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【小説】グラビア編集のABC【148枚】

一 

「セーラー服に大人の下着を着けるからエロいんだろう」
息巻いて言ったのは、白のポロシャツもはじけんばかり、巨躯の副編集長、塩田さんである。
「初めて聞く説ですが、白とか縞とか、そういうのがマッチするんじゃないんですか」聞いたのは、二十歳の学生アルバイトの谷崎くんである。
「違う。逆に、エロいかっこうで下着が白だから、エロティックな錯乱が混沌を生み、リビドーが発生するわけよ」
「クロスさせるわけですか」
「そう。コントラストというものがリビドーをかきたてるんだ。なあ、川崎さん、デザインでもそうだろう」
塩田さんは、川崎さんに同意を求めた。川崎さんは、顔の細長い、茶色い髪の長い、スカートも足首さえ見えないようなのを好んではく、おれより五歳年下の編集者で、今日も、いつもと同じ、デニムっぽいマキシスカートをはいている。
塩田さんが川崎さんに聞いたのは、川崎さんがデザインの専門学校を出ているためだろう。
「リビドーとコントラストの関係はともかく、デザインで、コントラストは基本のきですね」
「現実に存在するある物とある物を組み合わせると、現実にない物が出来上がる。デカルトがそれっぽい事を言っていたな。それが目くるめきのイメージ」
難しい事を言ったのは、編集長の横山さんである。
横山さんは、おれより五歳ばかり年上で、塩田さんと同い年である。大黒天を若くして、チェックのシャツを着せ、髪を七三に分けて、黒縁眼鏡をかければ、だいたい横山さんになる。
「二十五歳がセーラー服を着る。それで、デカルトは組み合わせによって、エロくないものがエロくなるって言ったんだね、なあ、唐木くん」
この雑談なのか、方針を定めているのか、それとも谷崎くんへの教育なのかわからない編集会議も、とうとう、おれのところにも同意を求めてきた。おれにデカルトなどわかるわけもないが、デカルトは、エロもなにも言っちゃいないだろう。それでも、話を合わせるのが無難だ。
「え、まあ、そうですね。当たり前です」
窓の下の大通りでは、夜の空が降りてきて、ふつうのサラリーマンの方々は家で団欒をしている時間だというのに、赤茶けたビルの五階にあるミーティングルーム2での放課後の駄弁のような編集会議にたゆたう身となれば、しぜん今日の晩飯に頭は向くわけで、『かつおぎ』のマグロカツ定食にするかな、今日まで三日連続『しおい』のナポリタンだったから、魚を食わないといけない、などと今日の晩飯の結論を出さずにはいられない。
晩飯の結論が出たので、再び編集会議に頭のチャンネルを合わせる。
「わかりました。スクール水着を大人に着せるからエロいんですね」谷崎くんが言う。
 そこまで飛んでいたのか、遠くに行ったものだな、谷崎くん。
「無際限に出ようとする混沌をスクール水着に転化するわけよ。大人がはくからリビドーが湧きだすのだ。こう、エロティックな一つのゾーンを隠してだな」
塩田さんは拳を立ててまで力説している。
「じゃあ、次号のコンセプトも決まったし、ついでに谷崎くんの学習も進んだし、じゃあ、がんばりましょう」
編集長の横山さんは、そう言って、口もとに満足した色をあらわすと、眼鏡を外した。
「はーい」
おれも混ざって返事をしたところで、グラビア雑誌、『月刊アイドルマジック』の編集会議は終了である。


「スカートは、だいたいエロだと思うんだ」塩田さんが横山さんに言っている。
「フリルが多いピンクの安っぽいスカートは、なぜか、下着を着けていないように見えるから不思議だ」塩田さんも自説を述べる。
「腰回りを写して、いちばんエロいのはミニスカート。見えすぎよりエロい」
トップの二人がエロティシズム表現を追求しはじめた、午後八時、
「じゃあ、おつかれさまでしたー」
おれが、編集部を出ようとすると、谷崎くんが呼ぶ。
「唐木さん、飯食いに行きませんか。今日、給料日なんですよ」
「アルバイトは二十日だっけ。いいよ。行こう、行こう」
「じゃ、私も行く」と川崎さん。
塩田さんが立って、
「なんだ、上司の悪口会か。そんなら、俺も行く権利があるな」
「俺にだって、上司はいるからね」と横山さんも言う。
「はは。まあ、三人で行ってきな。おつかれ」
「おつかれさまでした」

 外は、夜風が葉桜を揺らせていた。肌寒かったが、食えば温かくなるだろうと考えながら、三人で店へ向かう。
『かつおぎ』の間口にかかった『大衆食堂』と染め抜いた暖簾をくぐると、店内はほとんど満員だったが、ひとつだけテーブルが空いていた。
カウンターの内側から、おやじさんが、「いらっしゃい」と声をかけてくる。
うちの出版社の営業の人が、カウンターで晩飯を食っているのが見えた。
 割烹着のお婆さんが、盆に湯呑を三つ載せて、こちらのテーブルへ来た。からくり人形のような歩みである。
 ここのお婆さんは、割烹着がよく似合う。割烹着姿のまま、能舞台に上がっても、遜色(そんしょく)がないだろう。
「こんばんは。どうぞお茶を」
お婆さんは、湯呑をテーブルに置いてゆく。
「こんばんは。マグロカツ定食をお願いします」
「私も、マグロカツをお願いします」
「じゃあ、僕も」
「かしこまりました。おそろいで。今日は給料日ですか」
「そんなところです。今日は会議で、揃って帰れたので一緒に来ました」
「そうですか。では、おまちください」
おばあさんは、からくり人形の歩みで厨房へ向かった。
「谷崎くんて、普段、晩御飯どうしてるの? 作ってんの?」と川崎さんが聞いた。
「作りますよ」
「どんなの作るのよ」
「納豆とか」
「料理じゃないじゃん」
「納豆、うまいんですよ。安いし」
「まあ、学生の一人暮らしじゃ、ナンバーワンメニューかもしれないけど。納豆も最近食べないなあ」
「唐木さんは、作ってくれる人が」
「いないよ」
「え、いないんですか」
「そうだよ。別に意外じゃないでしょ」
「唐木くんは、いろいろあるからね」
川崎さんは、おれよりも五歳年下で、会社でもおれの方が先輩なのだが、なぜか、『くん』づけで呼んでくる。別に、女子からくんづけで呼ばれるのは嫌いじゃないから、おれもなにも言わない。
「僕は、川崎さんと付き合ってんのかと思ってました」
「なんでだよ」とおれが言うと、ほぼ同時に、「なんで」と川崎さんも重ねる。
「いや、入ってきた時、二人で芋羊羹を仲良さそうに食べてたし。唐木さんの事、くんて呼ぶし」
「芋羊羹を仲よさそうに食べていると恋人なのか。どこの風習だ、そりゃ」
マグロカツが来た。
「まあ、食べよう。いただきます」
 おれのマグロカツだけ、衣の色がきつね色を通り越して、焦げ茶色になっているが、まあ気にするのはよそう。
「唐木さんて、もう何年いるんですか」
「もう、何年いるんだ、私は。今、四十だから、二十年くらいはお世話になっている気がする」
「唐木さん、四十歳だったんですか。川崎さんと同い年くらいかと思ってた」
「そりゃ、川崎さんに対してどうかな」
「あ、すいません、二十七くらいに見えるって事で」
「いいのよお」
川崎さんは、目を細めて言った
「よく見りゃ、四十ですよ、私も。眼鏡でごまかしているだけ。でも、五歳でも若く見られたら嬉しいかも」
「川崎さんて、僕とあまり変わらないですよね、年」
「フォローが遅ーい」
「そういえば、唐木さんて、結婚はしないんですか」
「していたよ」
「していたよ、というと」
「二年ほどしていたよ。むかしむかしに」
「そんな短かったっけ。もっとしていた気がしたけど」
「つきあっていた期間を含めたら、五年ぐらいなので」
「なんで別れちゃったんですか」
「私がろくでなしだから」
「浮気とかしたんですか」
「そういうのじゃないけど、私には、奇跡を受け取れるだけの力がなかったんだ」
「なんか、かっこういいですね」
「いや、かっこうがいいのは、セリフだけだから」と川崎さん。
「さみしいから、で結婚しない方がいいね。でも、結局は、私の給料が安いから、愛想を尽かされました。結婚した後に移動で、給料二割減らされて、固定。何事も、継続するには、お金は大事だね」
「唐木さんて、契約とかじゃなくて、正社員ですよね」
「いやいや、契約だよ。うちで正社員なんて、副編以上だけ。今、肩書がある人たちは、まだベンチャーの時に入ってきたから。他は、全員、契約かアルバイトだね。契約の中でも、多少、給料の幅があるだけで」
「私だって、ちゃんと稼いでくれる相手とじゃなきゃ、結婚なんて、恐くてできないよねえ。うちは、大手と比べたら三割は安いし。それに、ね。唐木くんは『島流し』されていたから」と川崎さんが言う。
「なんすか、それ」
「唐木くん、モデルのお姉さんに手を出しちゃったからね」
「違いますよ。前ね、他の編集部の企画とかを手伝いまくっていたら、上が、気に入らなかったらしくて。まあ、それは会社のためだから、まだ構わなかったんだけど。それで、今でもそうだけど、私、あまり残業しないじゃん。それで、当時の編集部長から、『もっと残業しろ』とか言われてさ、『仕事ないのに、会社にいるんですか』って言ったら、むかついたらしくて、『第二編集部』ってのを作ってくれちゃったのよ。部員は私一人だけ。給料は二割下げるし。やめろって言っているようなものだったけど、なんか、やめなかった。で、五年ほどいて、そのお方がいなくなったんで、三年前からアイドルマジックで、また編集をやる事になったってわけ」
「第二編集部って、なにするんですか」
「別になにも。郵便物の整理とか、衣装のクリーニング出しとか。読者へのプレゼント発送とか。『編集をしない編集』とか言われていたし。あとは他の手伝い。キャプションって、あの写真に載せているポエムみたいのあるじゃん。ああいうのとか、他の人から頼まれて作っていたけど。そもそも、上司が、形式上しかいなかったから、誰かから頼まれない限りは、やる事がないんだよ。要するに、担当仕事がないっていう。それで年俸二百四十万。今思えば、転職しないなら、もっとなにか勉強でもしておけばよかったと思うけどね。なにもしなかったけど」
「大学行けたかもしれないですね」
「大学とか、一回行けば十分だし。自分から勉強するような人間じゃないから。頼まれれば断らずに、仕事するタイプなんですよ。それが上から見たら、なに、好きなメンバーで勝手に企画とかやってんだって。バーチャル組織っていうか、上が、『せっかく分けてんのに』っていうところを、ホイホイ越えていたからね」
おれは手刀の仕草で、縦割りを示して見せた。
「僕も他の編集部の手伝いしてますよ」
「谷崎くんは、アルバイトだし。席はアイドルマジック編集部にあるけど、全体のアルバイトっていう名目もあるからいいんだよ。私の場合、原因は、『残業しろ』って、言われて拒否したところにあるから。やる事もないのに、『残業しろ』はないわ。残業代もなしに」
「それで現在に至る、と。結婚の方はもうしないんですか」
「結婚どころか、恋愛も、もうないよ。谷崎くんみたく、背が高くてかっこよけりゃいいんだけどね。いや、もういいんだよ。私の話は。食わないと」
マグロカツは、衣がガリガリしていたから、途中から衣は食わずに、中身のマグロだけを食った。この場合、ワサビと醤油が欲しいところだ。


『かつおぎ』で晩飯を済ませた後、地下鉄で麻布十番の部屋に帰る。
麻布十番の駅を出て商店街に入ると、なんとなくほっとする。なじみの店もないけれど。
麻布十番は、麻布と白金、さらには、広尾や三田に囲まれた低地で、いわゆる下町であるが、まわりがまわりなので、通行人もガラの悪いのが少ないし、歩きやすい。広さでも、便利さでも、センスでも、静かさでも、町としてのバランスがとても良い。
近頃は、良いか悪いかは別として、ドラッグストアができたから、日用品も安く買えるし、スーパーは小さめだけど、家で料理はしないから十分まかなえる。
部屋は、駅から十分ほどのところにある。
商店街を抜けて、住所が南麻布に入ると、うちのマンションが見える。
部屋は、五階の角部屋で、隣と接している部分はキッチンと風呂場だけだから、音も気にならない。ベランダからは六本木ヒルズが見えるし、ワンルームだけど、広さは、二十五平米ある。
これで、家賃は八万五千円だから、築三十年とはいえ、麻布の近くにも探せばある。
部屋には帰ったが、腹が物足りないような感じがした。
とりあえず、会社から持って帰った雑誌を、本来はガスコンロがあるべき場に置く。
うちに冷蔵庫はないから、食料はすべて流しの上の吊り棚に入れてある。見るまでもなく、入っているのは、シリアルと春雨とインスタントスープの素である。
唯一の調理器具である電気ケトルで、湯を沸かす。
丼に、インスタントスープの素を入れる。『ブロッコリーのなんとかスープ』と書いてあるが、なんでもよい。ここにブロック状の春雨をひとつ入れる。
カップスープだから、カップに注がなくてはならないという事もない。うちには、丼鉢ひとつしかないのだから、仕方がない。
丼というものは、まことに便利な食器で、入らぬ食べ物はないと言っても過言ではない。そのうえ、飲み物も入る。
むかしの人びとは、茶碗で茶を飲んでいたのだから、丼鉢で茶を飲んではならない道理はない。
すぐに沸くので、丼に注ぐ。割り箸でかき混ぜる。
空気を入れ替えようと思って、南側の窓を開けた。まだ扇風機には早い。
がらんどうのベランダは、ひっそりと月の光にひたされている。エアコンの室外機も物干し竿もないベランダである。
洗濯物は、洗った後、部屋のハンガーラックにかけて、扇風機の風を当てて放っておく。こうすれば、取り込む手間がかからなくて簡単である。
部屋にあるのは、他にパソコンと、パソコンの台と、小さな棚があるくらいで、服などは、ストーブや蒲団などと一緒に収納にしまってある。
なにもない部屋というものは、プライベートでやりたい事も、将来を考える事もないけしきを示しているわけであるが、今のおれは、自分に余計なものを与える気がしないし、娯楽にお金をかけられる給料ではないという事もある。
土曜日は、必要なくても、なんとなく会社に行ってしまう。日曜日は、撮影でもなければ、掃除と洗濯をしたら、もう昼過ぎだから、雑誌をめくっているうちに日が暮れる。
そういう生活だから、夏場、仕事が少し忙しくなると、電気代は数百円くらいしかかからない月もある。
ふと、スープのにおいがした。ああ、春雨を作っていたのを忘れていた。
うちに椅子はないから、立って食う。
床に置いたデジタルの時計を見れば、九時を過ぎていた。
夜空に走った雲の、きれぎれに横たわるのを見上げて、六本木ヒルズはまだ半分近く電気がついている。
おれは、風呂に入ろう。今日も九時間眠られそうだ。


編集会議で、編集長の横山さんが聞いてくる。
「次の企画ページは、唐木くんだね。もうだいたい決まっている?」
「はい。一色四ページ、七月号という事なので、七夕をイメージした撮影も多くなると思うんですが、アイドルやモデルさんの夢や願い事、それを百人に聞いてみました的な。そういうものにしようかと思います。最初の見開きで、七夕飾りをイラストで描いて、吊るした短冊にそれぞれの夢や願い事を書いたものを紹介しようと思います。イラストレーターさん、これは利根さんにお願いしようと思っています。で、次の二ページでは、子供の頃の夢と、去年の願い事を紹介して、達成率みたいなものを添えようと思います」
「いいじゃん。おもしろそう」
「願い事か。リビドーの基本だな」と塩田さんが言った。
「じゃあ、利根さんに連絡お願いね」
「わかりました」
「むしろ、短冊じゃなくて、笹にパンツを下げたらどうだろうか」と塩田さんが真顔で提案する。
「いいですけど、利根さんが描いてくれませんよ」
「そうか。惜しいな。パンツに願い事」
「なに、『星に願いを』みたく、ロマンチックに言っているんですか」と川崎さんがつっこむ。
「パンツに願い事」と塩田さんがそこの部分だけ繰り返した。
「なるほど! リビドーの生成装置であるパンツに、リビドーである願い事を重ねるのか」と横山さんが立ち上がった。素っ裸で表に飛び出しそうな勢いである。
「さすが、編集長。よくわかるものだ」と谷崎くんが感心した。

