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【民俗学漫談】龍

龍の成り立ち

龍は、中国の文化では神聖なものとされ、前漢から清に至るまで、皇帝のシンボルでした。

龍はその啼き声によって雷雲や嵐を呼び起こし、また竜巻となって天空に昇り自在に飛翔すると言われております。
姿としては、口辺に長髯をたくわえ、喉下には一尺四方の一枚だけ逆さについた鱗である逆鱗(げきりん)があり、顎下に宝珠を持っていると言われます。
秋になると淵の中に潜み、春には天に昇るとも言われます。

架空の動物ですが、では、いつ頃から中国の文化に登場したのでしょうか。

絵より先に文字が登場します。
前16世紀から前1023年まで続いた殷の時代、青銅器とともに文字が発達しまして、甲骨文字が用いられるようになりましたが、その中で龍を表す文字がすでに使われていました。

左上が龍を表す甲骨文字

甲骨文字というのは、亀甲・獣骨などに刻まれた中国最古の体系的文字のことです。

元々文字というものは、行政に必要、特に税の取り立てに必要で作り出されたわけでして、穀物ですとか、実際の動物ですとか、それらを数える数字ですとか、そのような現実的な理由からできたのですが、そうした現実的な文字に混ざって、龍があるということは、当時の人々にとっては、龍の存在は、現実であったということにほかなりません。

「竜」は「龍」の略字ですが、また古来より用いられてきた古字でもありますから、旧漢字と新漢字と言うわけでもありません。

龍の起源は、古代に長江や漢水に残存していたワニの一種ではないか、そのワニをトーテム(神話的な過去において神秘的・象徴的な関係で結びつけられている動物)としていた部族がいたのではないかとされています。

昔は気候が温暖でありまして、黄河流域でもいたるところにワニが生息していました。

『左伝』には、馮・舜の時代に龍を飼う人がいたことが記されており、『深山や沼地に龍や蛇が生えていた』という記録から、龍と蛇は別物であることがわかります。

中国において、鰐という言葉が最初に登場したのは3世紀末の西晋の文書『三都賦』にあるらしいんですよ。
 西晋と言えば、漢の時代も三国時代も過ぎたあたりですが、その時代になって鰐がいきなり中国に現れたというよりは、鰐のことを龍と呼んでいたのではないかという推測するのも頷けるところです。

西周時代以降は北方の気候が寒冷化し、黄河流域の沼地が消滅し始め、鰐は南下してから姿を消しましたが、改めて個体数が南の方で増えるにつれ、鰐と言う漢字ができたようですね。

ただ、鰐を見て、龍の象形文字を作ろうと思うかどうか。

角があるんですよね。鰐に角らしきものはありませんし、起き上がっているように見えまいすら、鰐を上から見たという象形でもなさそうですし。

また、龍を見ると、獅子の鬣(たてがみ)、虎の手、鷹の爪、鹿の角、牛やロバの頭や口、兎もしくは海老の目、魚の鱗、鯰の髭、象の耳、蛇の腹など、説は様々ですが、九つの動物の部分を集めた様な姿になっていまして、これも各トーテムを合わせたものではないかとも言われています。

南宋時代の博物誌『爾雅翼』では竜の姿を「三停九似(さんていきゅうじ)」、つまり首〜腕の付け根〜腰〜尾の各部分の長さが等しく、これが『三停』、九つの動物に似ている、角は鹿、頭は駝、眼は兎、胴体は蛇、腹は蜃、背中の鱗は魚、爪は鷹、掌は虎、耳は牛にそれぞれ似ているという説が記されています。

また龍はそもそも始めから実在の動物ではなく、竜巻や雷雨などの自然現象が象徴化されたものではないかという説もあります。

甲骨文字の龍を見ると竜巻に見えなくもありませんし、鰐を見ていても、天を駆け巡りそうにありません。

『易経』の坤卦には、「龍は野生で戦い、その血は黒と黄色である」とあり、また「龍は鄭石門の外の魏源で戦う」ともありまして、これは、平原や水辺で竜巻が衝突し、黒や黄色の土を巻き上げ、雨と混じって一緒に落ちる様(さま)にも思えます。

