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自分クエスト

はじめての礼拝は、2022年のクリスマスのことであった

ぼくは、特定の宗教の信者ではなく、ただ世界の見方がおもしろいので「唯識」のことや「聖書」のことを本で読んだりNHKの「100分de名著」で見聞きしたりしている、節操のない人間だと自分では評価している。

そんなぼくが、昨年末、FBのタイムラインでにふと見かけた

もうすぐ札苗ライトハウスキリスト教会での、はじめてのクリスマスです。どなたでもお越しください。クリスマスは教会で!

札苗ライトハウスキリスト教会のFBページ

という投稿がきっかけとなり、ふらっと礼拝に参加し、それ以来月に2回くらいは礼拝に参加している。
「キリスト教信者でもないあなたが、なんで礼拝に?」と聞かれても、明確に回答できず、「なんか、日曜日になると、「あ、日曜日だ。礼拝だ。」って思わさるからなんだけど、なんで?って聞かれても、そう思わさるから。」と答えるしかない。
札苗ライトハウスキリスト教会の牧師さんが、牧師さんになる前からの知り合いだったから、っていうのも理由の一つではあるけど。

FPSかTPSか

今日(2023-04-23)も礼拝に参加した。
説教は、聖書の「ローマ人への手紙 5章 1-11節 十字架にあらわされた神の愛」を題材としたものだった。
その中で、以下のような言葉があった。

私たちも、この信仰の歩みの中で神様の愛がわからなくなってしまったり、また、自分の救いが確信できなくなってしまったり、そういうことがあるものです。
そのときに、自分の中の思い、自分の中の感覚や感情といったもの、これらは当然大切にすべきものなんですけども、しかしそれを最終的な根拠にして結論を出すものではない、ということなんです。
なぜなら、私たちのこの救いというものが、自分の中から出てきたものではなくて、外から与えられたものである、という性質があるがゆえなんです。
神様の愛は、私たちの内側から湧き出てくるものではないんです。そうではなくて、外から注がれるのが神様の愛なんです。

札苗ライトハウス教会 礼拝メッセージ 4/23 十字架にあらわされた神の愛

この言葉を聞きながら、ぼくは最近読んだ福岡伸一の「動的平衡2 生命は自由になれるか」の一節を思い出していた。

私は人生についても同じように考えています。どうしようもないこと、思うようにはいかないこと、取り返しがつかないこと。人生にはさまざまな出来事があります。
しかし、それは因果的に起こったわけでもなく、予め決定されていたことでもない。共時的で多義的な現象がたまたまそのように見えているにすぎません。観察するからそのように見えるだけなのです。

福岡伸一「動的平衡2 生命は自由になれるか」小学館新書

最後の「観察するからそのように見えるだけなのです」がしびれる。

去年の年末は、仕事上の不満や不安でいっぱいだったので、ちょっと思考停止気味だったんだけど、礼拝に参加したときに説教を聞いて「!」っていう言語化しにくい感覚があった。

なんていうか、それまではドラゴンクエストの戦闘シーンのような感覚・意識で自分の仕事のことや将来のことを考えていたんだけど、ふわっと意識が浮き上がって次の瞬間は町人から情報を聞き出している勇者(自分)を上から見ている感じになった、という説明では意味不明かも知れないけど。
「ははぁ、なるほど。自分があぁしたい、こうしたい、こうじゃないか?あぁじゃないか?っていろいろ思ったところで、どう転ぶかは自分じゃない誰か、なにか、何事かが影響していて、アンコントローラブルなんだな。」
って書くと、とても諦め感強めな感覚として伝わるかも知れないけど、そういうマイナスな感覚じゃなくて、もっと俯瞰的に「こいつ(自分)は誰と出会い、誰と働き、何を聞いて何を見て、どんな音楽が聞こえてきて何が見えているんだっけ?」と見るようになった、という感じかな。

ググってみたら、ドラゴンクエストの戦闘シーンみたいな視点のことを、FPS(First Person Shooter)っていうらしい。町人を相手しているシーンのような視点のことは、TPS(Third Person Shooter)だそうな。

その視点(TPS)に移行して以来、例えば仕事を辞めたいなぁっていう話を「今おれは、そのことを妻に話すべきか否か?」っていうFPS的な視点ではなくて、「こいつ(自分)は、そのことを妻に話すべきか?」っていうTPS的な視点から考える傾向が強くなり、目に入る情報やたまたま会う人、たまたま目に入ったSNSの友人の投稿などに対しても「自分がどう感じるか?」より「そのことがこいつ(自分)にどんな意味をなすのか?」って考えるようになり、気がついたら転職も決まっていた。

48歳から始める自分クエスト

繰り返しになるが、ぼくはキリスト教信者ではない。
でも、こうして(主体的にではなく)たまたま目に入ってくる情報や出会う人、出会う言葉、起こった出来事など、自分の目で観察すればそれらには連関性のない個別の事象であって、それらはそれらとして見えるだけなんだけど、ドラゴンクエスト(いや、「自分クエスト」の方がしっくりくる)のTPS的視点で見ると、それらが共時的、多義的に重なり合って今の自分と明日以降の自分、そして自分と世界のつながりへと影響している。
そういう「それら」のことを「神様」という言葉で置き換えて聖書を読んでみると、なるほどなぁ、となる部分がたくさんある。

それと同時に、「自分と自分以外を分別することはできない」という仏教の唯識思想についても、もしかしてそういうこと?っていうぼんやりとした感覚があって、洗濯物のたたみ方としまい方が微妙に神経質なぼくは、ぼんやりとしたままにしたくなくて、明日からも説明しにくい理由を抱えたまま本を読み礼拝に通うのであろう。

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