あくる日、来がけにパン屋で買ってきたピザを食いながら、企画のラフを引いていると、谷崎くんが覗き込んでくる。
「今度の企画ですか」
手には、編集部でとっている雑誌を抱えている。
「そうだよ。見てみなはれ」
そう言って、おれの渡した原稿用紙には、次のような事が書いてある。
・みんなが少しでも元気になれますように。
・歌とダンスで世界を変える。
・私の笑顔で、みんなを励ましたい。
・家が欲しい。
・映画に出られますように。
・作詞をしたい。
・たくさんの人が私の歌を聞いてくれますように。
「楽しいですね。それにしても、もう百人に聞いたんですか」
「ああ、実は一か月前から準備していたんだよ。メールとか、ファクスでアンケートをとって」
「なるほど、勉強になります」
「私は先が読めないから、とりあえず進めて見て、できそうだと思ってから、企画を上げるから。『面白そう』で始められるようなリビドーでもあればいいんだけど。まあ、ラフも見なはれ」
今度は、レイアウト用紙を渡した。
デザイナーさんに仕上げてもらうために、レイアウトや、書体などを指定してある。
『アイドル百人に聞きました。七夕に願う事』と見出しが書いてあり、その下に記事やイラストのスペースの指定がしてある。
「こういうのって、いきなり思いつくんですか?」
「企画の事?」
「はい」
「撮影すると、インタビューもするでしょ。そういう時に聞いた話を、企画に利用する感じ」
「なるほど。やっぱり大きな仕事の流れみたいなものがあるんですねえ」
「そう。流して、流して、送って、送って、みたいな」
谷崎くんは、雑誌を開く。参考のために定期購読している、よその出版社のグラビア雑誌である。
「パンツ脱ぎ掛けって、エロいですよねえ」と言う。
「それはねえ、あれだよ。禁止がまさに、今、破られようとしているからだよ。グラビアは、快楽を抑える、制限する事によって、エロティシズムをかもし出しているんだ」
「なるほど、そう言われると、そうかな、と思います」
「まず禁止がある。その禁止のラインを越えてゆけそうなのに、越えられない」
おれは、横にした右手をひょいと挙げて、震わせてみせる。
「だから、引き付けられる。グラビアにおけるエロティシズム表現の先には、恍惚があるわけだけど、その恍惚の予測で、ドーバミンが出るわけ」
「こんなの、乳、支えてないじゃないですか。撮影中、見えませんか」
谷崎くんが見ているページは、乳の豊かなモデルが赤いワンピースの水着を着ているのであるが、水着にしろ、ワンピースにしろ、名ばかりのものであり、左右の肩から下りた垂れ幕が隠しているだけで、なにも乳を支えていない。
「こういうのは、両面テープで固定しているんだよ」
「ああ、なるほど。でも、痛くないですかね、乳首にテープとか」
「そういうのはね、まずニプレスを貼ってもらって、その上から両面テープを貼っているはず。けっこう、ニプレスは使うよ。川崎さんの後ろの棚に入ってる。ビキニの時とかとくに。ビキニで、プールからザバーッて、出て来てもらうと、外れちゃう時があるからね。防止」
「なるほど、またひとつ新しい知識を得ました。やっぱり唐木さんて、先生だわ。もともと、グラビアの編集をやりたかったんですか」
「最初はそこまで考えていなかったけど。谷崎くんと同じで、大学が二部だったからさ、学生時代にここのアルバイト見つけて、現在に至る、みたいな。契約になったのは、いつだっけな。五年くらいバイトだった気がする。谷崎くんも、もう二年くらいで、企画をやらされると思うよ。撮影を任されるのは、その次だね」
「企画ですかあ、よく思いつきますよね」
「別に、なんでもいいんだよ。グラビア雑誌だけど、建築特集とか、椅子特集とかやっても、構わないと思う。私は、グラビアの事しか知らない小さな世界に生きている人間だから、アイドル関連の企画しか立てないけど。まあ、適当に遊んでいる時とかに、思いついたりするよ」
「僕、あんまり遊ばないんですよねえ」
「まあ、遊びもお金がかかるしね」
「バイト代は、生活費ですべてとびます」
「そうだろうねえ。遊びに行く時とか、どうしているの」
「遊びに行かないですね」
「行かないんだ」
「お金がかかる事はしないっすね。娯楽に金はかけません」
「堅実で偉いなあ。まあ、うちのバイトじゃ」
「いや、でも悪くないですよ。時給千円近いし」
「まあ、私も、遊んだ記憶なんてないけど。そうだ、谷崎んくんが願い事をするとしたら、なにを願う?」
「そうですね、彼女が欲しいです」
「そりゃ、大事だ。でも、彼女が欲しいって、言っていれば、そのうちできるでしょう。照れてないだけ、いいと思う」
「唐木さんは、どうなんですか」
「願い事? ないよ」


「いいよ、いいね、はいはいはい、こっち、こっち。おいで、おいで」
四つん這いになっている水着の娘を相手を前にして、こういうセリフを臆面もなく吐けるのは、世の中広しと言えども、カメラマンだけであろう。
「前、前、前、はい、いい。いい。バックバック。いいよ。いいよ」
なぜ、カメラマンは、二回繰り返すのだろうか。
幼児も二回繰り返す。トンネル、トンネル、ブーブー。関連性はあるのだろうか。
などと考えながら、この撮影のタイトルを、『前、前、いいよ、いいよ』としてやろうかとも思ったが、『ワタシ色―Pure Color』とか、無難なものにしておこうと思う。今のところは。
 梅雨の晴れ間の平日、今日は、プール付きのハウススタジオで、朝から撮影である。
屋外での撮影となると、あまりに強烈な光は、モデルを眩しがらせてしまい、なにより、顔に陰翳ができてしまう。先ほど、薄曇りになってきたのを見計らって、屋外での撮影を開始した。
カメラマンも、モデルの気分をのせながら、調子良く撮影している。
今日のカメラマンは、鎌田さんと言って、まだ三十歳。スーツを着れば、多少疲れたサラリーマンに見えるが、短髪の髪は染めていないし、髭もきれいにしている。
近頃は、人間的にまともな人が増えたけれど、おれがこの出版社に入った頃に仕事をしていたカメラマンは、遊び人か、元遊び人の爺さんしかいなかった覚えがあって、おれも一人で撮影を任されだした時にこういう人種の一人と組んだ事があったが、たしかに、腕は良くて、モデルの色気を出すのがうまく、たとえモデルが小学生であっても、どこか艶めかしく撮ってしまうのは感心したものだったが、とにかく偉そうな命令口調に閉口して、撮影の集合時間にモデルより遅れてきたのを潮(しお)に、人柄の良い人に変えてしまった。
直接の原因は、その前の忘年会の三次会で酔いに任せて、人に蹴りを入れてくれたものだったが。
鎌田さんは、カメラの腕は抜群と言うわけではないが、基本はおさえてくれるし、見本誌ができた時には、わざわざ来て、仕上がりを確認しながら雑談していくような人で、撮影の時だって、待ち合わせの三十分前に来る。
今日のモデルの人は、園田香織さん。
二十四歳のいわゆるグラビアアイドルである。
身長、百六十七センチ、サイズはB83W58H85。
すべて、渡されたプロフィールどおり、サバ読みなしのスレンダー系グラビアアイドルである。
「ちょっと腰をひねって、右足前に出そうか」
鎌田さんの指示により、園田香織さんは、白い競泳用の水着を着けて、庭とプールを隔てる煉瓦造りのアーチを向く。右手を左肩に組み合わせ、顔をこちらにめぐらせて、顎をそり返したポーズをつけている。
「いいね。いいね。そのまま親指くわえてえ」
競泳用の水着は、色は問わず、スレンダー系の人には良く似合う。
今、着けてもらっているものは、水に濡れると透けて見える。下の方に有名なメーカーのロゴが入っているが、どのような開発過程で、こんな白くて薄い水着を作ったのだろうか。サポーター部分が丸わかりである。販売する前に、グラビアの編集者にチェックさせたらよかろう。それとも、うちの会社の人が既製品を改造したのだろうか。
我ながら、エロティックな視点でしか水着を見ていないが、グラビアの編集を二十年近くやっているおれは、実際エロティックな視点くらいしか取り柄がない。
次号は、『お仕事』というテーマである。
副編集長の塩田さんは、モデルさんにリクルートスーツを着せて、秘書に見立てて撮っていた。川崎さんは、水着の撮影だからスイミングスクールのコーチ的なもので、編集長の横山さんはと言えば、モデルが高校生という事で、家庭教師の場面設定で撮影していた。
おれは、朝の電車で考えようと思ったのだが、ラッシュのせいで考えるどころではなく、撮影前の打ち合わせで、ポーズだけは決めておいて、「まあ、テーマは任せておいてくださいよ。テーマとか考えずに、きれいに取ってください」などと、いい加減な事を言っておいた。
本来は、モデルの資質によって、テーマは限定されるべきものであるが、実際は、テーマによって、そうそう内容が変わるものでもない。
しばらく、撮影の進行を見ながら、頭の中で、『瞳、唇、鎖骨、うなじ、喉、胸、胸元、わき腹、お腹、二の腕、掌、太腿、内側、ふくらはぎ、髪の毛、背中、膝裏』と呟いているうちに思いついたのが、グラビアの編集のお仕事というテーマだった。そのままではあるが、それで構成してみようかと思った。
今回、テーマがグラビアの編集だとしたら、後ろや脇からの写真も小さく入れておきたい。
鎌田さんが、アシスタントの男の子にレフ版の指示を出したのを機に、後ろから近づいて声をかける。
「あ、園田さん、鎌田さん、今回、裏から撮ったものも含めたいので、横とか、斜め前、少し離れたところから撮ってもらえますか」
「ええと、目ピンじゃないって事ですよね」と鎌田さんが確認する。
「はい。編集の立ち位置っていうか、撮影しているところを横とか斜め後ろの方とかから見ているような感じで」
「ああ、おもしろそうですね」
「園田さん、大丈夫ですか。すいません、急に加えちゃって」
「大丈夫ですよ」
「では、私がカメラマン役をやりましょう」
おれは元の位置に戻って、カメラマンの構えだけして、
「じゃあ、お尻壁につけて、おっぱいこっちに出して」と言って、場を和ませる役を引き受ける。編集者は、撮影現場では、時として道化の役も引き受けなくてはならない。
いつもは、撮影が始まれば、ほとんどなにもしない。立ち会っているだけである。
カメラマンの写し方で、写真の仕上がりの想像がつくから、撮影中に、頭の中で構成やレイアウトを決めてしまう。編集部に戻ってから、写真をすべて見直して、レイアウトを考えはじめるなんて事はしない。
今時、デジカメだから、撮影が終了した後に、カメラマンとメイク、モデルさんや事務所の人を交(まじ)えながら、写真を選ぶのだけれど、鎌田さんは、中判カメラを使っていて、今でもフィルムである。そこがまた気に入っている。
園田さんが足をクロスさせて、前かがみになったままポーズをつけているのを、鎌田さんは、離れたところから撮影している。
園田さんは、肩をすぼめる。当然、胸が強調される。同時に顔を傾ける。ほっそりした頬から顎の先までよどみのないラインを持った顔をしている。
園田さんは、口を結ぶ時に、一瞬、唇を突き出す癖がある。
その仕草が、相手との距離を縮めるべく妙な色香をかもし出している。
口を閉じる時も、そっと閉じているというのではなく、少し力をこめて結んでいる。
癖なのか、よく口を結ぶ。
口もとを深くして、歯を見せて笑わないから、さらに色が香る。笑う時は、目だけで笑い、目だけで警戒を解いたような表情を作れる。そして、ときおり見せる、困ったような表情を重ねてくる。
簡単に言ってしまえば、憂いと恥じらいをあわせもった表情を作り出している。
「はい、うまいうまい、きたよー。はい、はい」
通常の撮影に戻って、園田香織さんは、塀にもたれて顔を横に向けてカメラマンを見る。左手で右の脇の下を抱えながら、左手の親指を唇に添えたり、髪の先を口でくわえたりしている。
雲が晴れてきて、影が濃くなってきた。頃合い好く、ここでの撮影も終了である。
夏が近いとはいえ、水着で一時間以上も外にいたら冷えてしまう。メイクさんが、バスローブを園田さんにかけて、屋外プールの撮影は、終了した。
「おつかれさまでした、冷えませんでしたか」
「いえ、平気です。真冬に水着とかありますから」
「あはは。あれは修行ですよね。でも、次はあったかいんで、よろしくお願いします」
「はい。がんばりまーす」


風呂場での撮影は、暑い。暑くてかなわない。
半裸のモデルが汗をかいているのだから、暑いのは当たり前である。
露天風呂だと楽なのだが、スタジオの場合は、たいてい屋内での撮影となる。
ここは、湯殿が中庭にあって、半分露天であるから、普通の家の風呂場の撮影に比べれば暑くない。
まずは、風呂場と中庭をしきるガラスをすべて開け放って、風を入れる。湯気が一度に散る。
湯船は、平らな白い岩をくりぬいたようなもので、大人が三人、足を伸ばせて入れそうである。
風呂場で行う撮影のメリットは、自然にモデルさんの頬が染まるというところにある。
頬が染まって赤らむという事は、血流が多くなっているという事で、つまり、昂奮している証しなのである。それをチークは人為的に行っている。
お風呂場で撮影する場合、シャワーシーンのほか、スポンジで泡を作って体を洗ってもらったり、泡で水着を隠して全裸であるかのように見せたりするのだが、それが可能なのは、チューブトップのビキニの場合であって、今日はワンピースなのでやらない。
また、膝立ちで手を下にしてもらって、手の部分は写さない、というパターンもあるのだが、園田さんがやってもあまりエロティックにはなるまい。
撮影前に、丸い湯船につかる園田さんに、「どうですか、湯加減は」と聞くと、「気持ちいいですね」と言って目を伏せる。それが嫌味にならず、恥じらいに思わせるのが、園田さんの特性である。
通常の、カメラに向かって目を見開いて、笑いかけるグラビアスマイルと違って、ふいに伏せる目や、ちらちらよそ見をするような視線の動きのせいで、恥じらっているように見えてくる。
グラビアの写真は、モデルが、目線を向けているのが常である。視線を向けるというのは、興味の証しに他ならない。だからこそ、人間は瞳と白目によって、どこを見ているのかが、わかるようになっているわけであり、比較的女性の方が若干白目が大きいのは、進化過程での雄に対するアピールの結果である。
むかしの少女漫画にあるような、瞳が異常に大きく、本当のところで、どこを見ているのかわからないようなものは、男には不安を与える。
男の脳は、生殖相手としての女性の視線の先がこちらに向いていると昂奮する仕組みになっていて、グラビアの写真も、目ピンと言って、目にピントを合わせて撮影するのであるが、本人が感情をコントロールできない後ろや横側から見ていると、表情が見えないために、かえって妄想がふくらむ。
エロティシズム表現にひかれるのは、人間の特徴のひとつであろうが、その道具は、妄想である。妄想によって、ドーパミンも出るし、慰めもする。
園田香織さんは、妄想をかきたてるタイプである。
はっきりとした顔立ちの美人や、その胸で男を翻弄するのか、みたいなタイプは、いわば、いちいち章ごとに、サブタイトルを入れた小説のようなもので、受け手にある種の決まりきった反応を強いる。こう読め、と。
おいしい食べ物でも、押し付けがましいラベルを貼られていては、手を伸ばせるものではない。
小説は自由に読みたいし、おかずは自由に料理したいのである。
その点、園田さんは、ぱっと見の特徴がないというのが特徴と言っても過言ではない。しかし、その特徴のないルックスだからこそ、一つ一つの仕草から妄想がかきたてられるのである。
今、えんじの競泳用水着を着けたモデルの園田さんは、湯船の縁に腰かけて片膝を抱えてポーズをとっている。続いて、湯船の縁で寝そべりのポーズをとってから、湯船につかって膝立ちになり、また泳ぐような姿勢になって、お尻を浮かす、などの基本バターンを続けている。
普通、モデルの人は、慣れてくればなおの事、カメラに目線を向け続けるのだが、園田さんは、まぶたをしきりに動かし、また目線を外す。
普通のコミュニケーションにおいては、目を逸らせるのは、自信のなさのあらわれであり、また、相手を重要視していないと思われてしまうだろうが、それが、恥じらいの要素になってくれば話は別となる。グラビア撮影の場合は、フィクションとして、恋愛と愛欲のあわいにあるものをとらえようとしているのだから、なにか言葉を言って、すぐに下を見たりするのは、『私は恥ずかしいけど、あなたは見ていいよ』という徴(しるし)であり、これはもう、禁止の遮断機が上がりかかっているあらわれなのである。
メイクの嘉納さんは、モデルのそういう癖をわかってメイクしている。
メイクさんのなかには、誰彼構わず、目をはっきりさせたがり、また、流行のメイクをしたがる人がいるが、園田さんのような人は、二重瞼が目立ちすぎても色気が退いてしまう。
今のところは、口紅は薄いピンクで、口もとまで引かず、グロスはうっすら使っている程度である。
前髪は、眉が隠れるくらいのところで揃えている。
暖かな艶を帯びた肌の上には、湯気がそのまま色気になったように漂っている。
水着にしても、ビキニよりもワンピースの競泳用水着の方がずっと色気が出るタイプなのである。
こういう人は、ビキニ姿で、ベッドの上でゴロゴロとはしゃいでもらうというテンプレートにはめても、色気は消えてしまう。
普通のプールサイドで、一人で柔軟体操をしていた方がずっと色っぽい。
色香というのは、普段の仕草の方が、扇情的な仕草よりもドーパミンを出させるような人から立ち昇るものだ。