殷の時代に文字として出現する龍ですが、次の周王朝(前1023~前255)の時代にになりますと、水神信仰と結び付きまして、雷雨をつかさどるものとされたとこから、雨乞いの対象となります。

水神としての龍の信仰は、後に日本で盛んになります。

「九龍図巻」陳容画(南宋)、ボストン美術館蔵
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また、同じく周の時代には、徳のシンボルとされ、さらに、漢の時代になりますと、いよいよ皇帝のシンボルになります。

龍は、皇帝の象徴でもあり、『史記』によれば、漢(紀元前206年 - 8年)を興した劉邦(りゅうほう)が、生まれる前、父親が母親の上に龍が乗っている夢を見たと記されています。

さらに、宋の時代以降、強大で安泰下王朝が出現するに至り、龍の図像を民間で使用することが禁じられ、いよいよ龍は皇帝を表す象徴となりました。

明、清時代の王宮であります紫禁城(別称・故宮)にも龍の装飾が今も残っています。
紫禁城の玉座が安置されている乾清宮には、『正大光明』の扁額の下に龍の装飾が見えます。

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北京・紫禁城の九龍壁https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%9C#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Neun-Drachen-Mauer.jpg
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九龍と言いますのは、九は古代より中国では天の数とされ、龍は九の形態を持つとされています。

中国の龍は九つの117(9×13)枚の鱗(陽が81(9×9)、陰が36(9×4))を持つとされるなど、九の数字とかかわりがあります。

‪九竜図(1244年、宋朝、陳容画)‬https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E7%AB%9C#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Chen_Rong_-_Nine_Dragons.jpg

清朝の離宮の瀋陽故宮(しんようこきゅう)にも、玉座に龍の装飾が施されています。

崇政殿の玉座
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皇帝はまた、九つの龍をあしらった服を着ていました。

龍の礼服を着た乾隆帝
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伝統的に、龍は強力で縁起の良い力、特に水、降雨、台風、洪水の制御を象徴し、中国文化では、善良で優れた人々は龍にたとえられます。

中国の遺跡から発見された龍の文様で、最も古いものは、8,000年前とされています。

玉竜。紅山文化の出土品(約5000年前)

青銅器にも龍の文様があしらわれています。

三星堆遺跡(紀元前 2,000 年から紀元前 1,400 年)

龍は四瑞獣として朱雀、白虎、玄武と並び、四大吉祥の象徴とされ、青龍が東、朱雀が南、白虎が西、玄武が北を差し、また春夏秋冬にも当てはめられています。

玉で作った器物、玉器にも、龍は数多く用いられています。

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https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%99#/media/File:Huang_with_interlocked_dragon_design.jpg
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%99#/media/File:Ring_with_coiled_dragon_design.jpg

ウロボロスの蛇と同じ形態ですね。

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西晋蟠龍玉環,上海博物馆藏品

登竜門という言葉があります。困難ではあるが、そこを突破すれば立身出世ができる関門のことですが、後漢書の党錮伝、李膺によりますと、竜門は中国の黄河中流の急流で、ここを登った鯉は竜になるといわれたそうです。

ある日、一匹の鯉が龍門の下を泳いで行きましたが、進むことができず、鯉は龍門を飛び越えて他の場所へ泳ごうとしました。 数え切れないほどのジャンプを経て、鯉はついに龍門を飛び越えましたが、このとき鯉は別の姿に変わり、鱗に覆われた長い体、頭には角のような二本の角、そしてさらに四本の足が生え、鷲の爪も生えていまして、空に飛翔し、海に潜り、風や雨を呼ぶ能力を持つようになっていました。

竜の頭部をかたどった取手(前漢時代)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E7%AB%9C#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Gilded_Bronze_Handle_of_a_Dragon,_Eastern_Han.JPG

