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【小説】コミック編集部。【128枚】

『お仕事は、なにをなさっているんですか?』との質問から始まる会話の流れは、人それぞれに決まったパターンができているものだろう。
 教員や公務員や税理士などと答えれば、一言で説明できるうえに社会的な地位も示せるだろうし、サラリーマンや職人にしても、『自動車の営業です』と答えたり、『料理屋で板前をしています』と答えたりすれば済むのだろう。
 自分の場合は、『漫画の編集者をしています』との答から始まることになる。
 国勢調査ならばそこで済むのであるが、『どんな漫画なんですか』と問われるゆえに、『BLと言うんですけど』と答えるはめになる。
 ここで、すでにBLがなにかを知っている人は、賛嘆と珍奇の入り混じった表情をして、話が和やかに続くから楽なものである。
 いまだにBLを知らない人の場合はどうなるか。
『BL? なんですかそれ?』と首をかしげてくる。
漫画の編集と聞いて相手が想定しているのは、恋愛か、スポーツか、ギャグか、ホラーか、ミステリーか、もしくは少女漫画か、少年漫画か、青年コミックかということだろう。
 その想定外の答を聞いて、さらに踏み込んでくるわけだから、BLがなにかを説明せねばならなくなる。
『まあ、マイナーなジャンルなんで』とかわす場合も少なくないが、少しでも仲良くなりたい人の場合は、
『ボーイズラブの省略で、恋愛ものです』
『少女漫画みたいなものです』
『男が主体のラブコメみたいな感じです』などと答えるようにしている。
知り合いや、やさしい性格の人はそれ以上聞いてこないのだが、BLの話題から離れぬまま、『男なのになんでBLの編集をやっているの』と聞いてくる人もいる。
仕事で仕方なくやっている、というのでは正確ではない。宝くじでも当たればすぐにでもやめるだろうが、自分の実力では、他にいま以上の仕事をやれるとも思えない。
女性が百合の漫画の編集者をしていてもとくになにも思われなさそうだが、男がBLの編集をしていると変に思われるのはなぜだろうか。
美少女のイラストを女性が書いても平気なのに、男がBLを書いたら変に思われるのと同じ。
たまたまの連続でここにいて、嫌じゃないからここにいる。それだけのことなのに、人はなぜ理由や説明や物語を求めるのだろう。そんなもの、かっこうのつくように、事実を都合よく組みなおすに決まっているじゃないか。
 自分がBLの編集をしていることにさしたる理由などないのに、どうしても物語を求め、オチを期待してくる。
かつては、BLのことを『やおい』と呼んでいた。ヤマなしオチなし意味なしの略だそうだが、人生が『ヤマなしオチなし意味なし』だと人は納得しないし、本人でさえ疑問に思うから不思議だ。
 そんなことを事務所で考えつつ、みんなは、BLをどのように説明しているんだろう、と思った。
両隣にアンケートを取ろうと思って、左の志田奈津美を見ると、ヘッドホンをしてゲラの文字を追いながら、手は、チョコレート菓子を口に放り込んでいる。話しかける隙がない。
志田奈津美は、私大の文学部を卒業した後、自分と同時期にこの編集プロダクションに来て、四年目になる。仕事中は、ボブの髪を後ろで縛って、ゆったりしたカットソーやニットにジーンズといういでたちが多く、卵型の面立ちに、上だけ縁のない眼鏡をかけている。
食べ物が好きなのか、人知れずストレスがあるのか、たいていなにかをつまんでいる。昼から帰ってきて、アイスクリームを舐めていることも少なくない。彼女は絶えず物を食べている。
それでいて、事務所でスリッパ履きになると、身長は百六十七センチの自分より少し低いくらいでありながら、体重は五十キロしかないと言うから、太らない体質なのだろう。
奥二重の目は、かったるそうにしているかと思えば、てきぱきと仕事をこなす時には真剣な眼差しとなり、また飲みに行けば、和やかに笑うという具合に、感情がそのまま出てくる。自分も嘘が顔に出るタイプなので、志田奈津美が他人の腹を探るようなタイプでなかったのは幸いだった。机を並べている身には、とても仕事がしやすい。