今回、ダイニングは撮影に使わないので、ダイニングが打ち合わせ場所を兼ねる。
お昼は、仕出しの弁当が定番だが、今回は、園田さんの好物が鰻という事で、出前のうな重である。
ダイニングテーブルには、おれとモデルの園田さんが並んで座って、向かいにメイクさんと、鎌田さん、そのアシスタントさんが座っている。
おれがモデルの園田さんの隣に座っているのは、役得とか、この場の権力とかではなくて、お昼中も仕事だからである。
撮影後にあらためてインタビューをするのが編集としては基本なのだろうけど、おれは、仕事はコンパクトにするタイプなので、可能な限り、できるうちにやっておきたいと思っている。
それに、ご飯を食べながらの方が、『仕事』という感じが薄れるので、モデルの人もリラックスして話してくれるというメリットがある。
「おいしい」
園田さんの感想をきっかけにインタビューを開始する。
インタビューをする時は、普通、録音をするものだが、おれは録音をしない。すべて覚えているからである。
高校の時の成績は、平均点にも届かなかったのだから、頭が良いというよりも、会話だけは不思議と忘れないだけである。インタビューはもちろん、飲みに行った時の会話さえ、寝る前までなら書き起こす事ができるほどである。
録音した後のテープ起こしが面倒くさいから、能力が開花しただけかもしれないが、録音をしないことによって、モデルさんをリラックスさせる効果もある。
「よかった。ここ、お蕎麦屋さんなんですけど、前にもうな重を取った事があって、けっこう、おいしかったんで、よかったです」
「私、鰻好きなんですよ」
園田さんは、バスローブ姿で、うな重を食べている。
「もしかして、江戸っ子ですか」
プロフィールで、出身地を東京と知っておきながら聞く。
「一応、東京ですけど、江戸っ子って、鰻が好きなんですか」
「江戸っ子は、鰻と蕎麦、あとは、天ぷらと寿司だっけな。好物らしいですよ」
「へえ、そうなんですか。じゃあ、私もキャラづくりに、好きなものは、鰻、御蕎麦、天ぷらとお寿司って、言おうかな」
「言っておきましょう。キャラづくりも見た目のひとつですからね。テキスト情報も含めてわかりやすくしてあげないと。では、インタビュー欄に使うので、トークを。食べながらでいいですからね」
「はい。よろしくお願いします」
園田さんは、少し顔を背けて、目だけをこちらへ向けて、瞬きをした。
「まあ、パターンですけど、」
「私って、あまり特徴がないって言われるんですけど、しいて言えば、鼻、ですかね」
「なるほど、鼻が蠱惑的。鼻で男を虜にする、と」
おれは、そう言いながら書き留める振りをする。
「チャームポイントくらいにしておいてください」
「でも、わかっていますね。モデルの人って、鼻って言う人が多いんですよ。目とか口とかは、よほど性格が強烈な人ですね。園田さんの鼻って、小さくて、かわいいってのがあるんですけど、欠点がないですよね」
「特徴がないだけかもしれませんけど」
「いやいや、鼻っていうのは、顔の中で、主張しない部分だから、欠点がないのがもっとも美しい、ビューティフルっていう事ですから」
園田さんの頬が、はにかみを含んだように桜に染まる。
「表情の練習とかは、しているんですか」
「しているんですよ」
園田さんは、しなを作って、一度うつむいた顔を上げてわずかに傾ける。
「具体的には」
「鏡を見るたびに笑ってみたりとか。でも、いつまでたってもぎこちないって、よく言われます」
「園田さんって、あまり無理な笑顔を作らない方が、色気があると思いますよ」
「えっ、そうですか」
「自分の長所は、意識しない方が好ましい事もあります。あまり意識させちゃうと、あれですが、はにかみがいいんですよ。読者に大受けです。爆笑です」
「爆笑じゃ駄目じゃないですか。でも、今度また、じっくり見てみます」
「目はパッチリ開けない方が色気は出ます。流し目の色っぽさってのがありますから。園田さんは、今がいちばんバランスがいいと思います。あと、日常で気を付けているって事はありますか」
「気を付けている事は、スキンケアとか。私、乾燥肌なので。身体にもお手頃価格のゲルとかを塗って寝ています」
「それで、肌をきらめかせているんですね」
「あと、食べ物はもちろんですけど、怪我しないようにしています」
「おお、それは。プロフェッショナルだ」
「道とかも、車とか自転車に気を付けて歩いています」
「あなた一人の命じゃありません」
「あと、靴擦れもしないように、普段は、テーピングをしています」
「傷はわかっちゃいますからね、人間。人が人を見てまず、欠点を探すと言うし。撮影とかであるんですよ。中学生、高校生だと、よく膝とか、肘とかすりむいて撮影に来るんですけど、まあ、体育とかあるからしょうがないのかな。見ていて、心配になるだけです。あと、こういう自分が好き、みたいなものはありますか」
「そうですね。最近、希望とかについて考えていたんですけど、希望って、満ち足りた空気のようなものとは違って、芽生えてゆくものではないのかなって。それで、自分の中にある芽というものを、その都度、その時、大切にしている自分が好きですね」
すばらしい事を言っているのだが、おれは、エロティシズムについては詳しいが、希望についてはまったく詳しくないから、「すばらしいですね。地に足をつけて考えているって気がします」と言って、それ以上掘って聞かずに先へ行く。
「ああ、あと、逆にコンプレックスを感じているところとかありますか」
「胸ですね」
園田さんのサイズは、資料によればB。実際、水着越しに見てもBだろう。グラビアアイドルとしてはコンプレックスかもしれない。
「なるほど。私も、女の人がそういう悩みを言うのを、むかしは、『胸の小さいのがそんなに問題なのか』と不思議に思っていたんですが、胸が小さいのは、男にとって背が低いのと同じだと気づいて、よくわかりました。私も、百六十三センチですから。同じ土俵に立てません。そりゃ、みんな、かさ上げしますわ」
「そうなんですよ。必死なんですよ。女子は」
園田さんは、目をまぶしそうに細めて笑った。
「話は変わりますけど、園田さんて、寝つきはいい方ですか」
「いい方だと思いますよ」
「寝る前になにか飲んだり、音楽をかけたりしますか」
「御白湯(おさゆ)を飲みます」
「白湯ですか」
「あったまるんですよ」
「へえ。私なんて、家に帰って、お風呂に入って、蒲団に入ると、二分くらいで眠っていますからね。眠る心の準備とかあるじゃないですか。いきなり眠っているから、うつぶせとか、蒲団を被ってないとか、状態が変なんですよ。寝ている時の。寝ているというより、気絶しているみたいな」
「ふふふ」
園田さんは、笑う時も歯を見せずに笑う。色気のある笑い方である。
歯を見せるというのは、本来、動物が威嚇や争いの際に見せる仕草であって、従わない姿勢を示している。だから、むかしの既婚女性は、鉄漿(おはぐろ)をしていた。
明治時代の芸者の写真でも歯は見せていないし、歯を見せない方が色っぽいものである。
「園田さんって、寝やすい姿勢とかはあるんですか」
「枕を抱いて寝るとけっこう、すぐ寝られます」
「いいですね。ちなみにパジャマですか」
「もう、Tシャツに柔らかい短パンみたいなのです。色気がないですね」
「寝る時は、リラックスできるのがいちばんです。私、このあいだ、蒲団を買ったんですよ。蒲団カバーも買うじゃないですか。それで、シンプルなものが好きなんで、シンプルなものを買おうと思って、店に行ったら、羊がもふもふしている柄の物があって」
「買ったんですか」
「買ってしまいました。全然自分をコントロールできないんですよ」
「かわいい羊を前にすると」
「後悔とかしてないんですけどね。プライベートなんで、好きにしないと。では、インタビューは、ここまでです。後日、まとめたものを事務所の方に送りますので、確認お願いします」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
 寝る時のかっこうや、寝る前に白湯を飲む話は興味深かったから、今度の企画は、アイドルの寝る際のかっこうや、寝る前の儀式、印象的な夢などを特集してみようと思った。
「じゃあ、午後の撮影ですが」
おれは、一座を見渡して話しだす。
「午後は、制服から始めて、だんだん脱いで行ってもらって、最後は、下着、じゃなかった水着です。ジャケット脱ぐまで庭ですね。で、もう一度着てもらって、室内でやりましょう」
「はい。よろしくお願いします」
「今日の撮影はどうですか」と園田さんに聞く。
「ここのスタジオがすてきですね」
「ここ、買うと三億五千万円するらしいですよ」
「ええ、マジで。駅から遠いのに」メイクの嘉納さんが驚く。
「金持ちは電車に乗らないでしょ」と鎌田さん。
「プール付の5LDKですからね。スタジオ代もけっこうしました」
「唐木さん、出世して買ったらどうですか」嘉納さんが、立ちながら言う。
「すでに出世の見込みが。三億五千万円も貯めるのには、あと、九百年くらい仕事しないと。聖書のノア並に長生きですよ。それだけ長生きしたところで、箱舟ひとつ作れないような人間です」
時計は一時をさしている。午後は、制服の撮影だけだから、二時から始めて、行けそうだ。
「では、二時くらいまでには始めましょう。園田さんの準備ができしだいという事で、よろしくお願いします」


午後の撮影は、制服から始めた。
モデルの園田香織さんには、ブラウン系のチェックのスカート、ブラウスに赤いリボン、胸にワッペンの付いた濃い緑のジャケットに、靴は茶のローファーというスタイルになってもらう。
梅雨の時期ではあるが、この上に、マフラーでも巻いたら、よりセクシーになるだろう。
覆い隠されたものの方が、さらされた中身よりもずっとひきこまれる。ひきこまれるという事はそこにエロティシズム表現の根源があるという事だ。
園田さんは、庭に出て、まずは壁にもたれた立ち姿になり、次に、足を踏み出しながら顔だけ背ける。
真正面は、基本的に色っぽくない。ちょっと傾けないと、顔は。
エロティシズム表現は、崩しだ。
続いて、園田さんは居間に入って、籐の長椅子に寝そべりながらブレザーを脱ぎかけたポーズをして、脱いだ後は、膝立ちでスカートをたくし上げる。
床に降りて体育座りをした。
下に着けている薄桃色の水着が見える。
膝上十センチ以上のスカートで座る場合、体育座りにしろ、しゃがむにしろ、女の子座り以外は、構造上、隠さない限りは必ず見える。だからこの場合も、体操着と体育座りを掛け合わせるのではなく、制服と体育座りを掛け合わせるのである。
現在、カメラマンの鎌田さんは、カーペットの上で這いずりまわっている。
モデルさんに、ソファーの上で体育座りをしてもらう場合でも、パンツにピントを合わせるべく、片膝でカメラを構えねばならないから、体力勝負である。精神力の勝負でもあるが。
続いて、ソファーで寝そべって、片膝を抱えてもらって、ギリギリ見えないところでポーズをとる。
このあたりの流れは、打ち合わせどおり。
園田さんが、寝ながらブラウスのボタンを外して、ソファーから起き上がった時に、園田さんの髪の毛が跳ねたままになっている。
鎌田さんがメイクの嘉納さんを見る。
ジーンズに白いポロシャツ姿の嘉納さんが出てゆく。モデルの脇に立って、櫛で全体を整え、さらに前髪は、櫛を逆さに持って、柄の方で梳(す)いている。
メイクさんには、メイクの事務所に所属している人もいるが、うちで仕事してもらっている人は、みんなフリーだ。
普通、グラビアの撮影は、ヘアを兼ねたメイクさんと、スタイリストさんが付くのだが、うちは、それほど余裕がないから、メイクさん一人である。衣装にしても、大手の場合は、スタイリストさんが衣装会社からレンタルしてくるが、うちでそんな事をやるのは、写真集編集部だけで、あとは社にある衣装を使う。撮影に使う服は、編集が決めてしまう。
「あと、少しチークを加えます」
嘉納さんは、薬指をうまく使って、チークを重ねる。
「ぜひ。脱ぎつつ、色の気配が高じてくるような」とおれは応じる。
続いて、リップグロスもつける。
「いいですね、艶がヒートアップ、みたいな感じで」
いちいち合いの手のように言っているが、黙っていても一向に構わない。
嘉納さんは、園田さんの赤い唇に、艶やかなリップグロスを重ねる。濡れていると同時に、燃え上がるというエロティック表現である。もっと言ってしまえば、代替表現である。
嘉納さんは、メイクをなおして、園田さんのスカートの埃をささっと取って、おれの隣に戻ってきた。
「大丈夫ですかね」
「十分です。嘉納さん」
おれは、親指を立てた。
「スカートのしわが少し気になったんですけど、あえて残しておきました」
「わかってますね。さすが嘉納さんだ。メイクにしても、嘉納さんは、やたらと流行のメイクをしないから助かりますよ。グラビア雑誌のなんたるかをわかっています」
「一応、モデルさんの資質と、雑誌のテーマを合わせるようにはしています」
そう言って、嘉納さんは、拳を腰骨近くの肉に当てて、ねじ込むようにもんでいる。
「さすがです。で、また腰痛ですか」
「また腰です。もう職業病だからしょうがないんですよ」
撮影を見ながら嘉納さんと話しているうちに、園田さんは、靴下だけは履いたままのビキニの水着姿になっている。
「いいね、いいね。いい、いい」
カメラマンの鎌田さんは、一度接近して、しだいに離れて撮影している。
 しなやかで、抵抗のない曲線が、苦もなく柔らかなふくらみから下腹部への起伏を描き出し、伸びやかな脚がその幻想を地上のものと結びつける。
 カメラマンさんが、「いいね、いいね。いい、いい」などと、二度繰り返して言うのも、こうした微妙極まりない姿を目の前にして、ただあえぐ姿なのかもしれない。
あらためて、ビキニ姿の園田さんを見ると、ほくろがないな、と思う。身体の線をなぞるように見ても、太腿のところにひとつふたつあるくらいである。
自分で言っていたが、靴擦れの跡もない。女の人の多くは、靴擦れの跡があるものだけど、それを見るたびに、闘い過ぎだと思ってしまう。
園田さんは、背を向けて見返り美人のポーズをしている。口もとが肩越しに隠れて、目は伏せている。
少し水着がずれているな、と思ったら、園田さんは、自分で肩紐を引っ張ってなおした。
ビキニの水着が、エロティシズムをかもし出すのは、その露出度もさる事ながら、サイズがぴったり合わないところにある。
下着は、細かくサイズがあるけれど、水着は大まかな分け方しかされていないから、とくに胸の場合、たいていの人が下着ほど合っていないサイズの物を着けている事になる。
その状態で動くのだから、ずれるのは当たり前で、下がったりずれたりと、その崩れが下着では感ぜぬエロティシズム表現となるのである。
そういうわけで、ビキニの水着で水に飛び込んだり、逆に、急に上がったりしたら、ずれるに決まっている。
水は、意外と抵抗力があるのである。
そのような事をほとんど自動的に考えながら、今回のレイアウトは、撮影順でいいかなと、思えてきた。十二ページである。ちょうど好いだろう。
タイトルは、『香織ちゃん、いいね!』にしよう。
キャプションは、モデルの人のセリフ的なものを入れる、と。
『今日は、晴れですね。午前中は水着なので焼けないようにがんばりまーす』
『少し、大胆ポーズをしちゃいました』
『いいお湯です』などと、並べておこう。
いつもいつも、淡い恋心的なものだし、たまには変えてみるのも好いだろう。
こうして、午後の撮影は、一時間で済んでしまい、今日は小道具を使わなかったから、片づけも楽なものだった。
使えそうなショットもつかんだ。

撮影が済んで、園田さんが、私服に着替えて戻ってくる。花柄をエンボス加工したような薄いグリーンのワンピースである。すでにメイクも落としている。
「おつかれさまでした。今日は、ありがとうございました」と色の淡い唇からほがらかに声が出る。
「ああ、本当におつかれさまでした。とてもすばらしい撮影でした。ありがとうございました。もう、今日は、完璧でした。天気も撮影に都合好かったし、きっと、園田さんの日頃の行いがいいんでしょう」
「ふふっ。気を引き締めていきます」
おれは、二十代半ばくらいのモデルが撮影後に化粧を落として、すっぴんになった顔が嫌いではない。多少、幽霊画のような雰囲気ではあるものの、『グッドジョブ! がんばったね、おつかれさま』と言いたくなるような感じが立ち現われている。『じゃ、あとは任せといて。紙面ができるのをお楽しみに』などと、いちいち口に出せば長くなるような話を、そのさっぱりした雰囲気に見て取る。
このすっぴんになって帰る間際の姿は、あからさまな色気は感じないけど、いちばんかわいいと思う。おつかれさまでした。


