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魂のふるさと☆モロッコ探訪記🇲🇦

おはようございます。
のびたまごです。


1月2日、箱根の朝です。


今日は、何故か朝からnoteが書きたくなり、色々見ていたところ、#熟成下書き というお題を見つけたので、3年前に行ったモロッコのこと、とくに【サハラ】のことを当時エッセイにするつもりで書いていた文章を、オープン似してみることにしました。


以下、2018年2月18日に書いていた文章です。



魂のふるさと


さく、さく、さく、さく。


ダイジョウブデスカ。


耳に聞こえるのは、静かに砂漠を行く駱駝の足音。それから、ベルベル人のガイドの話す、片言の日本語。それに応える、ツアー参加者の声。


すっ、と孤を描いた月が、まだ夜明けには程遠い東の空に、赤いくらいに黄色く光っている。明後日は新月、という日だった。細いからこそ、より明瞭なその光は、無彩色にも思えるほどの濃さの紺色の空の中で、唯一、色を持ってそこにあった。


紺色をどこまでも煮詰めたような色の空のもと、わたしの中に共存しているいくつもの心など全く知らない駱駝は、一定のリズムを刻みながら、穏やかに隆起する砂漠の砂の上を歩く。そして、あの約束の場所へ、わたしを運んでいく。


わたしはというと、いざ目の前に迫っている現実に対して、不自然なまでに落ち着いた心と、あんなにも思い焦がれた瞬間が今、まさに訪れようとしているのにも関わらず、こんなに落ち着いている自分への驚きと戸惑い、それから少し・・・いや、たぶん結構な量の不安を抱いていた。それから、期待。あと、期待しても決して裏切られないであろう安心。もはや、不安なんだか安心なんだか訳のわからない心境だった。ただひとつ、これから体験することは、確実にわたしを変えるということは〈わかって〉いた。


さく、さく、さく、さく。


駱駝は進む。世界は、わたしが気の付かないほどゆっくりと、でも、はっと気づいた時にはとっくにといった不思議な速さで、夜明けに向けて時を刻んでいて、気が付けばどこまでも煮詰められていたはずのその紺色は、そっと綻び始めていた。ああ、そうか。駱駝はこの世界の秒針でもあるのだ。一歩進むたびに確実に時を刻み、わたしを、わたしたちを、世界を、その瞬間・・・そう、「約束の場所」へと、確実に誘っている。


その綻びから、少しの黄色と少しの紫、そしてピンクを水色と灰色の光が差し込み、混ざり始める。そして、世界は少しずつ、わたしの目にその表情を明かしていった。そしてわたしは気づいた。この目に見える範囲のすべてが海であり、山であり、丘であり、湖であった。この地球を形作る言葉の全てがそこにあった。そこは、「サハラ」だった。どこまでも「サハラ」だった。

「サハラ」というのは、ベルベル人の言葉で「砂漠」という意味であると、大好きな村山由佳さんの著書『遥かなる水の音』を読んで知った。「サハラ」とは、何という果てしない言葉だろうと思った。限りなく、果てのない砂の大地を、ひとつのことばに封じ込めるなんて、人は何という行為をするのだろう、とふと思う。でも、そうやって人は生きてきたのだ。そして、そうしないと人は生きてこられなかったし、これからも生きてはいけないのだ。「そういうこと」をわたしはもう知っている。


人は、いつ大人になるのだろう。先人が創った歴史など何も知らず、自然の味方をした気になって、「自然を言葉に封印」するなんてひどい、と批判をする者がいたとしたら、その者は大人だろうか。それとも、子どもだろうか。