それにしても、音楽を聞きながらよく小説の校正ができるものだと、感心していると、持田佳奈が、ぽんぽんと右の二の腕を叩いてきた。
「先輩先輩、見て見て」
 頭だけめぐらせて隣の席の持田佳奈を見ると、体ごと椅子をこっちに向けて、「靴下が半分になった」と言う。
 紺瑠璃の地に弁柄(べんがら)色で樹木のような模様を大きく染め抜いたワンピースを着た彼女は、裾から出た右足を前後に振って、爪先に萌黄色と黄色の縞の靴下を脱ぎかけのように引っかけているが、靴下が乾いたと見える。今朝の大雨で足元がずぶ濡れになったと言っていた。彼女は、体調が良くない時のために、足元にパネルヒーターを持ち込んでいて、それに洗濯物を乾かすハンガーを取り付けている。
自分が見たのを認めると、膝を上げて靴下を足首の上まで引き上げて、おかっぱの前髪に見え隠れした眉を開いて笑った。
持田佳奈は、自分や志田奈津美より四歳年下であるが、デザイン系の専門学校を卒業後、ライターさんにアシスタントとしてついて、それを一年ほどこなした後に、うちの編集プロダクションに入ってきた。
だいたいこの業界は、女も男もジーンズにTシャツやポロシャツなど、正す襟もないような服装をしている者が多いのであるが、持田佳奈の場合は、大きな柄のワンピースやフリルの付いたスカートにブラウスを合わせるなど、服が好きそうないでたちをしている。
持田佳奈が初めて来た時は、自分一人しか出勤していなかった。案内と言っても、雑居ビルの十階の一室に収まっている、編集長を含めて四人しかいない編集プロダクションであれば、棚の配置を教えるくらいで、あとは、ロッカーや冷蔵庫などは自由に使って構わないということを伝えたくらいであった。
その時、持田佳奈は、白いノースリーブのサマーセーターに、グレーの植物柄のミニスカートをはいて来たのであるが、棚を見るので屈んだ時に白いパンツを見せたり、説明の最中に昨日見た猫の話を始めたりと、自分の狭く浅い人格では対するのが難しそうだと思っていたのであるが、その後は、編集長の大谷さんがなにか言ったのか、膝丈の物を着てくるようになった。会話の方は、先ほどの『靴下が半分になった』など、突然の言葉が多いのではあるが、こちらの方は慣れれば気にならず、かえって、この狭い人間関係の仕事場では、場を和ませる役割を担っている。
「そういや持田さん、仕事を聞かれた時に、なんて言ってる?」
「BLの編集って言いますよ」
「それで、BLがなにかを知らない人がいるでしょ。しかもストレートに説明すると混乱しちゃいそうな人とか。そういう場合になんて説明しているの?」
「現代芸術って言っていますよ」
「まじか」
持田佳奈は、椅子に座りながら両足をパタパタと動かした。
「うん、乾いている。空はしっとりと晴れている。これでお昼に行ける」
目の前の窓から見える空は、低く閉ざしていた灰色の雲は散らけて、透明感のある雲を残しながら青く染まっている。十階から見るけしきは、疲れた目を休めるのに効果がある。
 反対側で、志田奈津美がヘッドホンを外して机に置く音がしたと思ったら、
「ああ終わった、ベリーハッピー」と言って、思いっきり伸びをした。
 濃い灰色のゆったりとしたカットソーの長袖が、肘のあたりまでずり落ちた。
「おつかれです」と声をかける。
 これで『月刊ルーシェ十月号』も校了だ。
 編集長の大谷さんは、来ても三時過ぎだろうから、空でも見ていようと、目の前の窓から空を見る。
「晴れましたね。じゃあ私、お昼に行ってきます。お昼、お昼」
持田佳奈は、お昼を繰り返して扉を開けて出て行った。
「ねえ、志田さん」
「ん?」
「さっき持田さんにも聞いたんだけど、志田さんさあ、仕事はなにしてるの? とか聞かれて、なんて答えている?」
「編集って言っているよ」
「なんの編集って聞かれない? BLって知らない人とかいるじゃん」
