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世界観と世界線、可能と不可能 2024/02/21 -2

結構ショックなことが続く。

正しくは「結構ショックだと自分が受け取ってしまうことが続く」だ。解決しても解決しても、何だかショックなことが後追いして現実にあらわれる。ダメ押しされてる感じがしてなかなかに辛い。

これはもしかしてもしかしなくても "星のせい"(ざっくり言語化してみると今の空の星の配置がそのまま、あるいは自分の持った星の配置と呼応して起こる様々なことを指します)なのだと思う。だから、必要なことが起こっているのだということはわかる。客観視し易いのは助かる。でも逆のだからもあって、見て見ぬふりができない。だから逆に辛い。

わたしはいつも、どこまでも自分に寄り添って、これが最善だと何度もなんども感覚を確かめて決める、ということをしている。わからないときはわかるまで基本的には決めないし、分かってしまったらその自分でもう決まったということだからそこからはもう変わらない。そして、そういうときにした決断というのは、実はもともとの直感とも合っていて、だから自分の中では最終的に違和感は無いし、それ以外の選択はないという確信を持って決断をする。そもそも、決まらないときは最初の違和感を見逃していたことが全ての原因なのだ。だからそれに気付いたら、起きている全ては自分のせいで、ショックなのはそれが今そのタイミングで露呈しているというだけのこと。だから、解決せねばならない向き合わなければならないこととしてフォーカスが当たっているのもわかるし、むしろそうだし、完全に白旗というか。

色んなリスクも鑑みた上で、でもこれ以外に答えは無いし、これ以外選べないし、見えている流れもそうだし、やはりそうだとしか思えない。その決断の結果、十分以上の気付きは受け取らせてもらい(そのひとつが1つ前のnoteに書いたことだったりする)、少しモヤモヤしたままではあったけど・・・・・・・・・・・・・・・・・、これで今回の事象の学びは終わり!と自分に対する残念な気持ちもしっかり味わいつつも、少し開放的な気持ちになっていた矢先、そのダメ出しはやってきた。

再度、同じくらいの衝撃を受けて、正直「わたしは何でこんなに打ちのめされないといけないのだろう」と思った。何も悪いことはしていない。しているとしても、その対価は受け取ったと思うし、解決もした。思い込みではない。ここで思い込みでした!という気付きと共に目からウロコが落ちるような中途半端な見極めはしていない。わたしの自分を信じる力と疑う力(2つ合わせて確信に至る力)をわたしは信じている。それは、ここまで言い切るくらい、自分と向き合っている自負があるからだ。

言いたい書きたいことが言えた《書けた》ので話を戻すことにする。先程わたしは、「少しモヤモヤしたままではあったけど・・・・・・・・・・・・・・・・・、」と書いていた。結論からいうと、この感覚があったせいで、わたしはまだ同じところをループすることになったのである。もう少し言葉の解像度を上げると、この感覚までしかクリアに仕切ってなかったせいで、その感覚以上にクリアになることを強要されたということだ。
誰からって、わたし自身から。

やはりわたしは甘いらしい。自分が確信があると思っている感覚について、その後何が起こってもそれはそれで、わたしの世界線はもうその選択の先のものに切り替わっていて、切り替わったあとのわたしがいる世界は、かつて(例えその 'かつて' が一瞬前だったとしても)存在していた世界線上のものではない。でも、明らかにそこが混在混線している。要するに、切り離しが甘いのだ。もっと細かく言語化すると、その切り離しのレベルに、自分の思考とmindで乖離があるのだ。だから、内側では迷いがないのに、目の前の世界にはわたしの思考を迷わせるような事象を起こさせて、そのmind setが間違えていることを教えてくれているのだと思う。

どう間違えているのか。そこにわたしの【甘え】が露呈している。書きたくない。でも書かなければならない。なぜなら、そこまでやり切ってやっと、この課題が終わるからだ。それをわたしは知っていて、そこに向かって走っているという自覚がある。

どういう思考が甘いかというと、どんなときも「ごめんなさい」を感じるのをやめない、という思考だ。これは、何を選んでいる思考かというと、「無価値感」や「罪悪感」である。今回の事象では「劣等感」も含まれたかもしれない。つまり、『わたしには相応しくない』という思考があるということ。

この思考が面倒臭い難しいのはなぜかというと、「そのせいにして変わらないを選択している自分」の幻影をわたしに見せることで、自分で自分に付け入る隙を与えているということ。つまり、既に変わった自分に対して、自分の思考に付け入れさせる隙を残しているということ。
その結果、このnoteの冒頭に記しているように、「終わったはずのことで再びショックを受ける」という事象が発生した、ということにしている・・・・・・・・・・。それが、今回わたしが見極め無ければならない【甘え】の正体だ。

わたしの在るべき世界線を選び、その世界観の中に既に在るとき、わたしは既に充ちているのだからそれをわざわざ揺るがせる必要は無いし、わざわざ、しかも同じ事象で同じショックを受けるなんてことは本当に無駄でしかない。エネルギーの無駄遣い、整えた自分のenergy/vibesを自ら乱している・・・・・・・としか思えない。

つまり、【甘え】の正体は、整えた自分のenergy/vibesを自ら乱している自分がいること、そうすることによって最終的に自分のせいにしていること・・・・・・・・・・・・・・、自分のせいにするという余地を残していることだ。

ひとことでいうと、『自分によって巧みに仕組まれた自己完結の罠』だということ。最終的に「自分のせい」にすることで、どんなプロセスを辿ったとしても、起こったことを有耶無耶にしてしまう。つまり、自分のせいにして=自分を罪人にして、自分が勝手に罪を被ることで解決するという最も幼い解決法なのだ。

正直、衝撃が大きい。この気付きに辿り着いた今の方が、余程ショックを受けている。冒頭に記したショックは、未来でショックを受ける自分の感覚の先取りだったということで良さそうだ。全然同じショックなんかじゃなかった。同じショックだと思った時点で、わたしは自分の罠に嵌ったことになる。「今回2度目どうにかして・・・・・・この罠に自分を嵌めたかったわたし」が、それと同時に「今のわたしがその罠から本当に抜けられるか/抜け切れるかを試したかった同じで違うもう1人のわたし」を通して、今ここにいるわたしを見極めるために起きた自己解放のための自己捕縛だった、ということか。

自己完結、あるいは自分のせいにする、以外の解決方法については、また後日考察したい。今日はここまででおしまい!はー、長かった長かった。きっとこの「長かった長かった」という声も、ふたりのわたしの素直な感想なのだろうと思う。



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