わたしは、「自分は一人ではない」ことを知ったとき、人は大人になるのだと思う。それは、自分という一人の存在の中に、沢山の「他者」がいると知ること。その「他者」とは、自分以外の全てだ。今、生きているもの、かつて生きていたもの。これは人だけではなく、動物、植物、地球・・・そう、宇宙を構成する何もかもが、ここでわたしの表す「他者」なのである。それは、先祖から受け継いだDNAであり、昨日食べた夕食であり、親から譲り受けた概念であり、教わった言葉であり、いろいろなものとのかかわりの中で培われた価値観であり、未来に抱く希望であり、また不安でもある。今、自分の周りにいる家族であり、友であり、パートナーであり、住んでいる地域であり、日本であり、世界である。これらは全て、自分の外側にあると思いがちであるが(事実そうでもある)、外にしかないのではなく、全く同じものが全て内側にも存在している。そういった意味で、わたし、とは決して一人ではないのだ。一人の中にはすべてが内包されている。そして、その中では現在、過去、未来といった時間さえ、すべて同時に存在している。なにもかも、すべてのことが今この瞬間にも関わり合い、分離し、混ざり合い、またひとつになるというプロセスの中にある。そして、そのプロセスは常にわたしが「自分」だと思っているこのひとりの人間の中で起こっていることなのだ。

人は、「自分は一人ではない」ことを知ったとき、過去に自分に関わってくれたすべてのことに気づく。自分が子どもであった今のこの瞬間までにも、自分の外の世界は自分の意識とは関係なくそこにあったことに気づく。そして、「いつのときも、自分が一人であったことなど一度もない」ことを思い知るのだ。


自分も人であるということを忘れて、たくさんの先に生きた人たちの存在を無視して、ずっと一人で生きてきて、これからも生きていけると信じている。・・・そんな、純粋という名の、純粋なのは名前だけの、ひたすらに傲慢な少女。それは、間違いなく、かつてのわたしそのものだ。そして、その「子どもであったわたし」は、確実に今もわたしの中に存在している。


わたしにとって「サハラ」とは、まさにそのような場所であった。すべてを内包している、果てしなく遠い場所。そして、すべてを砂に戻す、はじまりの場所。

そして今、実際に自分の両目に捉えた「サハラ」は、その想像を遥かに超えた大きさで、スケールで、存在感で、・・・そこに、ただ、在った。


わたしは、ただただ、世界を見つめた。「サハラ」を、「わたし以外」を見つめた。


地平線の下で、陽が満ちてきているのが手に取るようにわかる。空の色は、まるで自分が紺色であったことなど忘れてしまったかのようにするりとその色を手放し、今はもう白く輝く透明な光の水色だ。ある部分は光の紫、赤、黄色。目を離した一瞬で、自分の目が今捉えていたものがすでに消え去ってしまい、また次の瞬間が訪れ、それと同時に前の瞬間が去ってゆく。ここには「今」しかない。今の連続でしかない。過去はなく、未来もない。

遠く遠く、霞んだ山の稜線が、一瞬だけ強く白く光り、濃くなったと思うか思わないかというその時、、目の前の世界は止まった。何もない、無の世界。


その世界の中で、太陽だけがするすると動く。そして、止まったはずの世界をみるみるうちに蘇らせていく。太陽が世界を蘇らせている間、世界はずっと止まっている。まるで、太陽だけが命を宿しているかのように。いや、きっと、その瞬間、世界が息を引き取ったあの瞬間、この世界では太陽だけが生きているのだ。きっと毎日、太陽がこの世界に現れるその瞬間に、世界は息を引き取り、あらゆる命は太陽へと還るのだろう。そして、命がなくなり、時の止まった世界に、再び命が吹き込まれる。


わたしは知らなかった。この世界は、毎日生と死を迎えている。命が吹き込まれた世界には、あっという間に光が増し、溢れ、空の色が変わってゆく。

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#熟成下書き はここまで↑でした!
続きをまた書くかもしれません(少し描きたくなっています)が、“下書き”としてgmailの下書きフォルダに保存していたのはここまでだったので、今はここまでで🏜🐪

わたしを【サハラ】へ誘ってくれた、大好きな村山由佳さんの小説『遥かなる水の音』の本、それに関するインタビュー記事たちのリンクを、最後に貼っておきます☟


自分で読み返しても、昨日書いたnoteと重なることがたくさんあって驚きました。

わたしはわたしなんだなあ。
わたしは変わっていないんだなあ。変わっているけど、変わっていない。

なんだかほっとした、新年2日目のあさでした。

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