「そういう時は、古典の現代化をしておりますと、答えとく」
「ほんまかいな。古典の現代化ねえ。それを言ったら、出版業界はなんでも古典の現代化に暇がないと言えるけどねえ」
「BLってさあ、本来友情とか、男気とか、信頼とか呼ばれて、男性の中で片づけられていたものを、一気に愛欲の関係性にまで引き上げたものでしょ。古典的な情に現代の視覚表現と感覚をもって、新たな局面に展開したものじゃない」
 志田奈津美はそう言って、チョコレート菓子をまた一つ口に入れて、紙パックの紅茶に刺さったストローに口をつけた。
「つっこみできないや。さすが文学科卒だ」
「阿部くんは、なんて答えてんのよ」
「少女漫画みたいなものとか言っている」
「まあね、一ジャンルと言っていいかもね。でもさ、いま読んだ花梨(かりん)先生の小説だって、想いを募らせた挙句に、病気の看病しながら、相手が寝ているのを見計らって、そっと鼻の頭を舐めるとか、大正ロマンと言っても差し支えないからね。ずっと、鼻を舐めることしか頭になくて、それで満願成就の夜を迎えるんだし」
「大正ロマンか。稲垣足穂とかって、大正ロマンなのかな。でも、BLは大正ロマンの成れの果てかもしれないな。妄想的なフェティシズムって、明治の終わりごろからの気がするし」
「まあ、フェチはむかしからいるよ。それこそ千年前から」
「フェティシズムって、本能に反しているじゃん。自分の頭の中でめぐる言葉が少しずつずれて行って、心のどこかがこじれちゃうのかな。その点では、人間らしいよね」
「じゃあ、BLは大正ロマンの現代版で、人間らしい表現ってことで」
「それで行こう」


 三十五平米のワンルームは静まっている。持田佳奈はお昼に出ていて、志田奈津美は雑誌をめくっている。自分は、空を眺めているだけである。
事務所は、飯田橋にある雑居ビルの十階にある。飯田橋は皇居にも近く、会社が多いのであるが、なかでも出版関係が多い。神楽坂から市ヶ谷、また神保町にかけて、出版社に編集プロダクションが多く、製版所や印刷所も残っている。平日の昼間から私服で歩き、心持ち猫背で、普通の勤め人とは背負っているものの種類が異なっているような雰囲気を出しているのは、たいてい編集者である。
 加えて飯田橋は、近くに大学も多く、学生の姿もちらほら見受けられ、また一歩、通りに入ればマンションもあり、住んでいる人も少なくない。
うちの編集プロダクションが入っているマンションも事務所可のマンションであれば、住んでいる人もいるようである。うちの事務所もキッチンはもちろん、ユニットバスやベランダもある。
自分の机の上には、閉じた雑誌が置いてある。校了した以上、静かに本ができるのを待つだけだから、やることがない。雇われている身としては、一応、事務所には来るが、そもそも編集長の大谷さんが来ないので、自習時間と同じである。
志田奈津美が雑誌を閉じて、話しかけてきた。
「いまさらだけど、うちって、暇な時は徹底して暇だよねえ。他の編集とかって、残業どころか、終電や徹夜もあり得るっていうのに」
「大谷さんが優秀なのか、先生方が好きでやっているからネームもペン入れも言うまでもなく締め切り前に仕上げてくれるし。こっちが言わなくても、次号のネームを送って来てくれて、ほとんどそのままオーケーだから、つまずくところがない」
「あと、うちって半分、版下入稿じゃん。意外とそれがいいのかもね」
「逆に気を使ってもらえるかもしれないね」
「そういえば、このあいだ二時間残業したんだけど、ここに来て初めて残業した」
「いままでなかったっけ」
「うん、初」
「じゃあ、来月、残業手当もらえるよ」
「うちって、残業手当とか出るの? タイムカードないけど」
「前に一度、二時間分の手当が付いていた。大谷さんが忘れていたらそれまでだと思うけど。でも、そもそも残業手当は、週に四十時間以上働いた場合に出るものでしょ。うちら三十時間しか働いていないじゃん」
「そうだよね」
扉が開いて、持田佳奈がお昼から帰ってきた。
