ミッドナイトスワン

人が生まれて死ぬまではあまりに長くて、突然に短いという。その一生のうちでわたしは、わたしたちは、何を残して立ち去っていくのだろう。

公開前からずっと観たいと思っていたけど、心のどこかでは見るのが怖くてなかなか観に行けずにいた。

私は同性愛者だ。
一通りの差別を経験して、それでも普通になろうとして、そしてようやく理解してくれる人たちに出会えた。けれど身内には隠して生きている。

映画の一報が私に届いたとき、「必ず観よう」「観なくてはいけない」と思った。
2020年が終わりに向かう現在でも、LGBTQ+は差別を受け続ける側のひとつだ。
問答無用で死刑になる国だってある。
«ふつう»に生活していても、ふとした瞬間に心に影が落ちることがある。
「男(女)なら」「結婚まだなの?」「ソッチか?」「流行りのLGBT」「趣味みたいなものでしょ?」「病気だ」「思っていたより普通なんだね」「子供がいると幸せだよ」「気持ち悪い」
気づかない人は気づかない。だけどわたしはこんな言葉たちを受け止めてしまう。自分の存在を否定して、立ち直って、否定して、認めて、挫折して…何度も死のうと思った。

そんなこともある。けれどここで書きたいのはそんな後ろ向きな話ではない。

観に行くまで葛藤はたくさんあった。
こころとからだの性、それを材料として扱うだけであってほしくない。
誤解を生むような表現はないだろうか。
おもしろおかしく消費されるものとして人物を描いていないか。
だからこそ、事前の情報をシャットアウトして劇場へ足を運んだ。わたしが上映前に触れたのは、公開を知らせるネットの記事一本だけだった。
主演:草彅剛(トランスジェンダー女性役)
本作で初演技の新人が出演
あらすじも確認しなかった。

スクリーンに本編が映し出されて数分、それらが杞憂だとわかった。
あまりにリアルで、言葉がない。息が詰まるほど、わたしはこの空気を、感情を知っている。それに対処する小手先の技術やその裏の諦めを、表情を…。

娯楽、消費されるべき属性や誇張されたキャラクターではなく、ドキュメンタリーかと思うほどの映画が制作され、しかも東宝系全国公開作として封切られた。その事実にまず驚いた。

この悲しいヒトを、人間たちをどう生かすのか。終わりまで目が離せなくなると直感し、そしてそれは正しかった。

この映画の主題は「トランスジェンダーの苦しみ」ではない。
「人間が生きるのはなぜか?」
この問(とい)であり、その一つの答え、«愛»だ。

「なりたいものになれない」、そんな悩みはありふれている。誰にだってある。老いも若きも、この世のすべての人間に共通する悩みだ。
凪沙も一果も、りんも瑞貴も、早織も、彼ら彼女らを取り巻くすべて、この映画の世界に生きる人も例外なく全員「なりたいものになれない」。
以下にあくまで例の一端を引いておくことに注意してほしい。綿密に見るならばすべて、あらゆることがその人それぞれに不条理だ。これらはきっかけにすぎない。

凪沙はおんなのからだに生まれなかった。
一果は実の親に十分育てられず、引き離された。
りんは親の期待どおりのこどもになれなかった。
瑞貴は愛するものに愛されなかった。
早織は狭い世界に一果を押し込めることしかできなかった。

世界が壊れているからではない。むしろ冷徹なまでに世界はスクリーンの外の現実そのもので、容赦がない。
誰もが孤独を支え合おうとし、幸せを願うのに、叶わない。
これがもし、一時(いっとき)の夢や希望を見せてくれるファンタジーならすべてを叶えて、そしてこの映画を閉じただろう。

けれど、この映画はそんな甘い世界を一切見せてはくれない。
孤独のなかに打ち捨てられた人間が、世界に追い詰められた人間が誰かを愛そうとし、そして静かに何かを願いながら立ち去っていく。
もし、甘い言葉やたやすいハッピーエンドがこの映画にあったとして、観たヒトの心に何が残るだろう?
それこそ消費されるべき娯楽、現実には存在しないキャラクターたちとして人物を「殺して」、そして忘れていくだろう。
ハッピーエンドに持ち込むこともできたはずだ。けれど、スクリーンの外に広がる新宿の街にそんな現実はありえないから描くことができなかった。フィクションのうちに世界を閉じてしまえば、人物の悲しさや孤独を描いた意味がなくなってしまう。

この映画は娯楽ではなく、気味悪いほどに煮詰まった現実だ。「こうであってほしい」「助かるはずだ」「成功するはずだ」あまりの悲しさに浮かんでくる期待はすべて砕かれていく。

みんなどうにか助かってほしいと願うほど、演技も状況も展開も現実そのもので冷酷だ。
そんな中で、安らぎや光を感じる場面の美しさに心奪われる。正直に言ってしまえば、そういう場面ほど嘘を感じる。けれど、心の通い合いやなにかが成就したそれらの瞬間の描写があまりに美しく、儚く、そしてしなやかな力に満ちている。思わず笑みがこぼれてしまったシーンもある。

