にはダヴィドの親衛隊のなかにはペレテ人とケレテ人がいたと書いてあります。ケレテはクレタ島らしく、ペリシテ人がクレタ島から来たとも考えられるふしもあるし、興味深いことです。ペレテはペリシテがなまったのだとも考えられます」(八四頁から八五頁)
 
――と極めて明解です。
 
私は、ダビデがハビル人と関係があったという学説も、またその中にペリシテ人はともかく、クレタ島の人間がいた、という証拠もネット検索では掴み得ませんでした。だから、この説の真偽は判りかねます。しかしながら、三笠宮ともあろう人が(日本オリエント学会会長を務めた人が)、うかうかと論拠のない発言をなさるとは思えません。そして、三笠宮のこの発言が事実だとしたら、これまでのダビデ像は根底から崩壊せざるをえない。すなわち、ダビデは、ユダ族はおろか、ユダヤ人ですらなく、その起源とされるハビル人であった。彼が彼を王に推戴した南ユダ族も、北のイスラエル全部族も信用できなかった、というのであれば、当然、そうなります。彼はユダヤ人ではない。少なくとも、カナン入植以後の十二支族のいずれでもなかった。
 
そして、モーセ物語の記述とヨシュア物語の記述の制作年代が逆転しているならば、ダビデが率いていたハビル(イブリー)人たちは、一体、どこから来て、どこへ消えたのか。モーセがエジプトの奴隷状態から救い出した、とされるハビル人たちとは、一体、本当はなんだったのか。ハビル人がユダヤ人の祖である、という従来の見方が間違っていたとするならば、では、一体モーセとは何者だったのか。
 
さすがに、これ以上は、私の探究範囲の外にあります。かといって、先述したフロイトの妄想に近いような説を取り入れるわけにもいきません。そもそも、フロイトは、三笠宮が示した、モーセ物語とヨシュア物語の逆転の学説を知らなかったでしょう。だとしたら、万一、いくばくかの真実がそこにあったとしても、全面的には信用できないことになります。あとは、いくつかの実証された根拠や学説を組み合わせて、想像するしかありません。
 
ハビル人とは何者だったのか。
これはダビデが荒野を流浪していた際に、引き連れていた集団であると同時に、歴史的にヘブル人と同一視されていた集団でもあるので、この問いは、両方を同時に解とする二次方程式となります。そんな歴史のX(エックス)はあるのでしょうか。
 
整理すると、直接的な証拠としては、その存在が紀元前一八世紀のシュメール人の石碑から、紀元前一四世紀のエジプトはアマルナ文書にまで記述されている。
ダビデが王に即位したのは紀元前一〇〇〇年頃です。
だとすると、最低でも三世紀、最大では七世紀も開きがある。そこまで歴史があるのに、まだ地縁血縁がない集団とは一体どのようなものなのか。
まあ、もちろん、間に飛んだ空白の時間もありえますから、ずっとその集団が連綿と続いたとは限らないでしょう。カナン=イスラエル地方にいくつも在った、そういう無頼集団が、まとめて、そのように総称されていただけかも知れません。
だとしても、やはり謎は残ります。ダビデは、彼もまたその出自なのか、どうかはともかく、彼らの支援で王になっている。こんな盗賊的建国は他にありません。まるで、ロバート・E・ハワードの「征服王コナン」の世界です。そんなファンタジーみたいな話が現実に有りえたのか。いくら古代でも、イスラエルの周囲はキチンとした王国ばかりです。王制が取れない宗教だったとしても、じゃあ、なぜダビデだけ、それが可能だったのか。やはりハビル人がいたお陰なのか。古代へ馳せる想いは尽きませんが、それを知るよすがもない。残念です。
 
 
なお、過去には、ダビデ王の存在そのものが疑念視された時代もありました。まあ、イエスも似たようなものですが、あまりにも聖書にのみ依存した人物として、歴史上の生きた人間としては、本当に実在したかどうか判らない、というもっともな意見です。アーサー王やホメロスの叙事詩の中の人物に擬した学者もいます。
しかし、最近では、九三年にイスラエルの考古学チームがテルダンで発掘した石碑(ステレ)に「イスラエルの王でありダビデ王家(bytdwd=ベイト・ダヴィド)であったアハブの息子であるヨラムを、ある人物が殺害した」という仔細がアラム語で刻まれており、これは旧約の列王記や歴代誌の記述と照応しています。戦勝し建立した王の名は記名がなく不明ですが、アラム・ダマスコ王ハザエルが比定されます。
 
南北分裂時代で、双方に同一の名の王がいるので、ややこしいのですが、このヨラムは南ユダ王国の五代目の王で、北イスラエル王国のアハブ王の娘と結婚し同盟を結ぶなど、外交政策をよくした割りには国内は安定せず、その妻アタリヤがもたらした偶像礼拝により預言者エリヤから叱責を受けています。彼の代のうちに属領エドムは独立し、リブナ市もユダ国の支配から脱しています。そしてペリシテ人とアラビヤ人がユダに攻め上り、ヨラムの家族を奪い去って、彼自身は重病に罹って死にますが、誰も彼を惜しまなかったとあります。
付言すると、ヨラムの義父である北イスラエル国のアハブ王の妻はフェニキア人の都市シドンの王の娘で、彼女の影響からアハブ王もまた偶像礼拝を行ない、ユダヤ人の預言者を弾圧したため、旧約ではアハブも厳しく指弾されています。南北のユダヤの王国が外来の王妃からバアル信仰をもたらされ国が乱れたことになります。碑文とは異なり、旧約ではヨラムが外敵に殺害されたとは記されていませんが、前後の文脈から彼のことだと推察されます。
 
テルダン石碑は、おそらくこの間の事跡を記したものだと思われます。だとすると、直接ダビデ王の実在を記したものではないとしても、敵対するアラム人から、「ダビデ王家」と明記されている以上、ダビデも実在した、と考えられます。
 
ところで、ダビデが愛し、ダビデを愛したヨナタンは、当然、念友の率いている物騒な軍団のことも知っていたでしょう。その上で、もし暴露されたら石打ちの刑となる愛を交わした。ヨナタンは、ユダヤ人であり、王の子息であり、彼とダビデとの愛はダビデの出自がハビル人であったなら、それはギリシア的な異邦の土地の愛だと判っていたはずです。それでも彼はダビデを愛した。ダビデもまた文化の違いを超えてヨナタンを愛した。
この種の愛には、およそ国境も民族も宗教の違いも何ら障壁にはならなかったのです。
 
 
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