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読書メモ:アリストテレス政治学

第1巻 共同体についての緒論と家政論
アリストテレス/ 訳者:三浦洋(光文社古典新訳文庫)


第1巻 共同体についての緒論と家政論

第1章 最高の共同体としての国家:善の中で最高のものを目指す

それが、数多くある共同体の中で、国家と呼ばれるものであり、他の一切の共同体を包括する存在である。ここで「他の一切の共同体を包括する」とされるが、国家に含まれる共同体である村や家における支配関係(夫と妻、親と子、主人と奴隷)を国家における支配関係を同じく見ることは誤りだと指摘する。全体が要素の結合による場合、その結合されていない要素に分けて考察する、そのような探究方法が支持されるからである。そこに国家の運営や形成を論じる国家論と区別される家政論の立ち位置がある。

第2章 国家に至る共同体の自然発生:国家が先か、構成する共同体(村、家)が先か?

共同体の究極の目的は「自足」であり、国家は「自足」を極限までに達成した共同体である。この「自足」こそが共同体にとっての最高の善とされる。従って、国家は自然本性的に発生したものであり、発生は家>村>国家の順となる。

ただし、自然本性的な序列は、共同体の発生順ではなく、国家>村>家である。体全体が滅べば手足も存在し得ないのと同様に、全体は部分より先なるものだからである。(従って)正義は国家によって実現される。裁きが共同体の秩序であり、裁きとは正義に関する判定である。

「善の中で最高のものを目指すもの」という国家観は、善の定義は変遷しつつも、現代まで受け継がれている。善とは正義の実現すなわち法の執行という考え方は、生命や財産への危害からの保護という最低限の正義の実現を目指す夜警国家観から、私有財産の保護と契約の履行を保証する法治、憲法に基づく基本的人権の実現を保証する現代の国家観にまで通じている。さらに、最大多数の最大幸福を目指すべき善として再分配政策を正当化する福祉国家観も登場している。一方でロールズの正義論では、不平等が存在する現実を前提とする修正主義的な福祉国家観を批判し、社会契約論的に受け入れ可能な不平等の限度/最低限の平等と、機会平等主義に基づく正義を実現すべきことが主張されている。ロールズの福祉国家への批判は、価値観が多様化した中で一律に効用によって善を定義することの不合理性を指摘するものであり、積極的に善としての「正義」を定義すべきことを主張したものである。現代ではこうした複数の「善」が国家の目指すべきものとして取り入れられている。さらに言えば、現代では国家単位では「自足」を達成することは不可能であるが、国際間の交易ルールの整備など、国家の「共同体」として善の達成を目指すのが現代の国際社会における共同体観と言える。いわゆる列強諸国がそれぞれを中心とする経済圏としての「自足」を求めて帝国主義的な市場再分割を目指した結果が第2次世界大戦、との教訓があることは明らかだ。

第4-6章 家政の道具としての奴隷、自然な隷従と法的な隷従

自然本性的な奴隷とは、自分が自分自身の所有物ではなく、他者の所有物になる者。そのような隷従は自然に反するか?支配される側のものが優れているほど、支配それ自体優れたものとなる。魂の身体に対する支配は、主人の奴隷に対する支配に相当する。知性の欲求に対する支配(理性に従う欲求は自ら進んで支配に服する)は、国家の支配や王国の支配に相当する。そのように、優劣のある者たちが、支配・被支配の関係にあることは、双方に善いことである。