我が社、アイム出版の一階は、大部分がスタジオになっている。
パステルグリーンのストライプ柄の壁を背にして、一方には、机やベッド、ソファーなど、女子の部屋に擬した家具が置いてあり、もう一方は、黒板や机が並ぶ教室風のスタジオである。
また、別室は、いわゆる白ホリで、床も壁も真っ白になっている。壁と床の接する部分がカーブしていて、つなぎ目がない。こちらの方は、おれはあまり使わない。グラビアは、その場の背景も含めてのフィクションだから。
今日の撮影は、望月あえかさん。CDも出しているアイドルの人で、形の良い目と厚めの唇がセクシーな、十八歳の高校生である。
今回のタイトルは、『女子と、好き』。ラブリーな感じを撮れればいいと思っている。
まあ、ハートマークをいっぱい飛ばしてもらおう。デザイナーさんに。
今日、一回目の撮影は、夏のセーラー服。下に白のビキニの水着と黒のストッキングを着けてもらっている。
夏服に黒のストッキングという、ずらしの手法で、エロティシズム表現を追い求めるのである。
蝉の鳴きだした時期ではあるが、クーラーも効いているスタジオなので、暑くはないだろう。むしろ、まぶしい夏服に黒のストッキングというコントラストが妄想をかきたてるのである。
教室で勉強している姿や、窓辺に立つ姿を撮影し終えたところで、おれが机を並べる。
そこに望月さんが膝から上って、仰向けになる。
机のような、固く平らな場所の上に寝ると、お尻と肩で体を支える形になり、背中が軽く浮き、内から盛り上がる胸のふくらみが強調される。
とくに、制服は白いために影ができやすく、形が強調されやすい。
続いて、机の上で起き上がって、スカートを外しにかかる。
この辺の順番は、打ち合わせの段階で指示を出している。おれは、基本的にカメラマン任せで、いちいち衣装やポーズの変更指示を出さないようにしている。指示を出すのは、カメラの位置くらいだが、これもめったな事ではしない。
望月さんの身長は、百六十六センチで、おれより三センチ高い。
サイズは、B82W57H84との事であるが、三か月前に会った頃に比べても、変わりはない。
望月さんは、セーラー服の上だけ残して、下はストッキング姿になる。
ストッキングから水着が透けて見えているが、ストッキングなので下着だか水着だかわからない。ぼかしの手法である。
この場合、四十デニールが効果的である。これよりも厚ければ、透け具合が薄まるし、薄ければ透けすぎる。太腿が透けるくらいが好ましい。
社内のスタジオで撮影していると、見物人が社内から集まってくるのだが、今日は日曜日なので、表も閉まっているし、いたって平和な撮影が続く。
すでにビキニの水着姿になった望月さんは、部屋のセットに移って、ベッドの上で、白い羽根枕を抱き締めたところで横になってポーズをとる。
八等身の半分を占める伸びやかな脚を軽く曲げ、長く黒い髪が白いシーツに流れ、目を閉じた姿は、大きな美しい鳥が横たわっているようだ。
ここで、エロティック表現を一歩進めるために、枕をイルカの浮き輪に変えてもらう。見立てである。
続いて、イルカを抱えたまま、ベッドの上でゴロゴロしてもらう。
仰向けになったり、うつぶせになって背中にイルカをのせたり、胡坐をかいて抱えたりと、ポーズを繰り返す。
続いて中庭に入って、水着の撮影である。
頭に大きなヒマワリの髪飾りをつけた望月さんが、ビニールプールに入って膝立ちでポーズをとっている。その横で、おれは脚立に上る。
「では、雨、降らせまーす」
ホースのコックをひねって、頭からシャワーをかける。
水を出す時に少し上向きに出して、風に乗せると、ランダム性が出て、好い雨になる。
シャワーの水が、望月さんにかかると、玉となって、肌を滑ってゆく。
まことにまぶしい限りである。まぶしさと同時に引き付けてくれば、エロティシズムとして標準線を超える。


社内スタジオの端にあるテーブルには、仕出しの弁当のほか、お菓子やジュースなどが並んでいる。
「あ、卵焼きだ。おいしそう」
隣に座った榛名ちゃんが、顔を輝かせる。望月あえかさんの妹の中学一年生である。
モデルさんが、小学生から高校生の場合、撮影が休日に行われる事もあって、一家でやって来る事が多く、おれは妹さんの応対もしなくてはならないが、望月さんの撮影はすでに五回しているし、そのうち三回は、家族で来ているから、お互いになじみである。
席順として、本来はおれが望月あえかさんの隣に座るべきであったのだが、衣装室に行っていたら、榛名ちゃんの隣になってしまった。向かいには、カメラマンの鎌田さん、メイクの嘉納さん、それに望月さんのお母さんが座っている。望月あえかさんはお母さんの向かいである。
榛名ちゃんは、水色のワンピースを着て、妖精さんのようにかわいらしい。
しかし、まだまだ顔が定まっていない。子供らしく目も鼻も口も、顔の大きさに比べて大きく、不安定な蛹という感じがする。
「榛名さんは、卵焼きが好きなのかね」と聞くと、
「うん、卵焼き好きです」
「じゃあ、あげよう、はい」
おれは、榛名ちゃんの弁当箱に卵焼きを移す。
「ありがとう」
「嫌いな物はある?」
「しいたけ」
「じゃあ、しいたけをちょうだい」
「あげる」
「あ、トレードしてる」
榛名ちゃんを挟んで、並んで座っている望月あえかさんが覗き込んだ。
「私もしたい」
「こちらのなにをお望みで」
おれは、弁当を傾けて見えやすくする。
「ええとね。卵焼きは取られちゃったから、がんもか、ちくわかなあ。どうしよう」
「じゃあ、大型トレードという事で、がんもとちくわを出しますから、人参とこんにゃくを所望いたします」
「オーケー。二対二だ。トレード成立ね」
「私もこんにゃくと人参あげる」榛名ちゃんが無償トレードしてくれる。
結局、榛名ちゃんのお弁当は、おれが半分片づける事になった。おれは、体は小さいが、大食いである。長年、撮影で残したお菓子やサンドイッチなどを片づける習慣がそうさせたと思う。
榛名ちゃんは、食べきれなかったというより、幕の内弁当が口に合わなかったようで、目の前のクッキーの缶を見つめている。
『クッキーがある。食べていいのかな』と考えているのが手に取るようにわかる。
「好きなだけ食べていいよ」と言うと、花が咲いたような笑顔になった。
「すいません、さっきから」お母さんが、対角線から言う。
「いいんですよ。榛名さんも、いつもお姉さんの撮影に一緒に来てくれているので、ギャラみたいなものです。じゃあ、今日は、榛名さんにもインタビューしましょう。榛名さん、寝る時のかっこうは?」
「ええと、パジャマ」
「好きな食べ物は?」
「卵焼き」
「先週の日曜日はなにをしていましたか?」
「宿題。あはは」
榛名ちゃんは笑っているが、この年齢は、まだケラケラ笑うだけである。
女性特有の微笑みというものを身につけていない。人から頼まれてする作り笑いができないのである。
撮影の際、慣れていない中学生に、ただ『笑ってください』と言っても、ぎこちなく笑うだけだから、実際に笑わせなくてはならない場合が多い。
「では、ここで、あえかお姉さまにも」
「ええ、どうぞ」
「あえかさん、寝る時のかっこうは?」
「パジャマ」
「好きな食べ物は?」
「卵焼き」
「先週の日曜日はなにしていましたか?」
「宿題」
「姉妹だ」
一同が笑いに包まれる。
「では、午後の撮影の段取りを打ち合わせしましょう。朝に渡したスケジュールを見てください。撮影場所は、くすのき公園です。まあ、みなさん、ごぞんじですね。すぐそこという事で、歩いて行きます。衣装はセーラー服。ポーズは、公園に入るところ。サイドから、アップ。続いて、アイスを持って食べるところ。アイスは公園の隣で私が買ってきます。あえかさん、なにがいいですか?」
「チョコミント」
「かしこまりました。色合いもいいですね。榛名さんはなにがいいですか?」
「いちご」
「かしこまりました。そして、お母さん、お望みは?」
「あはは。ええ、いいんですか。じゃあ、すいません、バニラでお願いします」
「かしこまりました。で、続いて、ベンチに座ってアイスを食べているところです。正面に続いて、顔だけ横を向いたポーズ。あ、望月さんは、適当にアイスを舐めていてください。垂れてこないように。今日、暑いからちょっと忙しくなるかもしれません。アイスを食べたら、手を繋いでるようなショット。あと、ペットボトルのお水を飲んでるショットも一応撮っておきます。あと、風しだいなんですが、風が出てきたら、望月さんが、めくれるスカートを抑えている姿を撮れれば、と思っています。パンチラじゃなくて、パンチラを防いでいる姿を撮りたいんです。そういう事なので、念のために、下は水着を着ておいてください。メイクはこっちでしてもらって、望月さんには、セーラー服に着替えてから行ってもらいます。時間は一時間を見ています。終わったら、一度戻ってきて、望月さんに読者プレゼント用のボラにメッセージを書いてもらいます。そんなところです。よろしく願いします」
突然、「葉っぱを描いた」と言って、榛名ちゃんが、机の上の紙を指した。
さっきから、ポスカでなにか描いているな、とは思っていたのだが、葉っぱを描いたらしい。A4の紙に緑のマーカーで葉っぱがたくさん描いてあった。


十一

「いいよ、いいね、かわいいかわいい、オーケーオーケー」
公園での撮影が始まっている。望月さんが、カメラマンの鎌田さんに向かって、ひろげた手を前に突き出したポーズをとる。衣装はセーラー服である。
続いて、腕を下に伸ばす。
手先が見切れるように写すと、その先で手を繋いでいるかのように妄想させる写真になる。
また、目の端で見ているようなアングルも欠かせない。写真になると、体の後ろが若干切れているようなものになる。目の端で見ると、現実でもかわいく見えるものだが、目の端で凝視しているという事は、見たいという意志と、その意志に包み隠された下心の葛藤が一点においてエスカレーションした姿なのである。
しかし、セーラー服は、どうしてまた、丈短く、おへそや背中がちらちら見える構造なのだろうか。
そして、どうしてまた、日本では、女の子が着ているのだろうか。
雑多な事を考えながら、先ほどからベンチに腰かけているおれの隣で、いちごアイスに続いて、持って来たクッキーの缶を抱えながら食べているのは、モデルの望月あえかさんの妹の榛名ちゃんである。
「アイスはおいしかった?」
「おいしかった」
「榛名さんはビスケットも好きなのかね」
「好き」
榛名ちゃんは、小さな顎を胸につけてうなづく。
「卵焼きとどっちが好き?」
「卵焼き」
望月さんは、鎌田さんと並んで走っている。非常に楽しそうなので、任せておこう。
「ねえ、榛名さんは、さっき、葉っぱの絵を描いていたけど、絵を描くのは好きなの?」
「うん、私、学校で、いちばん前に座っているんだけど、授業中に黒猫の絵をいっぱい描いていた。教科書に。そうしたら、先生が、『それは印刷かね』って、聞いてきた」
「あはは。上手だったんだよ。お姉さんみたく、歌ったり、踊ったりするのは好き?」
「うん、歌は好き。歌をやると、私、元気になるんだよ。今より二十倍くらい元気になる。この前ね、貝がいたから、『わっせわっせわーせわっせ』って、歌ったら、貝は口を開けて、中身が出てきた。私、貝さんに聞いてもらって楽しかった」
「へえ。なんか、すごいね」
「このあいだ、台所であさりを砂抜きしてたら、榛名、歌ってたんですよ。『あさりに聞かせた』と言って」
「なんか、天才かもしれませんよ。音大に行かせないと。軟体動物の心も開かせるとは」
 撮影を見る。ブランコの前に立っていた望月さんが横を向いた時、長い髪の毛が一度に膨れ上がって流れた。
好い風が出てきた。
「望月さん、スカート押さえていてください。めくれないように」と鎌田さんが言う。
風でめくれるのを抑えるシチュエーションの撮影に入る。
風で、スカートがめくれた時に見えるものよりも、めくれたスカートを抑える仕草がエロティシズム表現を展開する。
スカートの中がたまたま見えて、男がする反応は、『おっ』だけど、その後にスカートを抑える仕草で、生の称揚が始まるのである。
この辺で、今日の撮影もおしまい。八ページ、十分埋まるだろう。
望月さんがベンチまでやってくる。
おれは立って迎える。
「おつかれさまです」
「おつかれさまでした。私、今日どうだった?」望月さんは、ほがらかな、丸みのある声で聞いてくる。
「世の男子は、望月あえかにうつつを抜かしております」
「あはは。榛名と仲良くなれた?」
「ええ、いろいろと気に入ってくれたようです。でも、望月さんはどうでしたか、今日の撮影は?」
「うん、学校の制服もセーラーなんだけど、撮影でブレザー以外を着たのは久しぶりだったので、なんか新鮮だった」
「よかった。じゃあ、あとは、会社に戻って、読者プレゼント用のポラを何枚か撮って、メッセージをしたためていただけたら、それで終了です」
「最後までがんばります」
望月さんは、ベンチに腰かけて、ペットボトルの水を飲む。唇を触れる程度につけて飲む。唇の形が崩れぬように。