天之四霊(てんのしれい)は、中国神話に登場する四神(四象)で、青龍、白虎、朱雀、玄武のことでありますが、青龍は、東方を守護し、、春(1月、2月、3月)を司るとも言われます。
青に春で青春と言うことです。

青はブルーと言うよりも、緑のような色ですね。
古代は青と緑の区別をしませんでした。
赤白黒、明るいくらいを表す色の他は、その他の色でした。
緑なす山のことを今でも青山(せいざん)などと言います。
信号の緑のことも青と言いますね。

我が国では、奈良県の薬師寺金堂の本尊台座や、明日香村のキトラ古墳の石槨内壁の東側壁にも青龍が描かれています。
神社でも、社殿の欄間などに四神の彫像や絵がありますし、手水舎にも龍の彫像がありますね。

秩父神社
手水舎(てみずしゃ)

手水舎の場合は、青龍と言うよりも水神としての竜ですが。

青龍の瓦
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山海経』(せんがいきょう)という中国古代の伝説を集めたような地理書がありまして、その中に応竜(おうりゅう)という龍が出てきます。
麒麟に似ていますが、龍です。

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応竜は殷や周の青銅器、戦国時代の玉の彫刻、石の彫刻などからも発見されています。

四本足で蝙蝠ないし鷹のような翼があり、足には3本の指があり、天地を行き来することができるとされまして、水を蓄えて雨を降らせる能力があり、訳あって中国南方の地に棲んだため、応竜のいる南方の地には雨が多いのに、それ以外の場所は旱魃に悩むようになったという話です。

北斎の描いた応龍 一番上

『述異記』には、「泥水で育った蝮(まむし)は五百年にして蛟(雨竜)となり、蛟は千年にして竜(成竜)となり、竜は五百年にして角竜(かくりゅう)となり、角竜は千年にして応竜になり、年老いた応竜は黄竜と呼ばれる」とありまして、やがて、皇帝の色が黄色となるとともに、皇帝のシンボルとなるのです。

龍王は、青龍や応竜とはまた違いまして、元々、ヒンズー教のナーガが仏教に帰依したものとされ、古代の龍神信仰や海神信仰などとも習合しまして、道教でも信仰されています。

北京頤和園の龍王像
https://zh.wikipedia.org/zh/File:Longwang.JPG

インドで古くから信仰されていた蛇神ナーガや蛇神王ナーガラージャの漢訳が「龍」、「龍王」でありまして、唐代の頃には雨乞いの祭事として、東西南北中央の五つの方角の龍王である五方龍王に請雨祈願されました。
五龍王の祭祀は、現代においても広東省や福建省に存続しているようです。

ナーガはインドで古くから信仰されていました蛇の神様でして、インドの蛇と言えばコブラですから、コブラの姿で図像化されることが多くあります。

ナーガは釈迦が悟りを得る際に、守護したとされていまして、釈迦とともに描かれることが多いようです。
法華経の会座に列した八大竜王は、その多くがもとはインド神話に出てくるものでした。
龍と同じく、天気を制御する力を持ち、怒ると旱魃に、宥められると雨を降らすそうで、また、天候に関して責任感も持っているので、自身の感情を抑えたりもするそうです。

ナーガに守られたブッダ。ラオスの公園
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Buddha_Park_Nagas.JPG

コブラは中国にいませんからね。
伝わる過程で龍と訳されたものと思われます。
中国に仏典が伝わり、漢訳仏典が成立したのが、後漢の時代、紀元1世紀ごろでして、その後、4世紀ごろには、龍王という漢語がナーガラジャの訳語として定着し、やがて、水神としての龍の信仰と混ざる地方も出てきましたが、龍王と、龍は別の存在でして、龍王はインドにルーツを持ついわば仏様の一種でして、龍は、古来より中国の黄河や長江流域で信仰されてきた天候を司る伝説上の存在なのです。

