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雑誌と書き言葉

書き言葉を支えているのは、出版業界なわけでして、それが縮小してゆけば、国語が消えてゆきます。テレビの影響で方言が消えて行ったように。
国語が消えてゆくということは、日本人としての、とは言うにまたず、その人のアイデンティティが薄まっていくということですよ。
WEB上の文章は、データを情報化したもので、マニュアルを求める消費者にとってはそれで十分なのかもしれない。
でも、「編集」の目を通していない文章が増えていくと、自分をますます目的に対する手段と化すような、機能としての人間に、みずからなってゆくでしょう。
ものにキャッチコピーを必要としていない。雑誌に本文がいるのか。消費者が求めるのは、効率だから、「分かりやすい」情報、説明文だけがあればいいということになってしまいます。


雑誌の自由さ


昔は、たとえばポパイあたりでも、見開きぎっちぎちに本文が組まれていて、9級くらいの文字で、たぶんライターが文字数を間違えて、デザイナーがやけになって組んだとしか思えないような紙面がありました。
でも、読者としては、それを読むんですよ。イラストを入れるところがないから、70パーセントの網かけて背景に持っていくしかないような上に描かれた文章を。
それが「読者」でしょう。好きな雑誌なら、多少の困難は気にしないという。
やはり内容なんだと思います。カタログなら、WEBで十分でしょう。
編集が好きで作っているかどうか。
例えば、ポパイで「デザイン・オブ・ザ・イヤー」として、グッドデザインの特集をしていたが、美術雑誌でもないのに、ポパイがやる。それで、ポパイしか読んでないような、高校生、大学生に、新たな世界を示す。それが雑誌。
書籍というものは、ある程度、目当てを持って開くから、その期待に応えるものでなくてはならない部分もあるでしょうが、雑誌は読者がいまだ見ぬ世界を示す役割もある。それをファッション雑誌だからファッションを、美術雑誌だからアートをというのは、雑誌の姿を編集自身が分かっていないと言えます。
別に、東京人が椅子特集をしても、ノンノが建築特集をしてもかまわないと思いますが。見る側は、「これは編集が好きでやっているんだな」と思うわけです。

WEBによって最も影響を受けたのは、いわゆるグラビア雑誌でしょう。
世界中でWEB上で最も閲覧されているのはポルノらしいですから。
ところで、グラビア雑誌は、別にアイドルの水着姿ばかりが並んでいるのではなく、コラムや企画記事が少なからず入っていたんですよ。意外とレベルの高い人が書いていて、グラビア雑誌なら、批判が来ないから、かえって好き勝手に書いていたんですね。WEB上の画像はそれがない。寄り道がまったくないですね。
消費者は寄り道をしない。したがらない。少ない手数(クリック数)で目的のものを手に入れたがる。デザイナーは、それをもとにデザインをする。
それが、今はやりのデザインであり、広告をはじめとした媒体の姿になっている。
ものごとに「遊び」を入れてやらないと。

雑誌が個人のセンスをはぐくんてきた

雑誌には編集長と言うものがいます。
担当記事ごとに担当編集がいますが、それをまとめあげ、全体の統一感を出すのは編集長ですから、雑誌は、編集長のセンスがにじみ出ずには済まないわけです。
編集長が代われば、雑誌の雰囲気が変わることも少なくありません。
また、あえて変えようとする場合もあります。
連載のエッセイひとつでも、統一されたセンスがあります。
普通は。
たまに、何でこの雑誌に載っているのかわからない連載がありまして、また意外とそういったものが面白いものがありまして、その場合の書き手は編集長と私的なつながりで書いている方が多く、つまり、自由に書いてくださいと依頼されているわけです。
しかし、全体としての紙面づくりは統一感があります。

雑誌は毎号『特集』を組みます。
書籍と雑誌の編集、私はどちらもしたことがあるのですが、その違いは、書籍が一人の書き手によるものに対して、雑誌は複数と言うより多数の書き手、更にはカメラマン、イラストレターがかかわっているという点にあります。
近頃は、諸事情で書籍の形態を取りながら、複数の書き手による物もありますが、基本は一人で書き上げます。

その複数の人が同じテーマで書くと言うことですが、書き手も作家もいれば、美術家、歌手、芸人などさまざまで、これをまともにしかも青年期に読むとなると、そのジャンルにおけるある種の感覚(センス)が身につくわけです。
銀座特集なら銀座を様々な分野の人が書く。
それが建築であれ、YMOであれ、ワインであれ、デザインであれ、ひとつの特集を組んだ雑誌を読むことによって、その場やものに関しての知識が浅くですが身に付き、他人の感想を読むことでが自分もそれなりに対象のイメージが出来上がります。
これは、雑談に近い感覚だと思われます。
雑誌を読むと、なんだか、いろいろな人と雑談したかのような気分になります。

雑談が得意でないという人は雑誌を読むといいかもしれません。
実際、今の私は雑談くらいしか得意と言えるものがありませんが、20代までは雑誌ばかり読んでいました。

雑誌のいいところは、偉そうじゃないところですね。何と言っても。

雑誌が示すこうしたほうがいい、ああした方がいいという記事はライフスタイルの提案と言うほどの物でもないですし。あくまで雑談の中でのネタと言う程度に過ぎません。

それに対して書籍が示す提案は著者にも肩に力が張っているのか、どこか壇上からの言い回しに似て、読んでいるうちに、『それはそうかもしれないけど』と反撥心が頭をもたげてしまうことも少なくない。

出世する人は、そういうお話も素直に聞ける頭を持っているんですかね。

雑談は、人格をはぐくみます。
同様に、雑誌もまともに読んでしまうと、人格に影響を与えます。

私が20代の頃に読んでいた雑誌を挙げますと、

・ポパイ
・ブルータス
・STUDIO VOICE
・美術手帖
・Newtype
・ファミ通
・SPA!
・GON!
・BOM!

おっと、余計なものまでさらしてしまいました。
こういった雑誌をメイン特集だけではなく、連載記事や一色刷りの地味なページのささやかな特集も余さず読んでいました。
人格形成期にこういった雑誌を読みあさっていた私は、どのような人間と言えるのでしょうか。

近頃は、雑誌も横書きのものが出てきましたね。
日本語は縦に書くものだと思います。
横に綴ってゆく言語ではなく、縦に流れてゆく。
そこからもののあはれの感覚ができたと思いますよ。


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