十二

朝、と言っても、世間で言うところの昼前であるが、会社に出てくると、ホワイトボードの予定表に、『横山 打ち合わせ』、『川崎 書店直行、昼過ぎ』とある。塩田さんは空欄だから、そのうち来るだろう。
谷崎くんの姿も見えないが、この時間は、メール室で郵便物の仕分けをしているものと思われる。
おれは休日に撮影で仕事をしていたから、今日は、代休を取っても構わなかったのだが、なんとなく出てくる。
この、『なんとなく出てくる』、『なんとなく徹夜する』は、この会社に蔓延している病のようなもので、とくに独身の男は慢性が多い。
週末の夜も休日も、人並みに楽しむような私生活を持っていないし、そうかと言って、状況を突破しようにも、努力の一歩目がわからなくなってしまった男たちなのである。おれは、純粋な独身種ではないが、独身には違いないので、私生活における目的のなさはよくわかるのである。修正の手始めに、『どこから来たのか、この状況は』と考えたところで、納得させる原因を作り出すだけで、本当の事などわかるわけがない。
自分の席に行く。
パーテーション越しのミーティングルームから、
「見た目が重要なんだよ。太腿見せないと。清潔感とか、顔とか、そういう話じゃないのか。太腿なんだよ、太腿。あと靴下を履いている仕草とかね。あれほどエロいものは…。うん、じゃなくて」などと聞こえてくる。
隣の編集部の編集会議らしい。
自分の机にメモなどがない事を確かめてから、DVDを持って、フロアの端にあるモニターまで行く。
フロアは、エレベーターを出て、目の前が、アイドルマジック編集部で、そこから三つほど編集部が続くのだが、奥へ進むにつれて、エロティック表現のストレート加減が増してくる。
モニターが置いてあるコーナーまで行くと、柏木さんがいた。柏木さんは、おれと同世代の編集者であるが、頭は金髪にしている。今は、ブラインドの隙間から差し込む夏の日差しを受けながら、右手に鋏、左手にパンツを持っている。女性用である。
「柏木さん、なにしてんですか」
「ああ、唐木くん、おつかれ。下着の底の二重になっている部分を一枚外してんだよ」
「仕込みですか。大変ですねえ」
「唐木くん、なんかやるの」
「映像編集部からの頼まれ事で、モデルのパンツが見えてないかどうか、チェックするんですよ。健全なやつらしいので」
「ああ、いつのもパンツスナイパーの特殊任務か。毎度、どうもだね」
「得意技なんで」
「むしろ、必殺技でしょ」
「なにに対しての必殺技なんですか」
「パンツに決まってんじゃん。隠れようとするパンツに、必殺! みたいな」
「技名を考えないと」
 ソファーに座って、モニターの電源を入れる。
 モデルの人は、今年に入ってからちらほら見るようになり、今や製薬会社のコマーシャルにも出ている人である。胸元に青いリボンを付けた夏の制服を着ているが、モデル本人も高校生である。顔も目も鼻も丸い、ショートヘアーの左側だけ結んだ、かわいらしい人である。
まずは、郊外の閉店したファミレスで撮影しているシーンである。
さすが、映像編集部である。シチュエーションのなんたるかをわきまえている。
陰のある女を人気(ひとけ)のないファミレスに置いても、ただのリアルである。
生命力あふれる高校生を廃墟的な場に置くから、効果が出る。女教師が教室にいるのと逆方向のコントラストで、青春真っ只中の高校生が廃墟にいるから、エロティシズム表現が成立する。
昼間であるが、店内の照明はつけていないようで、店内は薄暗い。そのような中、モデルがソファーまで歩いてきて、片膝を抱える。また、寝そべって、お腹をソファーにつけて、ふくらはぎを交互に上げ下げしている。アングルが後ろからなので、見えそうであるが、まだ、パンツは確認できない。太腿が見えるだけである。
続いて、板金工場のような場に移って、衣装は体操着になる。ブルマではなく、短パンである。短パンの中でもさらに短い短パンをはいている。
見ていると、おれが座っているソファーの後ろに谷崎くんが来た。ハガキを抱えている。
「おはようございます」
「おつかれ」
「唐木さん、なに、見ているんですか」
「ビデオの映像チェック。パンツ見えてないかどうか、チェックワン。チェックツー」
そう言った先に、見えているのに気がついた。
「ああ、見えてますね」
「え、どこ?」
柏木さんが身を乗り出してくる。
「ここですよ」
おれは、映像を戻して、鉄鋼の上で体育座りしたモデルの短パンを指さす。
「ん、どこよ?」
柏木さんは、眼鏡を外して、モニターに顔を寄せる。
「下の方ですよ。太腿の。右の」
「あ、わかった。わかりました。すごい」
 柏木さんの頬につきそうになって、谷崎くんが気づく。
「ここの短パンから、白いのが。たぶんこれ、水着じゃないし。まずいでしょ」
「おお、本当だ。パンツだ。パンツ見えてる。さすが、唐木くん。パンツスナイパー」
「唐木さん、パンツスナイパーなんですか」
「唐木くんは、パンツを見つける天才なんだよ。俺も、唐木くんが第二編集部時代にけっこうお世話になったし」
「第二編集部、任務があるじゃないですか」と谷崎くんが言う。
「本当は、唐木くんは、ひとつの編集部に所属するんじゃなくて、ジョーカーとしていてくれると助かるんだけど」
「しょせんプラスアルフアなんで。でも、あの時代にいろいろ勉強した事もありますよ。パンツを見つけるのもそのひとつです」
「写真は、普通、気づくんだけど、映像はけっこう気づかないからな。時間がある時は、唐木くんにチェックしてもらうといいんだ」
「コツとかあるんですか」
「だいたい、動きでわかるけどね。女子が、どういう服を着て、どういう動きをしたらどうなるか。この場合、ホットパンツ並みの短パンで、この足の組み方をして、前からこの角度で撮れば見えるよね」
「剣豪みたいですね。相手の動きを読むとか」
「いや、撮影の時は、意識できるんだけど、映像となると、難しいんだよ」と柏木さんが言った。
「予測つけますね。この素材のスカートだったら、風でめくれるだろうな、とか。軽い素材だととくに。かえって、タイトの方が安心。まあ、タイトスカートは、しゃがんだら、前から思いっきり見えますけど」
ビデオは、音楽に合わせて、モデルがダンスをしているところを映している。今度は、セーラー服である。板金工場で、制服の少女がダンスをしているという、妙な組み合わせである。
笑顔で踊っているが、無表情で踊ったら、芸術になるだろうと思う。しかし、アイドルなので踊りながらも笑顔でいなくてはならない。
たまに、アイドルのコンサートの取材依頼が来る事がある。
アイドルと言っても、テレビでおなじみのような人ではなく、持ち歌もないような人や、グラビアアイドルのユニットなどで、コンサートの会場も、何千人も入るようなところではなく、せいぜい百人規模のライブハウスだったり、寄席やコント用のホールだったりする。
むかし、ステージが前にせり出しているホールに行った事があった。あるアイドルユニットのお披露目コンサートというかっこうで、客は、全員、関係者であり、おれも初めは客席から見ているつもりだったが、狭い席でじっとしているのは、たまらなかったし、記事にしても、情報ページのわずか十行程度のものであったから、その時は、ステージの袖に立ち、斜め後ろから見ていた。
スポットライトの当たるステージで、アップテンポの曲に合わせて、グラビアアイドル三人がダンスをしていた。ダンスの素人目には、よく揃っていて、きびきびとしたダンスに見えた。
今では、まるで名前を忘れてしまったそのアイドルたちのダンスを見ているうちに、妙な気分になってきた。
表情の見えないアイドルが踊っている姿が、しだいに、なにもない、目当てのない行為に見えてきた。歓びも苦しみもないのに必死でやっているような感じがした。
もう行くところがないような、しかし、『せつない』とは違う。あたかも全体主義国家の中で遊ぶ子供のような感じと言ったらいいか。機械的に見えるわけじゃなく、たしかに人間が踊っているのだが、その人間らしさの源が、虚しさと隣り合わせでありながら、懸命にやっているところにある気がしてきた。
あれはなんだろう。ぴたりと一致する言葉がありそうなんだが。「わびさび」。全然違う。
ああ、「もののあはれ」か。
華やかだけど、どこかに穴がぽっかりと空いたまま踊っているような、結局は、もうなにもなくなってしまうのだろうという感じ。あのけしきは、いまだに感覚として残っている。
映像編集部から頼まれたパンツチェックの仕事は、結局、パンツを確認できたのは、一か所だけだった。見えた場面のタイムと、状況をメモしていると、席に戻った柏木さんが、背中越しに声をかけてくる。
「ねえ、唐木くん、このショットのポエムなんだけど、なんかくれない?」
柏木さんの机に行って、モニターを覗き込む。制服を着たモデルが、上の下着をはだけて、下の下着も片側脱ぎ掛けの、きわどいショットである。
写真が強ければ強いほど、キャプションは必要なくなる。この場合も、必要性を感じなかったから、逆にテキストの力を見せるようなものを書いてみようと思って、「じゃあ」と言って、柏木さんから原稿用紙を借りてつづる。
『切り取った想いは、寒空に舞い上がってしまうばかりで、あの時から僕をうそつきにしてしまった君の微笑みと、君の言葉のひとつひとつを僕の喉が呑み込んで、咲き狂った桜の向こうには届きそうもない紺碧の空が覆っていた』
「長えよ! 桜とかないし」
「あはは。まあ、透明度低くして、うすぼんやりと入れてみてください」
「でも、おもしろいから、使わせていただきます。ちょっと編集するけど。あ、そうそう、今度、横山さん、お子さんが生まれるみたいなんで」
「え、そうなんですか。上司なのに知らなかった。へえ。それは、おめでたいですね」
「まあ、みんなで出産祝いを贈る事になるんだろうけど」
「どっちなんですか」
「女の子らしいね」
「また、女の子なんですか。なんというか、この業界、女の子ばかり生まれますね」
「因果だから」


十三

デザイナーさんとの打ち合わせのために、下町の方へ行った帰り、地下鉄の車内は、始発のためか、空いていた。
動き出すまで中吊り広告を眺めていたら、鼠色のトレーナーを着た、比較的若そうな男がやって来て、おれのすぐ横に座った。
車内は、まだ三人ほどしかいないし、目の前の端の席も空いていた。
『なんだ、こいつは』と思った。移動したものかどうかと迷っていたら、男は、体を向うに傾けて、屁を放ったという怪奇現象が起きて、おれは、別の車両に移動した。
電車が動き出すと、斜向かいの優先席に座っていた婆さんが電話をかけだした。
会社の駅に降り立って、多少なりとも荒んだ気分になっていると、地上へ出たところで、車椅子の男が来たから過ぎるのを待っていたら、おれの足下目掛けて、吸殻を捨てた。
なんだよ、クソ。でたらめだ。今日はハロウィンか。
喜びあふれる毎日を過ごしているわけじゃなく、単に死ぬのが怖いから生きているに過ぎない人間にとっては、こういう事のひとつひとつがこたえる。
スーパーの前まで来ると、乳母車を止めて子供の相手をしている人がいた。おれは、当然、よける。回り込むようにして右へ行く。その間際、坂道を自転車が下りてくる。おれにベルを浴びせた。少し驚いた。
頭が熱くなる。
ああいうのは、別段、他人の身を案じているわけではない。自分の進路の妨げとなっているから鳴らすのであるが、このような事が容易に受け容れられない。あたかも、自分が悪い事でもしたかのような陰惨な気分になるのである。はなはだ殺伐な衝動が出る。実際に、おれがそのような行動に出た事はないし、この先もその自信はある。自信はあるが、しかし、いちいち、その生ずる衝動を抑え込むのである。これは苦しみである。持病のようなもので、大金持ちにでもならない限り、この発作をいちいち抑え込まねばならないだろう。
ここまで論理を伸ばしてみた。犬が自分のしっぽを追いまわすかのように出口がない。下らない。論理なんて、エロスのかけらもない。
『なになにだから、なになにした』とか、『なになにだから、なになにしなくてはならない』とか、そんなものは実際の点から言えばどうか知らぬが、エロティシズムの点から言えばすこぶる発達しない代物だ。どうせ、過去の状況をすべて把握できるはずもないのに。
「疲れた」と照れ隠しのように呟いて、ドラッグストアに近づくと、店先にティッシュが積んである。ああ、仕事場用の物を買うんだっけな、と思って先客が取るのを待つと、その五十歳くらいの女が、「あと、ビスケットってどこですか」と聞いてきた。
店員と間違えているらしいが、黒いシャツをズボンから出しているおれが店員に見えるのか。
「店員じゃない」と平板な調子で返して、その場を去った。
編集部に戻ってきて、しばらく考え込む。
誰かに対して腹を立てるのは、その誰かを悪と認めての事だろう。悪とは、禁止されているはずの物事を破る事に違いない。その感覚は、いつから人に備わっているのか。人間が労働を始めた時からだろう。人間が集団で猟をするにしても、ささやかな栽培を始めたにしても、そこには、『禁止』というものが発生したはずである。動物には労働もなければ禁止もない。だから、生きる理由なんてない。人間には禁止が発生した。禁止が発生したと同時に、それを破ったらどうなるのかという衝動も生じ、それを求める欲念が発生したはずだ。楽園追放は、この原型をとどめた神話だろう。人間にとって、禁止を念頭に置いて生きるのはかなりの無理がかかったに違いない。当然、それを破る事が頭に浮かぶ。その禁止の破りが悪の始まりだったはずであり、スカートの中身が見える事にエロティックなものを感じるのは、それがスカートという禁止の壁が破られ、対象の領域に入り込んだという感情から生じるものなのだ。
しんどい。
斜向かいの川崎さんは、ファッション雑誌を読んでいる。塩田さんは、全館放送で呼び出した谷崎くんに、デザイナーさんのところまでお使いを頼んだ。
横山さんは打ち合わせでいないし、「今日はこれくらいにしよう」との独り言で、今日は帰る事にした。まだ七時前なので、とりあえずホワイトボートには、『資料集め、直帰』と、書き込んでおいた。

部屋に戻ったが、スーパーに寄らなかったので、なにか食うにしても、春雨とシリアルしかない。
部屋では、湯を沸かすくらいしかしないから、冷蔵庫もなく、プライベートの飯は、春雨とシリアルの果てしない繰り返しである。
電気をつけようか。すでに夜だが、窓の外から入ってくる街の光で、淡く室内が映じている。
八月の夜はそれなりの暑さであるが、エアコンがないから、窓を開けて扇風機をかける。
物の少ない部屋は、歩いてぶつかるような家具もないし、外からの明かりで物の配置は見える。電気をつけてまでやる事といったら、湯を沸かす事くらいである。
部屋に戻っても、やる事がなにもない。言葉も発しない。プライベートで発すべき言葉がそもそもない。人間は言葉で自分を支えているものだろうから、言葉でもって届かせたいものがなくなったら、もうおしまいなのだろう。
四十路を越えたせいか、一人でいる時の考えも、妄想ではなく、走馬灯じみてくる。
中学高校に、いい思い出なんてまったくない。
おれは中学一年までは成績が良く、授業中も積極的に手を挙げて答えるような少年だった。それが、他の少年たちには目障りな行為だという事に気づきもしなかった。
 二年に上がると、成績順に各クラスに割り振られる。
 学年一位の者はD組に、二位はC組、三位はB組、四位はA組で、五位からは、A、B、C…という具合に割り振られる。
 おれは、中一の三学期、一月に行われた共通模試で学年一位だったから、D組になる事はわかっていた。そして、数少ない友だちの二人がB組とC組に行く事も知っていた。彼らは学年二位と、三位だったのだ。
それでも、学年一位という響きに自分の威力を感じながら、五月の中間テストで満点に近い点を取る。その勢いで、ある国語の授業で、先生の質問にすべて一人だけ手を挙げ、すべて答えるという事をしてしまった。
 その時の女の先生が言った言葉は、四十を過ぎた今でも覚えている。
――なんだ、唐木のワンマンショーじゃないか。
 めぐりあわせがあるものだ。
めぐりあわせがすべてじゃなかろうかとさえ思う。
六月に入っても、友だちらしい友だちはできぬまま、やがて、教科書が捨てられ、拾って来れば真っ二つに割かれた。
高校は、私立の男子校に入った。
歴史のある高校で、進学校としても有名ではあったが、実際は浪人する者も少なくなかった。
それでも、下がり続けたおれの偏差値では、そこに入ったのも奇跡的だった。
高校では、下から数えた方が早いような成績だったが、ロッカーから運動靴やサンダルが消えるような事は変わらなかった。
いじめられていた自分が、ただえへらえへらして、我慢していたのはなぜだったんだろう。
なんで、そういうところだけ我慢強いんだろう。
なぜ、誰にも助けを求めなかったんだろう。
学校は、異常が起きても、なにもなかったかのようにふるまう事に慣れるための場所なんだ。そうして、まわりを気にせずに、自分のやるべき事をする人間を作ってゆく場なんだ。
それに気がついたのは、卒業する頃だったろうか。いや、知ったのはずっと後だったのかもしれない。
親には、自分がいじめられているとは言わなかったけれど、真っ二つの教科書を見ればさすがに気がつく。
部屋の四畳半で、半分の教科書を手にした母親に言うべき言葉を探していると、母親は、おれに対してこう言った。
――ぼさっとしているからだ。
母親はヒステリー。親父は小心者のアル中。
まるでロシア小説のテンプレートだ。
スーパーの八百屋に勤めていた親父は、普段はぺこぺこしている反動か、仕事を終えれば、焼酎という事になり、酔っぱらいの赤づらをさらして、バスの運転手でも、レストランのウエイターでも、誰彼構わず、ふんぞり返った態度を取っていた。
母親は、おれが少しでもはしゃげば、スーパーだろうが、往来だろうが容赦なく怒鳴り散らした。委縮する事をいい子になったと思い違いをするタイプだった。
高校に入ってからは、勉強している振りをしていただけだった。耳と目を塞いでいた三年間だった。
高校を卒業して、私大の文学部の二部に入った。一年ほど本屋でバイトをした後に、二年になって、アイム出版のアルバイトを見つけた。
成年に達した時に、友だちも親もいなくなっていた。なにかを話したくても、仕事場の人以外は、話す相手がいなかった。
授業料は三十万円程度だったから、自分でなんとか払い続けられた。
親に対しては、もう顔も思い出せない。むかしの家にあった箪笥の金具の形の方がよく覚えているくらいだ。親は、普段どういう服装でいたのだろう? セーターでもないし、シャツでもないし、Tシャツのイメージもない。コートやジャンバーは? まるで思い出せない。
今の自分には、親戚と呼べる者もいないから、天涯孤独というやつなのであるが、それを受け容れるのが怖いがゆえに、適当に会社に行って、時間をすりつぶしているのである。
今さら、自分が他人にどうこうして欲しいという事もない。ただ、苦しみを与えないで欲しいだけである。おれが仕事場で、できるだけノリをよくして、頼まれた仕事を断らないのも、他人が怖いだけかもしれない。本当のところで、谷崎くんでさえ恐れているのかもしれない。
世界と合わなくて、つらい事や悲しみがあっても、死ぬのはさみしい。学校でも家でも、頭を使わずに気ばかり使っていた。他人をかわすためのコミュニケーションであり、行動だったから、卒業というものが、もう行かなくて済むというだけの事に過ぎなくて、社会で役に立つものを得られたわけではなかった。
第二編集部時代なんて、ただ楽なだけだった。通勤だけが疲れる、そういう生活だった。
実際、今のおれには死ぬ時に呼ぶ名さえないだろう。この世の去り際に『さようなら』を言いたい相手も、あの世で再会したい人も思いつかない。最後くらい、神様にお祈りしてしまうかもしれないけれど。