「ただいまちゃん」
 リボンの付いた茶色のパンプスを脱いでスリッパに履き替える。
「おかえりちゃん」
 志田奈津美が立ち上がって、伸びをした。
「んん。お昼どうしよう。佳奈はなにを食べたの」
「焼きそばとチョコレートパフェです」
「どんな組み合わせよ」
「別々のお店で食べたので、別々に食べました」
「お昼に梯子かいな。少し九段の方に降りて行ったところにお店できたでしょ。あれ喫茶店?」
「昨日、行ってきたんですよ。喫茶店でしたよ。シナモンロールを食べました。ヨーグルトが付いてきたから、お腹によかった。あと、姫ミカンジュースと、クリームチーズも付いてきて。太っ腹なところだ」
 持田佳奈は、顎をさすった。
「太っ腹なところ。いいねえ。じゃあ、行ってくるわ」
戻ってきた持田佳奈は、洗面所へ入った。
 自分は、今日のお昼はなににしよう。昨日は沖縄そばで、一昨日はカレーとナポリタン。
 なにか、お腹が空いているのか空いていないのか、わからない感じだ。
 いただき物のお菓子で一食分浮かそうか。
 持田佳奈が、ふうっと、ため息をついて、隣の席に座った。
二人で黙って、空を見ている。
「先輩は今日、なにを食べるんですか」
「いまのところ浮かんでこない。パン屋でも行ってこようかな。最近、あのパン屋、店先でドーナツ売っているでしょ。シンプルなのが五個くらい入ったやつ」
「私、買ったことがある」
「やっぱりあるんだ」
「おいしかったんですよ。それで、次の日も帰りに買おうとしたら、ドーナツ買う気が出なかったんです」
「どうした」
「出てきたおやじがどうもパン屋に見えなかった。最初、パンに似合わない客だと思ったら、値引きの札を張りに出てきたから店のおやじじゃないのかな。パン屋はパン屋に見える方が客足が伸びると思うんですよ」
「あの店は、だからパート募集で、『明るく若い方』って張り出しているんじゃないのかな」
「パンをこねる人は、気持ちのやさしい人に見えたんですけどねえ」
 自分も持田佳奈も、先ほどから窓の向こうの空を見ながら話している。雨上がりの空は、一度晴れそうになったけれど、また、ちぎれたような灰色の雲が連なりはじめた。
「あれは鱗雲かな」と呟いてみる。
「鱗雲は違いますよ。鱗雲はあんな色してない」
「雲の区別を色でつけるの?」
「鱗雲はもっと桃色とかオレンジ色していました。あんな色はしてませんよ」
「そうかね」
「あれはやっぱりせめぎ合っている色だ」
「雨上がりの空の色は、きれいだと思う。ここから見えるのは北の空だから、日の光が和らいでいるし。お昼は、空でも見てようかな。屋上で」
「高校の時、後姿を見て、友だちになりたいなあ、と思った人と、あとで友だちになって、『今日は空がきれいだなあ。雲もきれいだなあ。そう思わないかね』って聞いたら、『思う』って言ってた。『いつもそう思わないかね』って聞いたら、『思う』って言ってた」
「いい人がいるものだね。その人はいまなにしてるの?」
「わからない。でも、きっとどこかで楽しく暮らしているはずだ」
電話が鳴った。
この事務所には電話が三台ある。一台は、西向きの窓に向かっている編集長の大谷さんの席にある。
残りの二台は、志田奈津美、自分、持田佳奈の三人並んだ席の間に置いてある。
持田佳奈が出た。
「はい、インディードです。――おつかれさまです。――花梨先生の小説は、奈津先輩がチェックして、校了したみたいです。――とくにないです。――はい。――わかりました。大丈夫です。――おつかれさまです。失礼します」
「大谷さん?」
「そうです。今日は来ないそうです」
「やっぱり」
編集長の大谷さんは。この編集プロダクションインディードの社長を兼ねている。
髪はベリーショートで、夏でも冬でもジーパンにカットソーで、化粧をまったくしない。自分で編集後記に、常にノーブラであると書くような人である。毎日来るのが遅く、だいたい三時くらいに来る。