龍王の龍は、龍と訳しただけで、龍とは違うんですよ。

方角と色を結びつける考えは儒教の経書にすでに見えまして、黄龍、青龍、赤龍、白龍、玄龍の五つの龍が青龍を含む四方位の四獣に加え中央の黄龍に当てはめる記載が『淮南子』にあります。
玄は、『くろ』と読みまして、黒のことです。

そうして、『仏説灌頂経』において、龍王と、この民間信仰であった五つの龍が結び付きまして、東方青龍、南方赤龍、西方白龍、北方黒 龍、中央黄龍の五方龍王として登場するわけです。

漢訳仏典に現れる前の信仰で、五龍の土人形を以て雨乞いをしていたらしていです。
神壇には五つの季節ごとに色の異なる土製の大龍と小龍を、田んぼの五方に並べて龍を祀っていたようです。

中国では、龍神信仰が盛んになると四方の海に龍王がいるとされ、これを四海龍王と呼ぶようになり、唐の玄宗が、751年に四海の神を封じてそれぞれ広徳王(東海)、広利王(南海)、広潤王(西海)、広沢王(北海)の称号を授けています。

これが、日本で有名な小説の元ネタですね。

五本爪の龍は、元、明、清の時代の中国皇帝の象徴であり、皇帝のみが使用することができました。 他の王室関係者や場所が竜の姿を使用する必要がある場合は「四本爪の竜」しか使用できませんでした。

明の時代になると、龍は皇帝の象徴として次第に次第に独占されるようになってきまして、皇帝は、5本の爪をもつ龍を、貴族や高級官吏は、4本の爪を持つと定められましたし、皇帝は九つの龍を描いた礼服を、官吏は八つ以下のものを纏いましたが、皇帝以外は、ローブで龍の模様を隠していました。

孔子廟の香炉の上にある五本爪の龍
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色も定められていまして、清では皇帝の龍は黄色または金で、明代では赤色でした。

帝位は龍の玉座と呼ばれていました。

三皇五帝と呼ばれる古代の帝王のうち、黄帝と伏羲は龍体を持つと言われていました。

「竜影」(帝王の姿)、「竜顔」(帝王の顔)、「袞竜(こんりょう)」(帝王の衣服。「袞竜の袖にすがる」といえば帝王に助けを求めるという意味になる)、「竜袍(りゅうほう、ロンパオ)」(清朝の皇帝の着る黄色の緞子の着物)など、龍と帝王の関係を表す言葉が残っています。

卧虎蔵龍とは、伏した虎に隠れた龍でして、つまりは、隠れた逸材という意味です。

中国北京北海公園(旧皇帝御園)の九龍壁にある皇帝の象徴の五爪の竜https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E7%AB%9C#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Nine-Dragon_Screen-1.JPG
唐(8世紀)時代に製造された3本指の竜を裏面に描いた青銅鏡https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E7%AB%9C#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Freer_013.jpg
朝鮮国の李成桂の官服に描かれた五爪の竜https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E7%AB%9C#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:King_Taejo_Yi_01.jpg

日本に伝わった龍

竜図(葛飾北斎)

中国では、数千年前から龍がイメージされてきましたが、日本にも、弥生時代、紀元1世紀にはすでに伝わっていたようでして、大阪府和泉市の池上曽根遺跡から、胴をくねらせ三角の無数の突起を持つ動物が描かれた土器の壺が出土しています。

記紀神話によりますと、初代天皇の神武天皇(記紀では、彦火火出見尊)は、海神の龍宮に住む八尋和邇の豊玉姫や玉依姫などの龍の化身の子孫であり、妃に龍を迎え入れる構図をとって龍が中国の支配者である皇帝自身を表すのとは対照的な思想であります。
また、出雲神話の、八岐大蛇は、川の氾濫をモチーフにした者ともされておりますが、龍は、我が国においても、海、川、山などの比喩とされることもあります。