部屋の明かりをつける。過去を思い出させるようなものがなにもない。すべて捨ててしまった。
おれの持ち物でいちばん古い物は、台所の丼鉢だが、それさえ、一人になってからの物である。
なにもかもがもう何年もたつ。三年前が五年前になり、五年前が十年前になる。
『あの時からもう何年たつ』との基準になる思い出は、人それぞれあるだろうが、今のおれにとっては、彼女と別れた時が、自分の人生の過ぎ去った年数を数える基準になっている。
過去を思い出させる物、共に暮らしていた彼女を思い出させるような物は、皆、捨ててしまった。
彼女は、おれが撮影を任されるようになった頃、使っていたメイクさんのアシスタントをしていた。
出会った時、おれは二十六歳、彼女は二十三歳だった。しだいに、彼女の気配りや優しさにひかれていった。
付き合いはじめてから世界が変わった気がした。ささやかな事だけれど、彼女に髪を切ってもらうのが、幸せだった。
厚い上唇から二本の前歯をのぞかせて、くすぐるような声で口づけと愛情を優しく求めてくる彼女に、おれは、この賜物を受け取る力があるのだろうか、と不安を感じながらも、溺れるように二人の世界にひたった。彼女は唯一のプライベートだった。
仕事が終わって彼女と待ち合わせをして、夜を過ごした。年月を重ねるうちに、やがて終わってしまう夜に耐えきれなくなって、七夕の日に籍を入れた。晴れて二人の愛が世間に認められたものとなり、自分も一人前の人間になれた嬉しさで心がいっぱいになった。
一年後の七夕の日、二人でお祭りに行って、短冊に願い事を書いた。
おれは、『ずっと一緒にいられますように』と書いた。彼女のものを見せてもらったら、『まーくんが正社員になれますように』と書いてあった。
その頃から、それまで悦びだった行為が罰のように思えてきた。彼女の期待するところと、自分がありたい姿がずれ続け、ごまかし続ける以外に方法が見えなくなっていた。
クリスマスになって、色とりどりのライトや飾り付けで暖かな賑わいに覆われた街を通り抜けながら、「愛というものは、相手のために自分を投げ出すんじゃなくって、お互いが長所を知って、成長するものなんじゃないかな」と言ったら、彼女は、「そんなの愛じゃないよ」と答えた。そう言われて、自分が嘘をついていた事に気がついた。お互いを支えるどころか、自分が彼女の、彼女が自分の重りになっていた。このまま、結婚生活を続けたとしても、二人分のスピードで沈んでゆくのは目に見えていた。
離婚届を出すのにも、おれは行かなかったし、彼女は、普通の引っ越しのように家を出て行った。最後に玄関でスーツケースを持ちながら、「元気で」と言った彼女の表情は、グラビアの女の表情しか知らないおれには、言葉を重ねる事ができないものだった。扉が閉まって、スーツケースが廊下を遠のく音が聞こえた。日曜の早朝だったから、あとは、なんの音も聞こえなかった。
彼女が引っ越したから、おれもスーツケースひとつで引っ越した。情けなくは思ったけれど、『こんなものだろうな』と思っだけで、涙は出なかった。
おれが今も年俸三百万の契約社員でずっと仕事をしているのは、この仕事に愛があるわけではなくて、自分の現実から目を背けるためにやめないだけだとも思う。
うまくいかなかった自分の人生をごまかすためには、グラビアの編集というアウトサイダー的な仕事は都合が好い。出世しないならなおさら都合が好い。これで、背広を着て、ラッシュに詰め込まれて、数字を追って、気を遣うような仕事をしていたら、プライベートのなにもなさが重みをもって圧(の)しかかって来るだろう。
まったく、世を忍ぶ仮の姿としては好い仕事を見つけたものだ。人生のお茶を濁すには恰好だ。
横山さんや塩田さんのように、家庭を持っていて、家も持ち家の人もいるけれど、役職にない人たちで結婚しているのは、奥さんの実家が裕福な人か、奥さんの稼ぎの方が多い人しかいない。
あとの人たちは、すでに結婚などする気もなさそうだし、やめさせられるまでは、会社にいるような人たちばかりで、かく言うおれもそのうちの一人であり、自分が末代になる事が決まっているような将来性である。
皆、ずっと二十歳くらいのままなんだろう。二十歳くらいの精神状態で留まってしまったんだろうと思う。
パンツを改造していた柏木さんにしても、たとえば、あれで実は三人の子持ちで、世田谷辺りの一戸建てに住んでいるいいお父さんで、趣味も多彩だとしたら、パンツ改造が意外性として魅力のひとつにもなるのだろうが、現実の柏木さんは、高円寺の中古マンションに住む独身男である。
なんのドラマ性もない。身に着いた実力そのままの生活である。おれよりは社会的なものを持っているのだろうが。
しかし、と、思考を反転させる。こういう事を考えているのは、『自分がかわいそう』と思っている証しだろうとも思う。自分の考えを現実にねじ込もうとするから論理など立てるのだ。グラビアの編集も、嫌ならとっくにやめているだろう。これが、仮に年俸二百万でも、交通費と経費が出るならやめないんじゃないかと思う。おれの暮らしならば食ってゆけるだろう。過去が現在を支えていない独身の四十男にとっては、すでに将来などあってないようなものなのだ。
むかしは熱を持って仕事をしていた。仕事は全部引き受けたし、暇な時には他人の撮影に付いて行って、雑用をしながら観察していたし、営業部にまで出向いて意見を聞いていた。企画の事も四六時中考えていた。そうして自分なりにがんばったところで、『第二編集部』という、担当仕事がないところに配属され、プライベートでは共に暮らす人がいなくなった。他人の信頼が欲しくて、仕事をしていたからかもしれない。もっと頭が良ければ、うまく立ち回れたかも知れない。もっと背が高かったら、見下されずに済んだかもしれない。
がんばらず、目立たず、百の仕事を百していればたたかれる事もない。
ここまで考えてきて首を振る。
つまらん。一人でいると、めどの立たぬ想念に引っ張られて、しなくてもいい解釈をして、出さなくてもいい結論を出してしまう。
今は八時。
零時まで四時間。
腹が減っていない。風呂を沸かして風呂に入ろう。そして眠ろう。たくさん眠ろう。
明日も起きて仕事に行くのだ。


十四

編集長の横山さんが、ぺったりぺったり、サンダルで歩いている。そのまま廊下に出て、エレベーターの音が聞こえた。おおかた、昼飯でも食いに行ったのだろう。
おれは二百字詰めの原稿用紙を机に置いて、ポエムのようなものを書いている。
コンピューターで書かないのは、おれが苦手という事もあるが、たとえば、『ちまちまちまちまちまちま』と書こうとすると、コンピューターのキーボードを十二回たたいて入力する事になる。
文章を書くという事はこういう事なのだろうか、と思う。また、『使用』と書こうとして、『止揚』と出てくると、いちいち驚く。
そういうわけで、原稿用紙を目の前にしているのであるが、グラビア雑誌の写真には、モデルの横にポエムのような文章が載っている。
モデルのまわりの、写真の空いているところに載せるのである。
たとえば、
・ぼくのセンチメントでつきあわせちゃったね
・ねえ、教えてよ、知らないことがあるんだ
・ずっと平行線だった君と僕の道が昨日重なった
・残念、先に好きになったのは私の方でした
など、男子から女子への想いである場合もあるし、女子の恋心を表すようなものである場合もあるし、さまざまである。
すべての写真に載せるわけではないが、一ページ丸ごと占めるような大きなものには、原則として載せている。
なぜ、載せる必要があるのかは定かではない。
百年くらい前の、フランスあたりのピンナップ雑誌がその元だと思うが、それ自体はイラストだったから、絵画を模倣してタイトルやキャプションをつけたんだと思う。
それと同時に、日本の春画にあるような、背景の空間に台詞を流し込んだ手法も参考にされたのだろう。
一度くらいは、モデルの背景をびっしりと文字で埋め尽くしたページを作ってみたいが、それはアートであって、グラビアではない。
まれにグラビアを芸術のひとつのジャンルにしたがる方がいるけど、あれは違うと思う。
芸術は、なにかしらの手段で、精神を『はっ』とさせるものだろう。
グラビアでそれをやるには、見た目だけで崇高の念を覚えるような美人、または美少女をもって来るしかない。で、おれはまだ、そういう次元の人にお目にかかった事がない。しかし、それはすでにグラビアではない。
 鉛筆を手にする。掲載写真にキャプションをつけなくてはならない。
モデルは望月あえかさんである。十八歳の高校生であるが、先月撮影のセーラー服に続いて、二か月連続掲載である。
望月さんが、たまには制服以外をやってみたい、とリクエストしたので、今回は、『あえかスペシャルエディション』と題して、ロングの髪をツインテールにして、魔女に浴衣にチアガールでやってみた。
望月あえかさんは、形の良い目は麗しく、頬のラインからほそっりした顎にいたるまで葛藤がなく、ものぎれいにできていながら、唇が厚くふっくらしている。
撮影の時も思ったが、望月さんは、とんがり帽子とか、マントとか、魔女のかっこうもよく似合うし、簪(かんざし)や花などの髪飾りがよく似合う。飾り付けや着せ替えがいのある人と言える。
さて、ポエムだが、ほとんどの編集者は、電車なり食事中なり、思いついた時にメモしておいて、その中から選んで使うらしいが、おれは会社の机で適当に書いてしまって、あまり考えないようにしている。
とりあえず、『君のハートにチャージイン』と書く。天井を仰ぎ見る。蛍光灯が一本切れている。総務に言わないと。顔を戻す。
・空がきれいだ、約束をしよう
・虹のかなたに逃げましょう
 こういう事はウォーミングアップでもあるのだが、なんだか、今日は違う。
・今日、携帯家においてきた。
・あなたがくれた私は永遠だ。あなたがくれた私は空想だ。
・愛とか、いまだになぞの言葉です。などと、試みるが、違う気がする。
あまり写真の説明になっても仕方がないし、適当さも必要でもある。
頭を使わず、手だけで書いてみる。
・いったいなにが正しいの いったいなにがほしいの
・誰もいない 部屋
・誰もいない ここは誰もいない
・好きになると、嫌いになる
・逃げ出すべき端がない
・それは無意味で、今さら
 鉛筆で書くたびに、先から炭素が剥がれ落ちて、文字が現れる。書くたびに削れて短くなる。
・この部屋はどうしてこんなに暗いの?
・あなたは納得した?
・で、結局なにが言いたいの?
 拳を握りしめて額に置く。
これじゃあ、ポエムじゃなくて、自己分析か、自己発見だ。
とりあえず、クリーニングから戻ってきた衣装でも戻そう。
衣装の入った袋を下げて、エレベーターで地下へ行く。
衣装室の扉を開けると、電気がついている。月刊アイドルマジック編集部の隣にあるファーストコンプレックス編集部のアルバイトの石原さんがいた。目が丸く、若干たれ目で、口は小さめ、体はふくよかで丸みを帯びながら、身長が低いので、どことなくリスを連想させる。靴は厚底靴である。今は白衣を着て眼鏡をかけた姿でいた。
「あ、唐木さん」
「うす。おつかれさま」
「さっき、塩田さんの企画の、『リビドー研究所』で、その博士役をやったんですよ」
「そうなんだ、それは、ご協力ありがとうございます。けっこう、コスプレさせられるでしょう。アルバイトの人は」
「先月は、セーラー服着ました」
「川崎さんもむかし、セーラー服着ていましたよ」
「唐木さんもコスプレした事あるんですか?」
「ありますよ。むかしだけど。ファーストコンプレックスの企画で、網タイツはかされました。ピンヒールで。筋肉痛になりましたけど。バックナンバー見れば、出ています」
「ピンヒールですか。私、履いた事ないんですよ」
「ああ、そこにあるから履いてみれば」
おれは、靴箱から見えている、ピンクのラメをあしらったピンヒールを指した。
「うわ。見るからに、色っぽいですね」
石原さんは、そう言って、履いたものの、ふらついている。
「なんか、無理っぽいです」
「慣れてないなら、やめておいた方が無難かと」
「普段は、厚底ばかりだから」
「かっぽれですか。ま、ピンヒールは、脚をきれいに見せるというより、むしろ踵をつけていない、というところにその効果があるから。つま先に力を入れているという状態が色っぽさを出してくるし。踵をつけている時より、腰が浮くし」
「ああ、そういう、奥深い理由が」
おれは、ピンヒールのエロティシズムについて語りながら、袋から制服を出して、ハンガーに戻そうとした。
「あ、私やります」
「ああ、じゃあ、お願いします。助かります」
「唐木さんて、雑務とかも自分でやりますよね。谷崎くんとかにやってもらわないんですか」
「まあ、別に、って感じです」
石原さんは、おれがまだ、第二編集部にいた頃に、アイム出版に入ってきた。
おれはその頃、よく給湯室にいて、棚の整理や給茶機の掃除をしながら、冷蔵庫の物や上に載ったお中元の品物をつまみ食いしていたものだった。やる事がなかったものだから仕方がない。
石原さんが来るようになって、『よく会いますね』と二人でつまみ食いをしながら、給湯室でグラビアの編集の心得などを説く日々が続いた。ある日、石原さんが、『相談がある』と言ったから、晩御飯を食べながら、恋愛の話と会社の人間関係の愚痴を聞いた。どちらが本命だったのかはわからない。
その時に、『会社の愚痴に関しては、私以外に言わない方がいい。私はいくらでも聞くから』と言って以来、石原さんの相談役になり、おれは、石原さんに対して、半分敬語を交えて話すようになった。
「ねえ、唐木さん、聞いてくださいよ」
「聞きますよ。今日はなんですか」
「最近、否定ばかりされるんですよ」
「と言うと?」
「企画とかでも、必ず一度は却下されるし、タイトルとかも、考えてくれって言うから、考えたら、通らないんですよ。唐木さんの弟子なのに」
「たとえば、どんなのを出したんですか」
「『100パーセントラブ』が通らなくて、悔しかったから、『ラブ100パーセント』としたんですけど、それでも通らなくて」
「別に悪くないと思うんですけど、そちらの編集長の川田さんが、よく見ているんだと思いますよ。石原さんがある段階に来たという事でしょう」
「いいと思うんですよねえ、『ラブ100パーセント』」
「それ、たぶん、『ラブ99.99パーセント』にしたら通りますよ」
「本当ですか?」
「そんなものです。エロティシズム表現は、寸止めが基本です。百パーセント行っちゃうとエロくないんですよ」
「でも、『ラブ100パーセント』!って、言った方が言いやすくないですか。『ラブ99.99パーセント』よりも」
「この場合、言う必要はないんですよ。グラフィック表現ですから」
「ああ、なるほど」
「それに、石原さんは、そういう周辺の仕事より、撮影自体がうまい気がします。構図とか。コーディネートとか」
「それは、嬉しいです。少し意識してみます」
「人間も生き物ですからね。その性質に見合った能力を発揮するしかないんですよ」
「あと、報告なんですけど、恋愛方面ですが、結局、別れちゃいました」
「例の、大学生の彼氏ですか」
「私、来月、誕生日じゃないですか。それなのに、『お金がないから、ファストフードくらいしか行けない』とか言うし。そのくせ、『ゼミの後輩に教える』とか言って、デートしてるんですよ。SNSにツーショットをアップしてて。腹立ちませんか?」
「そりゃ、なんとも。まあ、男は、そういうものだとしか。若いうちに落ち着くはずがない」
「あいつと結婚しようと思っていたんですよねえ」
「あまり、自分の世界を固める事もないですよ。そうそう、谷崎くんが、彼女を募集しているみたいでした」
「年下は、しばらくいいです」
「でも、こうして仕事をこなしているのが偉いですね。私だったら、すねてしまうでしょう。石原さんは、日記はつけるタイプですか」
「手帳に書き込むくらいですね」
「なにか、思った事があったら、書いておくといいですよ」
「企画のネタとかは書くようにしているんですけど」
「お仕事の事も自分の成長につながるから、いいんですけど、日々の自分の思い付きを書き留めるってのは、その時その時の自分を大切にするって事ですから」
「自分を大切にする。言うだけで元気になります」
「不思議な事に、人間の脳は自分を大切にする行動を繰り返すと、脳がそれ相応の構造になって行くみたいですよ」
「よし、まずは自分を大切にする習慣ですね。最近、後悔が多かったんで、よかったです」
「後悔は、その時の自分を否定する事ですから、あまりエロス的じゃないですね」
「ふふ。なんだか、唐木さんて、やっぱり先生みたいですね。今度、またごはんに行きましょうよ」
「そうだね、じゃあ、おつかれです」
おれは、先に衣装室を出た。
まだ、ポエムはできない。
エレベーターに乗って、そのまま屋上へ行く事にしたが、途中で思いつく。こういう事は、よくある事である。エレベーターは労力を必要としないから、昇天に近い。ボタン一発。