大学は出ているだろうが、正確な年齢は知らない。経歴や見た目から四十歳を超えたくらいだと思う。大谷さんは、出版社に十五年ほど勤務した後、当時担当していたBL雑誌の漫画家の一部を引き連れて独立し、編集プロダクションを設立した。
設立直後にアシスタントできる人間を募集し、志田奈津美と、自分―阿部誠也―を採用した。
編集プロダクションインディードは会社組織ではない。インディードはいわゆる屋号であって、前にも後にも株式会社だの有限会社だのという肩書は付かないのである。
 自分は、正社員どころか、非正規雇用でもなく、ただのフリーの編集者という身分になる。就業規則などは見たこともない。
「そろそろ、奈津先輩が戻ってきそうですね」持田佳奈が言った。
 机のデジタル時計は、二時十分前を示している。
「そう言えば、差し入れでビスケットみたいのなかったっけ」
「ありますよお。フルーツケーキもありますし、スープも。あ、いま急にお腹がすとんってなりました。なにか食べられそうです」
 持田佳奈が立ち上がった。
「サクランボをいただいたんですよ。先輩も一緒に食べましょう」
 自分の昼休憩は二時から三時である。その時によって、蕎麦屋に行ったり、喫茶店で休んだり、近くの大学の学食に入ったり、または、パンを買ってきて事務所のソファーや屋上で食べたりする。今日は、自分が決めるよりも前に、持田佳奈が決めてしまった。
 扉が開いて、志田奈津美が戻ってきた。手には、ビニール袋を提げている。おやつだろう。昼飯の第二段かも知れない。
キッチンにいる持田佳奈が、「奈津先輩、サクランボを食べましょう」と声をかける。
「ああ、もうひと頑張り食べたいな、と思ってたんだ」
そう言って、ソファーの前を通り過ぎると、自分の机に袋を置いて、ソファーに腰かけた。
 自分も志田奈津美の右側に並んで腰かけた。持田佳奈は、山と盛ったさくらんぼを木のボウルに入れて持って来る。下に敷いていたガラスの皿を並べて置いたのは、種などを出すためだろう。
 持田佳奈が向かいに腰かける。
「食べ物がたくさんあるのを目の前にすると、幸せを感じます」
「まったくそのとおり。では、いただきます」
志田奈津美が率先して手を合わせて食べはじめる。
 自分も同じようにして、サクランボに手を伸ばした。
志田奈津美にしても、自分にしても、人に対する挨拶がぞんざいなわりに、『いただきます』をきちんと言うのは、不思議ではある。
『いただきます』を育ちの良さからくるものや、大人としての礼儀や感謝から言う人は多いだろうが、志田奈津美の、そのメゾソプラノの『いただきます』は、眉を開いた表情とあいまって、これからおいしい物を食べるのだ、との歓びがにじみ出ている。見ていて楽しいものである。
かく言う自分は、育ちが良くないから、『いただきます』などちっとも言わないたちであったが、BLの編集を始めて、志田奈津美を見るにつけ、自分もためらわずに言うようになった。
持田佳奈がサクランボを眼の高さに持ち上げて、見つめている。
「サクランボの色って、赤でいいんですかね」
「赤って言うよりも、朱?」志田奈津美が答える。
「朱筆の朱だよね。伝統的な色の名前だと、紅(べに)緋(ひ)が近いかもしれない」自分が付け加える。
「紅緋」持田佳奈が言葉の持つ響きを確かめるように呟いた。
「本棚に色の本があるから、見ると面白いよ。自分が思っている色の感覚と、伝統的な色の名前がずれているから」
「なんで、色に名前をつけてあげたのかな」
持田佳奈の質問に、志田奈津美はサクランボを口に入れたばかりだから、自分が答える。
「サクランボの色を表すのに、『サクランボの色』って説明していたら、サクランボを知らない人に通じないからじゃないのかな」
 自分で言っておきながら、なにか違うことを言った気がした。
 実際は、形容詞が先で名詞化したもの―たとえば、『明るい』が『赤』になったように―や、紫のようにその色を代表する植物の名前が先にあって、それが色の名前になったものがあるのだろうが、持田佳奈が聞きたいのは、そんなつまらない説明ではないのだろう。