記紀神話には、ヤマタノオロチが登場します。
八岐大蛇などと書いたりします。
頭が八つ、尾が八つ、谷を八つ渡るほどの大きな体で、その表面には苔や杉が生えています。腹は血で真っ赤にただれ、目はほおずきのように赤いとされていますが、これは山の象徴、また、赤いのは、製鉄、又は鉄鉱石を表しているものと思われます。
火山ぽいですが、出雲の方には火山はなさそうですので。

通過切れて神話のような形をとっていまして、主人公は須佐之男命(スサノオノミコト)です。
高天原で暴れて追放された須佐之男命は、出雲国の肥河(ひかわ)の上流に降り立ちます。
そこで生贄(いけにえ)にされそうになっているクシナダヒメを知恵を働かせて、救い出すという説話です。

ヤマタノオロチの力は強大でして、須佐之男命は酒を飲ませて、酔っぱらわせることにしたんですね。

まずはクシナダヒメを櫛に変えて、髪に差します。
続いて、八塩折之酒という何度も醸造を繰り返して強くした酒を用意してもらい、防御のために垣をめぐらせ、垣の間に八つの門を作り、それぞれに酒を満たした酒桶を置きました。この辺の数字も呪ですね。
そこに、ヤマタノオロチがやって来まして、酒があるものですから、八つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出した。
ヤマタノオロチが酔って寝てたところで、須佐之男命は十拳剣(とつかのつるぎ)で切り刻んみました。
このとき、尾の中から出てきたものが、蚊の三種の神器の一つである天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、もしくは草薙剣(くさなぎのつるぎ)と言うわけです。

稲作を象徴するクシナダヒメを守り、我が物とし、洪水や氾濫を象徴するヤマタノオロチを制するという構造のお話です。

日本略史 素戔嗚尊描かれたヤマタノオロチ(月岡芳年)

八という数字がやたら出てきますが、古代日本においては、中国と違いまして、偶数を重んじていた、その最大の数としての八ですから、具体的な数字ではなく、『たくさん』という意味です。

ヤマタノオロチもまたが八つなら頭は九つじゃないかとか、そんな現代の数勘定はナンセンスなのです。

たくさん、大きいという意味で使っているのですから。

先ほど、出雲国の肥河(ひかわ)と出てきましたね。
これは緋、つまり赤い色、砂鉄が良く取れた川ではなかったかとされています。
出雲はまた、製鉄の盛んな所でありました。酸化鉄は赤いですから。
関東地方に氷川神社が多くありますが、御祭神は須佐之男命でありまして、どうやら、出雲族が関東に移住してきた際に、氷川という名称も受け継いだのではないかとされています。

龍の剣と言えば、不動明王が手にする炎の剣は、俱利伽羅龍の化身とされます。
剣は炎の龍とされて中世には俱利伽羅龍が刻まれた剣は多く、戦国時代になりますと、武士の兜にも龍を象(かたど)ったものも現れます。

不動明王(醍醐寺蔵)
倶利伽羅龍剣二童子像 奈良国立博物館蔵

日本におきましては、龍宮の伝説が各地に残っていまして、記紀神話でも、綿津見神宮(わたつみのかみのみや)と言いまして、海神の住んむ宮殿でありますが、龍宮もそうなのですが、海を支配する龍神というのは、中国の四海竜王、竜王が四方の海をそれぞれ統治しているといった伝承に基づいて、『龍宮』と呼んだのでしょうね。

ホタルイカは龍宮の使いとされているそうです。

日本人には、龍と言う存在になじみはなかったものですから、龍宮と言いましても、お話としては、実際に龍や竜王の登場するシーンはあまりないようです。
飛鳥時代以降、中国文化の影響を受けた仏教の龍が伝わりました。

日本の龍宮とは、海の中にある別世界という感じなのではないでしょうか。

シェイクスピアにおける森、らんま1/2の呪泉郷みたいなものですよ。

「釈迦八相記今様写絵」 二代目歌川国貞(歌川国政)