本当の意味の強さや救いは、人の欲望を超えたところにこそあると思わされる。そこには性も金もない。だからこそ心に届く美しさがある。私はそう感じた。

この映画はまごうことなき«愛»の話だ。
全員が愛を求め、縋り、身を滅ぼしながらも何かを残して立ち去っていく。そこにこの映画の強さがある。
トランスジェンダーという言葉に惑わされていると、この映画の強さが感じられなくなってしまう。
観ているうちにひとりひとりの人間の話として、悲しさや喜びをもってスクリーンに向かっていることに気づいた。そして、彼ら彼女らを縛る呪いが一刻も早く解けることを願っていた。それはわたしが願うことでもあった。

映画の中の「男性」が、ことごとく差別する側、搾取する側として描かれていることは注意してほしい。なぜかといえば、これがマイノリティから見える世界そのもののつくりだからだ。
これを「男性差別」と呼ぶ向きもきっと出てくるんじゃないかと思う。だけど考えてみてほしい。これまでの映画やテレビ、あらゆるメディア、表現の世界の視点が男性を軸にしていたという歴史を。女性や性的マイノリティを差別し続けてきたという事実を。
女性アイドルの水着姿が堂々と放映され、「巨乳」や「美しすぎる〇〇」と過剰にキャラクター付けしたり、濡れ場初挑戦と大きく報じられたり、妊娠出産を一面扱いで報道したり…。枚挙に暇がないが、公然と男性が女性を抑圧するような表現に触れなかった人はいないはずだ。
一部のマイノリティを「オカマ」「オネエ」「女装」などと特別に面白おかしく表現した番組を見たことがないという人もいないはずだ。
多数の力が働くメディアで、未だにこうした表現は続いている。これも現実だ。
「世の男性はわたしたちを消費している」とわたしはずっと思って生きてきた。だから男が凪沙たちを傷つけることを当たり前と思って観ていた。この点は女性の友人と話していてはじめて気付かされた。だからといって男性を一括にするつもりはない。ましてや差別されてきた側はこれまで差別してきた男性を一括に差別していいとは全く思わない。それはこの世の終わりだ。全く愛のない不寛容な世界だ。

この映画を見て、「よくなかった」と感じる人がいればぜひその論にお目にかかりたい。できれは否定的な意見をもった方のうち、異性愛者で、心もからだも男性という自認があり、それを疑ったことのない人がこの映画を見て感じたことを知りたい。

私はこの映画をとてもいい作品だと感じる。全人類に観てほしい。職場や道行く先々で宣伝してまわりたい。そして一人でも多くの人にみてほしい。
これが2020年の東京の現実、映画にできる限界だと感じてほしい。
映画の中で少なくとも凪沙を救うことはできたはずだ。けれどそれをしてしまったらこの映画は嘘になってしまう。
徹底した現実を描いたからには(言ってしまえばバレエのシーンにはフィクション的な救いが多いのだけれど)、あの結末がこの映画の真実の終わりで、あれ以外はありえない。現実の限界と映画の限界がギリギリのところでせめぎ合っている。
東京、と限定したのには理由がある。劇中にも恐ろしい場面があったが、地方ではあれがリアルだ。わたしは東京に出てきても苦しいけど、田舎に残っていたとしたら…わたしは間違いなく死を選んだはずだ。それほどまでに地方の小都市では生殖至上主義とでも言ったらいいだろうか、男性でない男性、女性でない女性に対する黙殺、声をあげれば生きていけなくなる世界が当たり前に残っている。

映画の終わり、一果の美しさがまばゆく輝くのは、大きな悲しみを背負っているからだろうか、乗り越えたからだろうか。一果は何かを愛していること、そして愛されていることに気がついてすくなくとも「バレリーナになりたかった一果」を脱ぎ捨て、「バレリーナの一果」になることができた。望んでいた形ではなかったけれど、一果は愛に触れ、「なりたかったなにか」に近づくことができた。(じっくり語れるほどバレエに関する見識がないけれど、一果役の方のバレエは一果そのもの、という感じで見事。通しで見ると凪沙とバレエとに出会ってからの成長にものすごく光を感じる。)
凪沙はどうだろう。一果と出会って愛に触れ、気づき、何になったのだろう。わたしは、女でも母でもなく凪沙そのものになったのだ、と思った。
一果の人生の長さを想像し、そこにやさしさが満ちていることを願ってやまない。それはわたしたちが生きていく世界そのものとイコールなのだから。

私の人生もおそらく長い。この人生のなかで「ミッドナイトスワン」が公開され、観ることができたことは全身が粟立つほどの奇跡だ。
新宿のTOHOシネマズを出たあと、私は人にやさしくなりたいと思った。
何かを、愛の証明を残して死んでいきたいと思った。
私の存在を伝える人がいないとしても、遺伝子を残すことができなくても、私が生きたことを限りないやさしさで満たしたいと願う。たとえ土に風に消えていく定めだとしても、あらゆるものをやさしくつつみたいと願う。

追記(2020.10.16 16:42)
沢山の方が読んでくださっているようで驚いています…!
ひとつ書いておくと、これは「人」としてわたしが感じたことを書いておいたにすぎなくて、同性愛者がみんなこう考えるのか、男は、女はどうか、と分析されるようなものを意図してはいません。殴り書きですが極力語彙にも配慮して書きました。

作中のトランスジェンダーの扱い、演者がシスジェンダーであることにも議論がありますが、ここでは純粋に物語そのものを私個人と結びつけて書いています。
素晴らしい指摘や感想もほかにたくさんあります。どうか多くの意見に触れてください。