十五

最新号の見本誌が届く。
見本誌は、売っている物とまったく同じ物ではあるが、発売日より前に印刷所から直接届く。
うちの場合は、たいてい前々日頃である。
この段階で、内容に抜けや間違いがあったとしても諦める。バーコードと値段以外は。
バーコードと値段は間違える事はないし、間違っていたとしても編集のせいではない。
聞いた話ではあるが、むかし、消費税が改定された時に本体価格が違っていて、社員全員で戸田まで行って、数万冊分のシールを貼った事もあったそうだ。
見本誌の届く時期は、あまりやる事はない。
次号へのスタートは切っているのだが、まだ打ち合わせがメインの時期である。
もう昼を過ぎているが、アイドルマジック編集部も、おれと谷崎くんしか来ていない。川崎さんは、有給を使って休んでいる。
谷崎くんは、見本誌をおれの隣の作業台に積んで、関係者宛てに送るべく、封筒に詰めている。
おれは、一冊手にして、自分が担当した、望月あえかさんのグラビアページを開く。とくに問題はないようだ。浴衣から見えるふくらはぎも太腿も、読み手はドーパミンが出るだろう。
表紙には、水着姿のアイドルの大きな写真の下に、『それは物語。キミとボクとの物語』という、今月号のテーマが書かれている。これは、編集長である横山さんが毎度考えている。
おれが担当した望月あえかさんの名前も大きく出ていて、『センター特集!!  秘密、つくりたいね』というコピーがついている。これは、担当のおれが書いたものである。
今号では、もう一人、常山春香さんというグラビアアイドルのグラビアページを担当した。表紙に比較的小さく出ているその名前の上には、『鮮やかな想いでキミの前へ』とあるが、実際には撮影はしていない。モデルさんには会った事もない。掲載された写真は、先月発売された常山春香さんの写真集で使わなかった写真を、写真集編集部から借りてあとは所属事務所とやり取りをして使っているだけである。こういう事もよくある事である。
雑誌全体を、はじめからぱらぱらと見てゆく。
たいていは、お決まりのパターンを撮影している。砂浜に駆け出さんばかりに立ち、満面の笑みでこちらを見ていたり、胸元の開いた服で前かがみになったり、顔や体に霧吹きで水を吹きかけて、ベッドでけだるそうにしていたり、開いた窓を背にして、もたれかかっていたりする。
「なんで、グラビアって、前かがみになるんですかね」谷崎くんが聞いてくる。
「その方が胸が大きく見えるからじゃよ。大きいほど、余計に」
「ああ、なるほど。重力ですか」
横山さんのページは、『川田由良19歳!! 大胆チャレンジ!! 黄昏めいた光の中で』とある。タイトルが文学的な横山さんらしいな。その中で一枚だけ、ビキニのモデルが、民家の鴨居に両手を伸ばして、顔を傾けて笑顔を見せている写真にひかれたから、谷崎くんに見せる。
「谷崎くん、この写真、いいと思わない?」
「ああ、かわいいですね」
「女性は、腕を上げた時に胸の形がきれいになりますな。あんまりエロティックじゃないけど」
「やっぱり、多少の崩しが必要なんですか」
「わかってきたじゃん。グラビアのテンプレートって、だいたいそうだから。しなをつくったり、顔を傾けたりとか。真正面から顔を撮っているのって、あんまりないよね」
「こないだ、美学の授業でやっていましたけど、肖像画を真正面から描かないのは、偉い人を真正面から見据えるのが失礼だったかららしいですね。もともとは、魂を支配するという話で」
「あ、そうなんだ。さすが、現役大学生。真正面って、描くのが難しそうだし。でも、パターンは出そろっちゃってるね。谷崎くん、なにか、こう、斬新なエロティシズム表現はないものかね」
「なんか、このあいだ、友だちと話していたんですけど、女の子同士で足を使って胸をもむってのが」
「若者のあいだではやってんだ。エロのトレンドだ」
「あまりぴんと来ないんですけど、足の裏をつけて押し合うゲームみたいなものなんですかね」
「ええと、どうやるんだ。向かい合って座って、一方が足を上げてやるのかな。あとは、後ろからかな。もめるか?」
おれは、椅子の向きを変えて、足を上げて空中で試みた。
「後ろからは難しいな。無理でしょ」ひとまずの結論を言う。
「やっぱり向かい合ってやるんじゃないんですかね」
「うん、向かい合ってなら行けそうだ」
おれは再び足を宙に向けて試してみる。虚空をかき混ぜるように。
「だぶん、あれだ。胸をもむってのは、愛撫の象徴みたいなものじゃん。それをあえて、コントロールしづらい足でやる。そのもどかしさに、エロティシズムが生ずるんじゃないのかな」
「なるほど。わざわざ難しくしておいて、到達した時のクライマックスが」
「遮断機を下しておいて、上げるエスカレーションが。もしくは、覆っておいて、出す、みたいな。エロティシズム表現は、その遮断器であり、ヴェールの事なんだよ」
「欲望の持って行きどころを見い出せた! みたいな感じですね」
「ああでも、後ろからでも挟むくらいなら行けるわ。ぽよん、ぽよん」
おれは、仰角を上げてやってみる。
「唐木くーん、なにしてんの」
「あ、横山さん、おはようです。いや、谷崎くんが、新たな世界を示して来たんで、検証ですよ」
「どんなのよ」
「なんか、最近、女の子同士で、足を使って胸をもむってのがトレンドらしくて」
「えっ、そんなのできるの」
「今、試していたんですけど、できそうです。行けそうです」
「えろいじゃん、今度撮影でやってみよう。あ、谷崎くん、手伝ってほしい事があるんだ」
谷崎くんは、横山さんの机へ行く。
おれは、今日は、なにしようか。
机に伏せって、顔を横にして、床を見る。
白いタイルの寒そうな艶の上に、紺のスカートが入ってきた。あのふくらはぎは。望月あえかさんだろう。見本誌を取りに来ると言っていた。もちろん、プロダクションにも送るのであるが、半分は遊びに来ているのだろう。
体を起こす。望月さんが、本物の制服と鞄を手に入ってくる。もちろん、今日はメイクをしていないが、彼女の場合、すっぴんの方が力強く見える。髪は編んだ髪をさらに結い上げている。
「おはようございます」
「望月さん、おつかれさまです。あれ、今日、学校は夏休みじゃないんですか」
おれは、望月さんが制服で来たのが意外だったから、立ち上がりながら聞いてみた。
望月さんの学校は、ここから三分くらいのところにあるので、学校帰りに寄る事があるが、今は八月に入ったばかり、しかもまだ昼過ぎである。
「私、今日、知らない人から飴もらった」
「それ、知らない人じゃなくて、ファンじゃないんですかね」
「そうかもしれない」
「あなたを崇拝したい男がいるんですよ。砂のように。砂のような」
「その言い方キライ」
「すいません」
なにか、今日は望月さんの声が重い気がする。
「今日は、文化祭の打ち合わせだったんだ」
望月さんは、入り口脇の丸テーブルに腰かけたから、おれも移って向かいに座る。
「そうなんですか。望月さんは、なにをやるんですか」
「うちのクラスは、喫茶店」
「なんと。望月さんがウエイトレスやるんですか」
「私は、マカロンづくり担当だから。今日、試食で作ってきたの」
「出来栄えは、どうですか」
「うん、持って来たから、あげる」
望月さんは、鞄からリボンで結んだ、セロハンの包みを出す。
「え、いいんですか。ありがとうございます。とてつもなく嬉しいです」
リボンをほどく。セロハンと、色紙で包まれたマカロンは、色違いが、三個入っている。
「ああ、かわいいですね。食べますよ」
「どうぞ。召し上がってください」
「ああ、おいしいですね。歯触りがいいですね」
おれの味覚は、マカロンとカルメ焼の区別もつかないのだが、とにかくうまい事はわかる。
「作っている時は、楽しいですか」
「今回ね。クラスの子と一緒に作ったんだけど、メレンゲを知らない子がいて、びっくりしたんだ。でもね、メレンゲを作ったら、『これ、重層と水でできているのかと思ってた』と言われた時に説明してあげて、それが楽しかった」
「ああ、なるほど、それは、自分の気持ちや自分の事をわかってもらいたいという事ではなく、世界の仕組みをわかってほしいという事だったのかもしれないですね」
「これを知ってほしいっていうのを伝えるのって、楽しいよね」
そこに、塩田さんの巨躯が現れた。
「ああ、あえかちゃん、今日は撮影かなんか?」
「ううん。唐木さんとトークセッションです」
「いや、見本誌のチェックですよ」
そうだ、見本誌を渡さねば。
積んだ山から一冊取って、渡す。
「封筒いりますか」
「このままでいいよ」
望月さんは、机の上で、見本誌を真ん中から広げた。中綴じ雑誌のセンターカラーなので、探しやすい。
「太ってるなー」とか、「この写真は好き」とか言いつつ、片手でめくっていると、魔女のコスプレのページで止まった。
とんがり帽子をかぶって、黒の膝上のワンピースを着て、長椅子で片膝を抱えているポーズである。
目の前の望月さんは、制服の半袖をさらにまくった後、グーにした両の手をテーブルの上にのせたまま、顔を写真に近づけて、まなじりを決したように見ている。目だけ動かして、おれを見上げた。
おれは、かわいいね、と思ったが、モデルさんの前では、心の色は外へと出さないようにしている。しかし、次の撮影で使いたいな、とは思って、目を逸らし、入り口の観葉植物の深い緑に一度目を向けてからまた、望月さんを見た。
望月さんの目は、写真に戻っている。またおれに目を戻すと、「見えてる」と言った。「見えてるよ」と繰り返した。
片膝を抱えているポーズを斜め前から撮った写真であるが、スカートの中の白い水着が見えている。
「毎度おなじみですが、今回はお気に召しませんか」
「なんか、今回は恥ずかしい気がする」
写真チェックの段階で、望月さんや事務所のオーケーをもらっているので、なんら問題はない。もしこれが、水着とはいえ、見せてはいけないのに見えていた場合は、着なれぬスーツを着て、銀座の虎屋で羊羹を買い求め、プロダクションに説明しに行かねばならなくなるが、これは編集長の役目である。
「今度から、写真チェックの際にお願いします。それと、あらかじめマネージャーさんにも意向は伝えておいてください。しかし、今回は、すでにどうにもなりません。次のリクエストには必ず答えます」
「わかった。でも、本当は、いいんだよ」
望月さんは、こっそり、という感じで笑った。
「でも、これは好き」
望月さんは、右手の人差し指のつやつやした爪で、おれがこしらえたキャプションを指す。
それは、最後のページで、黒の板塀に寄りかかって、顔だけ左に向けている浴衣姿のページに載せたポエムのようなものであるが、
空が晴れてた
せみが鳴いてる
花火が上がる
そんなことより、君が好き
と、ある。
いつもながらの適当なキャプションであるが、お気に召してくれたのなら、ほっとする。
「そうだ、今度、企画ページで、アイドルやモデルさんのモットーを特集しようと思うんですが、望月さんのモットーとかってあるんですか」
「私のモットーは、いつでもカメラが向いていると思って行動する事です」
「おお、そうなんだ。さすが」
「道を歩いている時でも、ご飯を食べている時でも、撮影を意識しています」
つねづね芝居をしているわけか。そう言う、望月さんは、テーブルの上に指を組み合わせた両手をのせて、多少背をそっている。
「じゃあ、今日は、私が唐木さんにインタビューするね」
「ああ、いいですよ。いつでも」
「じゃあ、唐木さんは、なにが好きなの」
「はい。シチューとか、スープの類が好きです。ああでも、ビーフシチューはあまり好きじゃないです」
「お寿司とかは」
「中落ちと、縁側が好きです」
「唐木さんて、お酒は飲むんですか」
「飲みますよ」
「いちばん好きなのは」
「シードルですね」
「唐木さんて、飲むとどうなるんですか」
「酔っぱらいます」
「酔うと」
「ええと、覚えていません」
「じゃあ、唐木さんが、今、なんでも願いが叶うとしたら、なにをお願いする?」
「ええと、なんでしょうかね。別に思い浮かびません」
「それは良くない」
 その声が鋭く感じたので、「すいません」と言って、観葉植物に視線を向けて逃げる。
「ねえ、唐木さん、写真撮ってよ」
「ええと、私は構いませんが、仕事以外で撮るのは、どうなんですかね」
「撮っていいって言ってるの」
モデルさんの中に潜む少女的なものに逆らうと、ヤッカイだ。
「でも、私、ポラロイドしか使えませんよ」
「いいよ」
「じゃあ、そこの壁でいいですか」
白い壁を背にして、手は腰とお腹に当ててもらう。きれいだが、いいのかな。すっぴんだけど。
望月さんの場合は、すっぴんの方が力強い美しさが出てくる。メイクは、むしろその強さを隠すためにあるような気がしてくる。目標としているものが他の人とは違うのかもしれない。
「唐木さん、意気地はないけど、意地っ張りだよね」
「それは、どういう」
望月さんの瞳の色が濃くなった気がした。
シャッターを押す。
ポラロイドから写真が出てくる。
ポラロイドなので、いつもの写真に比べればくすんでいるけれど、ほんのり微笑んでかわいらしさは伝わってくる。
「それ、あげる」
「くれるんですか」
「あげるって言ってるんだよ」
「ありがとうございます。大切にします」
おれは、写真を両手で掲げる。
「私、唐木さんと最初に撮影に行った時の事を覚えているよ。あれは冬の日、緊張して、寒かったし。そうしたら、唐木さんがホカロン持ってきてくれた」
「よく覚えていますね」
「唐木さんは、前に奥さんがいた気がする」
「なぜですか」
「女の勘」
世の中には、おれの知らない事がたくさんある。


十六

日が傾きだした頃、社内の打ち合わせから戻ると、塩田さんと谷崎くんが、おれの隣の作業台に並んで座って話している。
見れば、女性のバストアップの写真が並んでいて、服を着ているのと、ビキニの水着の写真が半々くらいである。
「これがなんだかわかるか」と塩田さんが谷崎くんに聞く。
「わかりません」
「少しは考えろ」
「わかります」
「わかるか」
「わかる感じ、わかります」
写真もさることながら、谷崎くんの言っている事もわからない。
「いいか、グラビアの編集たるものは、服の上から見ただけで、下着のサイズが合っているかどうかくらいは見抜けなくちゃならん」
「見抜ける感じ、わかります」
谷崎くんは、うなずいて、「で」と付け足した。
「で、だ。石原ちゃんだ」
塩田さんは、入口のテーブルでコーラを飲みながらハガキの仕分けをしている隣の編集部の石原さんを呼ぶ。
「石原ちゃん」
石原さんは、ペットボトルの口を唇にあてがったまま、二人に目を向けた。
「はい」と言って、こちらを向く。
「石原ちゃん、そこに立ってて。モデル」
「谷崎くん、石原ちゃんのサイズを当ててみな」
「ええと、G!」
「じゃあ、唐木くん」
「え、私も参加ですか。一般人に対してやるのは、どうも…」
「手本、手本」
急かすから、仕方なしに、石原さんの胸を見る。見るのは、現状というより、石原さんの日頃の動きをあわせて思い出すためであるが、今は、細い赤白ボーダーのTシャツをぴったりと着ているのでわかりやすい。
「ええと。今がEで、本当はFじゃないですか」
「今がEを着けているのは、正解です」
「ついでだけど、サイズ合ってないと思いますよ」
「うふ。実は、そうなんですよ。捨てるのもったいなくて」
「じゃあ、次、川崎さん」
塩田さんは、川崎さんを呼ぶ。
川崎さんは、グレーのゆるいTシャツを着ている。
「私は、石原ちゃんと違って、難しいと思いますよ」
「じゃあ、まず、谷崎くんから」
「ええと、Cか、Dくらいですかね」
「唐木くんは? 当ててみて」川崎さんがみずから聞いてくる。
「じゃあ、遠慮なく。Bだと思います」
「俺もBだな」と塩田さん。
「二人当たり」
「川崎さんは、けっこう難しかった。半分勘です」
「なんで、わかるんですか」谷崎くんが目を丸くしている。
「一見、Dに見えるんですが、本当のDと、形が違いますね。本当のDは、もう少し、なんというか、位置というか、広がりというか、着けていても、自然な重力の影響を受けています。あとは、揺れ方ですね。あと、Dの人と、Bの人じゃ、体の動きが違うんですよ」
「一言で言えば、気配だ。DにはDの気配がある」と塩田さんが簡潔に言う。
「わかりづらいのってあるの」
「服装によってありますよ。和服とかは、前後三段階くらいの幅をもたないと、わからないし。まあ、それって、わからん、と言っているようなものだし。あと、ノーブラも、わかんないですよ」
「ノーブラは俺もわからん。とくにA以下でブラジャーを着けていないのは、お手上げだ」
「え? てことは、実際の胸じゃなくて、ブラの大きさから推測しているの」
「そうですよ。実際の胸って、それじゃあ、透視能力じゃないですか。それと、形や動きの不自然さから、かさ上げも推測します」
「それが気配だ」と塩田さん。
「難易度が高すぎて、想像がつきません」と谷崎くん。
「いずれ、君にもわかる時がくるさ。でも、あまりグラビアの世界のフィクションをリアルに持って行かない方が、身のためですよ」
「でも、かえって、普通の人の方が難しいかもよ。下着メーカーがどんどん開発してくるから、かさ上げ競争になっているし」
「あれですね。戦前の兵役検査って、甲種合格とか、乙種合格とかありましたけど、それが広がって、甲種合格が社会的ステータスになってしまったのに似ていますね」と谷崎くんが言う。
「威信をかけて争ってんのよ、みんな。メイクだってそうじゃん」
「俺は、メイクの上からすっぴんの顔も想像がつくぞ」
「前、言っていましたね。唐木くんもわかるの?」
「まあ、わかりますよ。だいたいは」
「年季が違うから。われわれは」
「まあ、塩田さんにはかないませんけど。私はブランクがありますから。でも、モデルさんって、まず、すっぴんで来るじゃないですか。メイクさんがいるから。そのビフォアーアフターの何百という実例を繰り返し見てきたら、脳に、それ専用の部位ができていると思います。最近は、皆、同じようなメイクをしますし」
対象の隠された、ヴェールに覆われた領域に入り込むのがエロティシズムである。降りた遮断機を上げんとするところに生の称揚がある。けれども、バストのサイズも、すっぴんの顔もわかるようになり、ふくらはぎを見れば誰だかわかるようになってしまえば、リビドーも手の出しようがない。

特殊な能力を使ったので腹が減った。スーパーへ行こう。急に定食屋に行きたくなった時の事をかんがみて、ホワイトボードの行動欄に、『食事』と書いておく。
外に出たら、暮れ残る薄明かりの空に、街燈が光を重ねていた。やっぱりパンが食いたくなったので、スーパーに入った。棚の白パンに手を伸ばしていると、
「あの、すいません、アイス売り場はどこで」と聞かれた。
カートを押してリュックを背負ったお婆さんが声をかけてきた。
振り向くと、「あ、お店の人じゃないんですか」と言って、お婆さんは、慌てた表情を見せた。
「そうですけど、アイス売り場は、レジの向こうですよ」おれは、手で指し示した。
「ああ、ありがとうございます」お婆さんはカートを押しつつ、棚の向こうへ消える。
おれは、白パンとレモンスカッシュを手にレジへ向かった。
すると、通路を出た先で、さっきのお婆さんがアイス売り場が見えるところまで来たので、
「あの辺がアイス売り場ですよ」と教えて、アイス売り場に手を伸ばして、振ってみせた。
「ああ、お買い物中に、ありがとうございました」お婆さんは、カートに手を添えながら丁寧にお辞儀をしてきた。
スーパーを出ながらふと、思った。
おれは、成長したのか?