仏教では龍は八大竜王なども含めて仏法を守護する天竜八部衆のひとつとされ、恵みの雨をもたらす存在でもあります。

仏教における竜王のうち善女龍王(ぜんにょりゅうおう)は雨乞いの対象として、我が国で信仰されてきました。

治水や灌漑技術が未熟だった時代には、河川の氾濫や旱魃が続くと、龍神に食べ物や生け贄を捧げたりしたようでして、仏教が盛んになるにつれ、朝廷の命により、高僧が祈念を捧げるといった雨乞いの行事が行われました。
神泉苑(二条城南)で空海が祈りを捧げて善女竜王(清瀧権現)を呼び、雨を降らせたという逸話が残っています。

824年(天長元年)、淳和天皇に命ぜられて、空海が善女龍王に祈願して国中に雨を降らせた伝説に始まり、『今昔物語集』第14巻、「弘法大師修請雨経法降雨語第四十一」にも、空海の請雨に応じる善如龍王が登場します。
姿は、金色の蛇だったようです。

長谷川等伯『善女竜王像』(安土桃山時代)

平安時代になり、『法華経』や密教が浸透するにつれ、日本における龍は、水の信仰と結び付き、水神、水のある場所の神としての性格を強めてきます。
仏法の力に依って、龍神に応じてもらうことができると信じられたのです。

9世紀には室生寺に竜穴(りゅうけつ)の記録が現れ、雨乞いが行われるようになり、竜穴はその後も日本各地の寺社に現れ、中世には竜穴同士は地下で繋がっており、竜もしくは蛇竜が行き来しているという観念が生まれたのです。
江の島にもありますよね。

龍神と鐘の関連性を示す伝承も残っておりまして、
尾上神社(兵庫県加古川市)の鐘についての伝承でも、鐘を海中に動じたとこ、海が大荒れから薙ぎになったとかあります。
隅田川にも鐘ヶ淵という地名がありますね。

ちなみに、カネボウはもともとの鐘ヶ淵紡績の略だそうです。

鐘というよりは、鉄を求めるのかもしれません。
そうなると、ヤマタノオロチ伝説が、製鉄や鉄鉱石の産地で発生したものと結び付いてきますね。

さらに、後になると、ヤマタノオロチ、またが八つなんだから頭は九つだろうということで、八大竜王の九頭竜と同化した結果、北陸や信州の黒龍伝承、九頭龍伝承に置き換えられて行きました。

信州の戸隠神社の御神体の戸隠山は、天照大神がお籠りになられた天の岩戸を天手力雄命が力任せに投げ飛ばしたとき、その一部が飛んできて山になったという伝説による名前です。

戸隠神社には九頭龍社(くずりゅうしゃ)が祀られておりまして、創建がいつの頃なのかわからないほど古くからの信仰があり、元々の古い地主神を祀ったものとされています。
戸隠山には戸隠三十三窟といわれる洞窟が点在していまして、そのうちの「龍窟」にあたるります。
本殿から本殿右手上の磐座の上まで廊下が続いており、そこが「龍窟」となりますが、これも、日本独自の龍の信仰でして、山と洞窟が、龍を媒介として水の信仰となったものでしょう。

中国の場合は、龍は秋に淵に潜むなど言われていたのですが、日本では、洞窟と結び付いたようです。

高千穂峡なんて、龍が潜んでいてもおかしくはないですが。

鎌倉中期に記された『阿裟縛抄諸寺略記』によれば、修行者の法華経の功徳によって、九つの頭と龍の尾を持つ鬼がこの地で岩戸に閉じこめられ、善神に転じて水神として人々を助けたという言い伝えが残されています(調伏善龍化伝承)。
その後、九頭龍権現として崇められ雨乞いが行われるようになり、雨と水を司る他、歯痛の治療にも霊験があり、好物の梨を供えると、歯の痛みを取り除いてくれるとされています。