このような主張はともかくとして、この時代に「隷従は正しくない」との主張があったこと自体はむしろ驚きだ。もちろん、社会が奴隷制によって成り立っている、という当時の現実の中での議論である。真っ向から奴隷制を否定するラディカルな主張は出てきにくい。そこで出てくるのは「自然的な隷従は正しくないが、法的な隷従は是認される」つまり「戦争の敗者は奴隷になる、との協定に基づいて発生する隷従は法的には正しい」といった議論である。これに対して、アリストテレスは「そのような協定は正義か?」と問いを投げかける。そこで賛否は分かれるが、面白いことに双方の主張は「徳なくして力なし」で共通する。協定に異議を唱える者は、敗者への善意としての徳のないものが力により支配するのは正義ではない(力を持っていても徳が備わらないことがある)、と考える。一方の協定を支持する者は、力のあるものが支配するのが正義(力を持っているということは、すでに徳を備えている)と考えるのである。結局、自然本性的な隷従を認めない「リベラル」な論者は、奴隷制そのものを是認してしまっている以上、隷従の根拠に正義を求めても論理的な矛盾からはのがれられないのだ。

第8章 家政術と財貨の獲得術

家政術と財貨の獲得術は、同じか、一部分か、従属するか? 食料という財産は自然によって与えられる。自然が作り出すもの全ては人間のためにある。従って、財貨の獲得術の一種(狩猟術)は家政術の部分をなすのが自然である。自足という際限が当初から定められている。

第9章 交換術と貨幣

「際限のない財産の獲得術」は、家政術の部分である「際限のある財産の獲得術」とは別物である。所有物には2つの用途、使用と交換がある。ここで「際限のある財産の獲得術」、つまり自足を満たすための活動によって生み出された所有物の余剰の発生に伴う「交換」は自然に反するものではない。

一方、金儲けとしての「(際限のない)財産の獲得術」は交換術から生まれた。不足する物資を輸入し、余剰の物資を輸出する、そうした交易に依存するようになったことから、貨幣の使用が生じた。そして、貨幣の存在が、貨幣の獲得を目的とした所有物の生産とその交換を促し、それが交換術から「財産の獲得術」が生まれ背景である。こうした金儲けとしての「財産/財貨の獲得術」は、使用を目的とした家政術の部分としての「財産の獲得術」と異なり、目的の追求には際限がないのである。それは「人は、生きることに対しては真剣になるが、善く生きることに対してはそうではない」からで、享楽は何かが過剰にある時に生じるため、享楽に役立つ余剰を生み出す術が人々の求める術となるからである。

第10章 家政術の自然性と金融術の反自然性

金儲けとしての「財貨の獲得術」は、自然に基づく獲得術ではなく、交換として人間関係から財貨を獲得する術である。金融術は、貨幣が導入された本来の目的にも反し、貨幣そのものから財貨を獲得する術である。その反自然性が非難に値する点である。

第12章 父子間の支配と夫妻間の支配

父子間の支配は王国による支配に、夫妻間の支配は国家による支配に、それぞれ相当する。自然本性的に優れたものが支配するのが国家の支配であり、年齢・経験により優れたものが支配するのが王国の支配である。

第13章 家人はどのような徳を持つべきか: 奴隷の徳、妻子の徳

奴隷の徳とはどのようなものであろうか。主人の道具として奉仕する役割とは別に、節制、勇気、正義など個の人間としての性質についてのものであろうか? あるいは、道具としての能力こそが奴隷の徳と言えるものだろうか? 前者のような徳が奴隷に備わるなら、奴隷と自由人は何が違うことになるのだろうか? 逆に、そのような徳が備わることがないとすれば、奴隷といえども主人に奉仕する役割を果たす程度に理性を持つのであるから、やはり不合理である。

これは奴隷制度そのものが孕む矛盾ではある。しかし、この問題は現代の企業においても存在する。現代の企業における従業員の徳とは? 基本的には後者の立場であろう/であった。従業員の業績を客観的に評価し公平に処遇する、それが雇用者としての企業の善であった。しかし、現在では前者の立場も強調される。より正確に言えば、従業員が前者の徳を備えることを求め、その実現を可能とする環境を整える、それが企業の社会責任とされている。では、そのような徳が備わるなら、従業員と経営者・管理職は何が違うことになるのだろうか? 一人の人間としての徳を求めつつ、その徳に対して適切かつ公平に処遇することは可能だろうか。そこでは米国でのペイレシオが平均300倍に達する現実はどう解釈されるのだろうか。

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