買ったパンは、机で食うつもりだったのだが、エレベーターに乗ったら、誰も乗ってこなかったので、そのまま屋上階のボタンを押した。
押せば、エレベーターは、まっすぐ真上に向かって進み続ける。なんのよどみもない。低い音を立てながら、1から2、2から3、3から4、4から5へと、さっきまでいた場所を奥底へと押し流してゆく。
見下ろすためじゃない。地上的なものから離れるために乗る。
扉が真中から開いて、室内灯がオレンジに照らした廊下を進んで、短い階段を上がって、扉を押したら、けしきはすっかり夜になっていた。
先客がいるな、と思ってはみたものの、目が慣れぬ間の、照明のない屋上では、影が立っているようだ。しかし、おれはグラビアの編集である。そのシルエットが女性のものである事はすぐに見て取れた。石原さんだろう。
「あ、唐木さん、おつかれさまです」石原さんが振り向いた。
日が沈んだその後のまだ黒になりきらない空を背景にして、GパンにTシャツ姿で、手には、一眼レフを持っている。
「あれ、もしかして、密会?」軽い調子で言ってみる。
「違いますよー。夜景を撮っているんです」
「カメラ使えるんだ。うらやましい」
「使えるだけですよ」
「カメラマンさんが言っていたね。夜景を撮るには、日が沈んだ直後の、まだ、光が夜空に残っている時がいちばんきれいになるって」
「そうなんですか。じゃあ、いちばんいい時に、撮れたんですね。私」
「天性だね。天性」
屋上は、空調設備や貯水タンクがある殺風景な場であるが、ワンルームくらいの場があって、撮影で使われる事がある。しかし、腰高の塀しかないから、危ないと言えば危ない。
他は、誰が持ち込んだか知れないベンチがひとつあるだけである。
ベンチに腰かけて、白パンの袋を開ける。
アイム出版のビルは、文京区の高台にあるから、屋上から東京を見渡せば、皇居を超えて、六本木方面まで見渡せる。
東京の空に降りた帳(とばり)の下で、東京タワーや六本木ヒルズが夜に光る玉のようだ。
石原さんも腰かけて、「うまく取れたかなあ」と言いながら、モニターで確認している。
表情がようやく読み取れる宵の内で、石原さんの顔がモニターの光でうす青く照らされる。
目を細めて、カメラを愛(いつく)しんでいるような表情をしている。
「唐木さん、少しここにいますか?」
「ああ、少しならいるつもりですけど」
「ちょっと、下に行って飲み物を買ってこようと思うので、カメラ見ていてくれますか?」
「じゃあ、石原さん、ジュースあげる」
おれは、レモンスカッシュを二人の間に置いた。
「いいんですか。遠慮しませんよ。あっ、これ好きなやつだ」
石原さんは、カメラを向う側に置いた。
「唐木さん、少し、話につきあってくれますか」
「別に。暇ですから。人生丸ごと」
「うふふ。この前、初めてアイドルの人にインタビューをしたんですよ」
「おお、出世だ。うちは、みんなアルバイトの人から偉くなっていくからねえ」
「まだ、デビューして一年の人、新人さんですね。最初は、普通に進めてたんですけど、途中で、『私、もっと強くなりたいんですよ。自分中心にしか物事を考えていない人に負けたくないんですよ』って言われた時に、急に、言葉に詰まっちゃって、『そうですか、がんばってください』としか言えなくて」
「別にいいと思うけど。私は、エロティシズム表現しか考える事がないような人間だから。人間関係とか競争とか生活とか、そういった非エロス的な事は、担当外でございます」
「あはは、おもしろい」
「非エロス的な事は、全部運任せ。私の頭では、把握不可能の要素の集まりの意味で使うんだけど。それに関して言えば、宝くじに近いよ。たとえば、千人同時にアイドルとしてスタートさせる。そのうち九百九十九人は脱落するけど、必ず一人は生き残るルールのゲームをやっているようなもので、その選ばれた一人になると、今度は宝くじと違って、予測不可能な富と名声が手に入るという。そういう事だと思うよ。アイドルってのは」
「すごいですよねえ」
唇から吐息が漏れる。
石原さんは、壜の蓋をひねって顔を上げて口をつける。街の光がうっすらとゆらめくだけのこの宵では、唇の形までは判別は難しい。
「あ、あれ花火」
石原さんが腰を浮かせながら言った。
見ると、ビルの描くスカイラインのすぐ上で、光の華が咲いている。立て続けに、赤や黄色の華が見えた。耳をたてれば、綿で包んだような音がかすかに聞こえる気がした。
「でも、変に低いところで上がっていますね」
「もともと花火って、下から見ていると高く上がっているように見えるけど、実はそれほど高い位置ではじけているわけじゃないからね。高さとしては、東京タワーよりも少し高いくらい。あれは、防衛省の通信塔の向こう側だから、たぶん、神宮球場の花火だと思う。スワローズの七回裏の攻撃が始まると上げるんだけど、それにしては、早い気がするけど」
「へえ、そうなんですか。唐木さん、詳しいですね」
「私は、ここから見るけしきについては、社内一詳しいですよ」
「花火って、お願いしたりしてもいいんですかね」
「花火じゃ、はかない感じはしますが、それは流れ星も同じだから、そのうちポピュラーになるかもしれませんね」
「じゃあ、先駆けですね。ええと、一人前になれますように。ほら、唐木さんも、早く」
「じゃあ、すべて赦してくれますように」
おれは手を合わせて、そう願った。
「それじゃあ、願い事じゃなくて、懺悔じゃないですか」
「あはは。いやあ、このあいだ、七夕の企画で、『アイドルの願い事』ってのをやったんだけど」
「見ましたよ。おもしろかったです」
「ありがとう。それで、その時に、じゃあ、自分はどうなんだ? 願い事がひとつ叶うなら、なにを願うの? と思ったんだけど、なにも浮かばなかった」
「なにもないんですか」
「そう。そうしたら、アイドルの人に、それは良くない、って言われて、風呂場で反省したんですよ」
「私も、それは良くないと思います」
「湯船につかって、考えました。そうしたら、願い事をして、叶わないのが怖いのかもしれないな、と思って。もう少し考えて、むしろ願い事が叶ってしまうのが怖いんだろう、と。そして、叶った後に、それを受け取った手から幸せがこぼれ落ちてゆくのが怖いんじゃないかって、仮説を立てました」
「仮説にしても、なんか、悲しいですね」
白パンの残りを一度に食ったら、むせた。
こういうところで、年齢が出てくる。
「はい、残りは唐木さんの分です」
石原さんが、さっきあげたジュースを戻してきた。
「うあ、ありがとう」
石原さんは、東京タワーの方に目を向けてる。下の通りから、子供の笑い声が上がってくる。
「石原さんて、本当は、なにになりたいんですか」
「本当は、カメラマンになりたかったんですけど」
「どんなの撮ってるの?」
「なんでもです。友だちとか、猫とか、食器とか。最近は、空をよく撮っていますね」
「空はいいですよね。私も、よくここから空を見ています。海より山より、空だよ」
「そうなんですよ。海も山も行こうと思えば行けるじゃないですか。でも、空って、届かないじゃないですか」
そう言われて、おれは、夜に向かって右手を伸ばす。
「でも、私はカメラマンは無理ですよ。身長が足らない」
「まあ、カメラマンって、グラビアにしても、スポーツにしても、報道でも、あまり背が低い人はいないけど、石原さんには、石原さんしか見えない世界があると思うよ。ああ、別に夢に向かって、がんばれ、なんて言いませんが。でも私は、この世にすでにある職業で、なれないものなんてないと思っている」
「ふふ、ありがとうございます。元気になりますね」
「グラビアだって、女が撮る時と、男が撮る時じゃ、モデルさんの目が違いますからね。どうしても、モデルさんは、男の前で演技をするようにできていますから。でも、子供の時って、夢とか、異性の好みとかって集中するのに、結局、夢も好みもバラバラになるのが不思議ですよねえ。愛の持って行きどころが十人十色になってくる。センスだって、同じだと思う」
「でも私、グラビアのお仕事も好きなんですよ」
「そう。世界でいちばん必要性の薄い職業についていると思われる時があるけど」と笑いながら言う。
「そんな事はないですよ。モデルの人に、編集者やデザイナー、メイクさん、カメラマンさんですね。私は仲間だと思っています。そうしたみんなで、撮影場所へ行って、モデルさんを少しでもきれいに、かっこう良く写真に収めるには、どうしたらいいのか、もう一段の工夫はないか。差し入れを考えたり、小道具をどうしようかと考えたり、空模様を気にしたり、なにもかも、楽しいですよ。アイドルの人たちって、やっぱり、『みんなを笑顔にしたい』って想いでやっているじゃないですか。私だって、誰かの前に立つわけじゃないけど、私がかかわることで、少しでもその想いを広げたい」
「そうですか」
「唐木さんは、このお仕事は、あまり好きじゃないんですか」
「嫌だったら、とっくにやめていますよ」
夜烏が、電燈の届く夜空を渡るのが見える。
離婚してから、よくこの屋上に来て、夜空を眺めていた。
この屋上から眺める東京の夜景は、海原のただなかで見る夜光虫にもたとえられるし、夜もすがら明滅し続ける赤いランプの広がりは、星々のそれにもたとえられる。夜、ここにしばらくいると、地面から離れている感覚が、物事の意味や思慮などを無用のものに思わせてくる。彼女が去って、一人になってから、半年くらいは、毎日のようにここに来て、夜景を眺めていた。自分を忘れるためには、地上から離れるのが好い。
「さっき唐木さんは、アイドルの話で、運という言葉で片づけちゃいましたけど、運を少しでも左右できるのは、情熱だと思います。別名、愛ですよ」
「私に、愛の事はわかりませんよ」
「愛っていう言葉も、運とか幸せとかと同じで、簡単で便利で、それでいてあいまいで嘘くさい言葉ですけど、想いを伝えたい人がいて、伝えたい想いがある限り、言葉を使うしかないんですよ」
「お互いが違う意味内容で使っていたとしても?」
「そこから努力じゃないですか。気づいた時点からスタートです。愛ってそういうものです」
「しかし、どこまで行っても平行線になるのが愛というものだとしたら?」
「唐木さんは、論理的に考えすぎなんですよ」
「私が? 論理的ですか」
「そうですよ。大義名分が好きですよねえ、唐木さん。禁止を破るための口実が。自分で禁止を作っているくせに」
 思わず口を結んでしまう。
「あっ、すねた」
「すねてませんよ。照れているだけです。照れ屋なんですよ、私は」
「知っていますよ。じゃあ、そうですね。照れないで、今の願い事を言ってみてください」
「願い事ですか。そうは急に、思いつきませんが」
「いいんですよ。なにをしたいんですか、今、唐木さんは」
「じゃあ、髪を切りたいですね」
「唐木さん、今度の土曜日、空いていますか?」
「撮影は入っていないので空いていますけど」
「それは好都合です。私、このあいだ、メイクさんにコツを教えてもらったんですよ」
「ええと、石原さんが、私の願い事を叶えるつもりですか」
「別に、『いつも相談に乗ってくれているから、お礼ですよ』、と言ってもいいんですけどね。今、唐木さんの願い事を叶えたくなった。かっこうつけて変な理屈を言うんじゃなくて、自分の中に生まれた思いつきは大切にしないといけませんよね」
「あ」
「願い事って、言葉にしないと、天まで届かないんですよ。私は、届かせたいな」
「ふむ。石原さん、そろそろ下に戻らないと。なんか、泣きそうになってきました」
「唐木さんでも泣くんですか?」
「泣きますよ」
「落ち着いているから、泣かないのかと思いました」
「人間ですからね。泣くようにできているんです」
「ふふ。じゃあ、約束ですよ」
 そう言われて、おれは顔を向けずに、手だけで挨拶をした。
月は下町の空に上がって、赤い姿を見せる。エンジン音を響かせて、セスナ機が空の低いところを渡ってゆく。通りを行く車の音が聞こえる。自転車のベルが聞こえる。焼き鳥のにおいがする。夜を渡る風はぬるい。


十七

コンピューターで、増刊号の台割を作る。キーの位置を探して、変換して、変換候補を探して、エンターキーをたたいて、間違えたらデリートキーをたたいて。全然エロスがないな、コンピューターは。書くたびになにかが削れてゆくからエロいのに。
原稿用紙と2Bの鉛筆の方が、はるかにエロい。
ああ、面倒だ、と思って、机に突っ伏して、顔だけ入口に向けていると、赤いギンガムチェックのスカートが入ってきた。あのふくらはぎの曲線は。立たないと。
ベージュのトレンチコートを羽織って、望月あえかさんが、すらすらとおれの机まで歩いて来る。
柔らかそうな髪をゆったりとおろしている。セミロングの内巻きカールにしてから、かわいらしさの魅力が増した。
「こんにちは」
きらきらした声だ。
「こんにちは、望月さん」
 挨拶をして、おれは、『あえかスペシャルエディション―女子と好き―』と題したムック本を望月さんに渡す。表紙は、薔薇色のビキニの水着を着けた望月さんのバストアップで、同じ色のリップスティックを唇に当てて、真顔と笑顔の中間のような表情を見せている。あたかも、美しくなる自分にほんのり驚いているかのように。タイトルを含めて、デザインはフラットなものに統一した。
「ありがとう。あ、かっこいい」
「社内では、けっこう評判ですよ。デザイナーさんも気合いを入れてくれたので」
「よかった。卒業記念にしよう」
「卒業式は来週くらいですか」
「ううん、もう卒業しちゃった。三日に。私立は早いんだ」
「ああ、それはそれは。ご卒業おめでとうございます」
「ふふ、ありがとう。楽しかったなあ」
 望月さんは、にこやかな表情をつくって、胸の前で手を組んだ。
 そこに谷崎くんが、ハガキを抱えて編集部に入ってきた。
「おつかれさまです」
「あ、谷崎くん、ごめん、それやってからでいいから、クリーニング屋さんに行って、衣装を取って来て」
「じゃあ、今、行ってきます」
「お願い」と谷崎くんに告げる。
「唐木さんて、出世したくせに、席は末席のまんまなんだね」
「出世したんじゃなくて、仕事を増やされただけですよ。ああ、そうだ。座って、待っていてください」と言って、給湯室に入る。冷蔵庫には、葛餅をしまってあったのだ。
ベニヤのテーブルと言えども麗しく座って待っている望月さんの前に、葛餅とお茶の載ったお盆を置く。
「一緒に食べましょう」
「やったあ。葛餅だ。さっきね、下に来た時に、きな粉が食べたいなって、思ったんだ」
「それはよかった。よかった」
おれと望月さんは、楊枝を手に手に、葛餅をつつく。
「ああ、おいしい。世の中にはいい事がたくさんあるものだ。結構、結構」
「探せばいい事はたくさんありますよ」
紙コップに入ったお茶は、給茶機から直接注いだ物で、お茶っ葉をただ砕いてお湯でといただけのような代物だけれど、葛餅だって、名物とはありながら、今やどこの百貨店でも売っているような物だけれど、食べている食卓だって、白い丸テーブルはベニヤで、椅子だって、パイプ椅子でしかないけれど、今は、おれは仕事中で、望月さんは打ち合わせと称した時間ではあるけれど、これが様になっていれば、それで好い。

                                     了

参考文献

「エロティシズム(ジョルジュ・バタイユ著作集 7)」ジョルジュ・バタイユ 澁澤龍彦訳 二見書房 1973.4
「ガールズフォトの撮り方」青山裕企 誠文堂新光社 2012.5
「生き延びるためのラカン」斉藤環 ちくま文庫 2012.2
「帯をとくフクスケ : 複製・偽物図像解読術」荒俣宏 中央公論社 1990.1


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