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『君たちはどう生きるか』を僕たちはどう受け止めるか

『君たちはどう生きるか』、公開二日目に鑑賞。
少しずつ客席の照明が明るくなり、現実世界に意識が戻ってきたところで、「いったいなにを観ていたんだろう」と思った。

多くの場合、人はこうした状況下において、出し抜けに現れた狐の群れにつままれたり包まれたりしがちだけど、そうした捉え方はおそらく物事の本質を見誤ることになる。なにしろ狐は群れを作らない。これはもはや現代社会においてほとんど役に立たない、野生動物に関する豆知識。

いったいなにを観ていたんだろう。ぜんぜんわからない。この作品はなにを伝えようとしている? もしかして、作家性ゼロの僕が安易にメガホンを取って、有名作品をパクった『もっと君の膵臓をたべたい!』といった猟奇的な二次創作を提供した方が面白かったのでは?

きっと世間では、批判的な意見が噴出するだろうと思った。根拠はと言えば、そもそも『君たちはどう生きるか』という作品に触れた僕自身が今、批判的、控えめにいって困惑的な勢力につま先を浸しているからだ。そう、つま先を水面に浸してプールサイドに立ち、「スイミングスクールの館内に広がる残響音って、どうしてこうもやさしく懐かしく眠気を誘うのだろう」と何十年も前の記憶を思い返している。
現実離れした物語の引力から自分の居場所へと立ち返るために、一休和尚も嫉妬するほど華麗に頓知を働かせた僕は、海馬の橋のちょうど中央を悠々と渡り歩きながら、もうひとつの現実離れを手繰り寄せている。非日常を非日常で中和するのだ。

たとえばスイミングスクール。たとえば深さのわからない水。誰かが立てたバタ足の水しぶきと、遠近感の失われたホイッスル。そこに重なる若い男性コーチの掛け声。
記憶の奥に眠るくぐもった世界では、あらゆる音が他のあらゆる音に干渉している。あらゆる頓知が他のあらゆる頓知を出し抜いている。アスファルトが熱を帯び始める午前十時過ぎ、祖父母の家の赤いブラウン管から「とんちんかんちん」と陽気な歌声が鳴り響く。まだ夏休みの大半は手つかずのまま、見渡す限り水田の向こうに広がっていた。

ようやく映画館の座席から立ち上がり、周りを見回してみても、驚くほど皆一様に同じ表情を浮かべていた。「いったいなにを観ていたんだろう」と。出口へ向かう列に並んでも、「あれはどういう意味?」、「どうして主人公は……」、「そもそもあの鳥って……」と口々に不安げな声が聞こえる。
我々は、未来を見据えて目を輝かせた少年少女たちの成長物語を、あるいはどこまでも高く空を舞う飛行機たちの流麗な軌跡を、もしくは神々の住む静謐な森に轟く鉄の音と、それに抗う獣たちの咆哮を体験するために、ドルビーシネマの追加料金を払ったのではなかったか。それなのに。

いったいなにを観ていたんだろう。
この心の置き所のない状況は、一休さんのオープニング曲で無邪気に高められた小学生たちのテンションが、エンディング曲で静かにたしなめられる流れと似ていた。母上様、お元気ですか。

ちょうどそのとき、一匹の狐が海馬の橋の上で歩みを止める。そっと欄干に前足をかけ、際限なく広がる黒い海にじっと目をやる。そしてはてしなく深い景色の向こうにあるものを辿る。

水泳キャップを持参するのを忘れて、スクール共用の黄色い備品を借りている男の子を見つける。祖母が居間へと運んできた大皿に盛られた真っ赤なスイカに、待ちきれず手を伸ばす男の子を見つける。つばめの雛を拾うと言い張って叔父に叱られ、泣きながら神社の階段にうずくまる男の子を見つける。曇天の夕方に大きなテーブルの下に潜り込んで遊んでいると、いやな音を立ててリビングの電話が鳴る。そして受話器をあげた母親が、言葉を失って目を見開くところを見つける。つかさ君が亡くなったって、と母親が口にする。そんなことはわかっている、と男の子は思う。
男の子にはそんなことはわかっていた。だって不吉な呼び出し音が鳴ったから。なぜ母親にはわからないんだろうと不思議に思う。『わくわく動物ランド』を毎週欠かさず見ている小学生にとって、狐が群れで行動しない事くらいわかりきった事だ。人がいつか消えることくらい、もっとわかりきった事だ。

宮﨑監督もいずれ、この世界からいなくなるだろう。水田は枯れ、プールは解体され、『一休さん』のアニメはAmazonプライムに移行し、海馬を旅するための橋はくずれおちるだろう。そう遠くないうちに、必ず。

だからこの作品を作ったのだ。そこには一刻の猶予もない。
これまでに耳にしたどんな忠告よりも深刻な声で、「いったいなにを観ていたのかを考えろ」と告げている。僕はいったいなにを観ていたのだろう。客席の照明がもう一度落とされる。四十年前と同じ、心臓の音が聞こえる。


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