奥社および九頭龍社参道の杉並木https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E9%9A%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Tree_lined_path_to_the_Togakushi_shrine1.jpg

北陸においては、白山信仰に九頭龍信仰が習合していまして、717年(養老元年)に修験者の泰澄が加賀国(当時は越前国)の白山で瞑想していた時に、緑碧池(翠ヶ池)から十一面観音である九頭龍王が出現して、自らを伊弉冊尊(いざなぎのみこと)の化身で白山明神・妙理大菩薩と名乗って顕現(けんげん)したのが起源とされています。

白山権現(仏像図彙)

箱根の箱根神社は、古代より、山岳信仰がなされてきまして、鎌倉時代になりますと、時の幕府の信仰厚く栄えましたが、天平宝字元年(757年)に万巻上人が人々を苦しめていた芦ノ湖の九頭龍を調伏し、今に至る九頭龍神社本宮を建立して、九頭龍を守護神として祀ったとされております。

おおよそ、各地の九頭竜信仰を見ますと、河の化身である龍が暴れて、それを退治してから、豊かな土地になったという、治水を神話として描いたものか、旱魃(かんばつ)が続いたために、祈願して雨を降らせてもらったという灌漑に至る経過を神話として描いたかに大別されます。

龍神は日本では、河や雨を象徴する水神としての信仰が定着しました。
九頭龍神は、中国にはない、日本で発達した信仰のなのです。
皇帝を象徴する九龍と混ざったのでしょうか。

暴れない九頭龍神のお話もあります。

平城京の跡から発掘された木簡には、奈良の南山に住む九頭一尾の大蛇に疫病(天然痘)の原因となる鬼を食べて退治してもらい、都での流行阻止を祈願したとされる文が書かれています。

近江国三井寺(園城寺)金堂の近くには天智天皇・天武天皇・持統天皇の三帝が産湯に用いたという霊泉が湧いています。
この霊泉は「御井(みい)」と呼ばれ、「御井の寺」から三井寺の通称となったものでして、その霊水は、古より閼伽水として金堂の弥勒菩薩に御供えされてきたものであります。

この御井の霊泉には九頭一身の龍神が住んでおられるとの伝承が残ってります。
その九頭龍神は、年に十日の間、丑の刻に姿を現して、黄金の御器を用い水花を金堂の弥勒菩薩まで供えに来られるという。
そのため、その期間は泉のそばを通らない仕来たりであった。近づいたり、覗いて見るなどの行為は、「罰あり、とがあり」と言われ禁じられてきた。

神様を見てはいけないという信仰ですね。

浅草寺境内の九頭龍権現(右)

絵画においても、龍は多く描かれるようになります。

歌川芳艶 本朝武者鏡 二位の尼 安政3年(1856年)
葛飾北斎 全身龍
曽我蕭白 雲龍図 宝暦13年(1763)
伊藤若冲 雨龍図 1760年代後半
円山応挙 雲龍図屏風 安永2年(1773年)

『富士越龍図』(ふじこしのりゅうず、ふじこしりゅうず)は、江戸時代後期の浮世絵師葛飾北斎の最後の作品とされる肉筆浮世絵です。

北斎 富士越龍図 嘉永2年(1849年)

龍と言えば、虎ですが、竜虎相搏(りょうこそうはく)、竜虎相搏(りゅうこあいうつ)などと申しまして、竜虎と言えば、力量の伯仲した二人の強者のたとえであります。

古代中国より絵画においても龍虎図は画題として用いられ、『易経』に「龍吟ずれば雲起こり、虎嘯けば風生ず」、「雲は竜に従い、風は虎に従う」との記述から一般に広まったものとされています。

狩野山楽 龍虎図屏風
長谷川 等伯(はせがわ とうはく) 龍虎図屏風 慶長11年(1606年)

龍は縁起物にもなっていますので多くの画に描かれていますね。

尾形月耕『月耕随筆』のうち、龍昇天

来年は辰年ですね。昇竜のように昇って行きましょう。

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