「そうじゃなくて、佳奈が聞きたかったのは、物でも生き物でもないのに、形容詞じゃなくて、なんで名前があるのかなってことでしょ」
「思いついた」
持田佳奈が人差し指を立てた。
「なに?」と聞いてみる。
「きっと、組み合わせられるからですよ。赤と青とか、緑と黄色とか」
「なるほど、組み合わせるには、名前がないとね」
「普通に考えたら、赤が攻めじゃないですか。でも実はクールな青が攻めで、明るい笑顔が特徴な赤が受けなんですよ。二人っきりになるとそうなるんですよ」
 持田佳奈が急にBL方面に走り出した。
 BLには、『攻めと受け』という思想がある。
事に及んで言い寄る時に、言い寄る側が『攻め』、言い寄られる側が『受け』と呼ばれる。
ボーイズラブをそのまま日本語に訳せば、少年の恋となるわけであるが、その内容は少年同士の恋である。実際は、相当、上の層まで巻き込んでいるが。
お話が異性同士であれば、『ボーイミーツガール』などという言葉が示すとおりに、男が女に出会うわけだが、BLの場合は、『ボーイミーツボーイ』なので、一体、どちらが主語のボーイでどちらが目的語に置かれたボーイなのか、同性同士が乱れ縺(もつ)れて解けぬさまにある場合、とかく不明瞭になりがちなので、設定として、『攻め』と『受け』という役割が必要になってくる。
「攻めと受けをやらせるには、名前がないと始まらないね」志田奈津美が言い添えた。
「先輩は、机と椅子では、どちらが攻めだと思いますか」
持田佳奈が正面から顔を向けて聞いてきた。色に続いて、物である。せめて人間を聞いてほしいところではある。
「椅子かな」
「やっぱり椅子が正解かあ。奈津先輩は?」
「授業中は、机がリードするんだけど、放課後になると、椅子がぐいぐい行きはじめるって感じかな」
「やっぱり背景が大事ですね」
「BLは、ファンタジーの面もあるからね」
 話しながら食べていたら、サクランボ十個程度でお腹がいっぱいになってきた。
「このあいだ、美術館に行った時に、浮世絵だったんだけど、まな板とか鍋とかが、大日如来の下に集まって、拝んでいる絵があったよ」自分は、思い出したことを言ってみた。
「あ、それ見たことある。釜に椀に箸にまな板。クールジャパン得意の擬人化だよね。アニミズムって、物に霊魂が宿っているとするものじゃん」
「霊魂が宿っていれば、意思がある、と言うところまで進むだろうね。動物とかが本能で動いているだけなのに、ありゃなにをしているんだと、人間と同じ心理で扱う。人間の決して抜けない癖だよね。他人がなにをしているのか、探ろうとする癖は。そのいきさつも含めて」
「人と同じように霊魂があるから擬人化できるわけだけど、動物でも物でも、それが社会的な存在だと思っちゃうんだよ。社会的な存在というのは、なにかしらの意思があり、その意思を他の存在に向けているということだし」
「それをBLの思考で扱えば、物にも攻めと受けがあるだろうと」
「踏むわけよ」
 気がつけば、自分と志田奈津美だけが話していて、持田佳奈はサクランボの残りを平らげてしまった。
ガラスの皿には、三人分のさくらんぼの枝や種が散らばっている。
「草みたいだ」持田佳奈が明るい声で言った。
「佳奈は、草に譬えるのが得意だね」
「私、よく草の中にいたんですよ。草を掻き分け進んでいた」
「そんなに背の高い草の中にいたの」
「膝の上まであったんです。掻き分けて進んで。私は草の中に坐ってた。草の上で寝てた。奈津先輩は松を見たことがあるでしょうね」
「うん」
「松に似ていませんか」と言って、サクランボの枝を指した。
「うん」
「尖っていますからね。私、よく抜いてた」
「抜いてどうしたの」
「針になるかと思ってたんです。尖っていますから。でもやっぱり草だから、針にならなかった」


「ただいま」
呟きながら靴を脱いで、一瞬よろめいた。
今日は校了したこともあって、志田奈津美と持田佳奈と三人で飯田橋のバーで酒を酌み交わしてから帰った。
いつものごとく、途中から自分と志田奈津美だけがしゃべり、持田佳奈がたまに突拍子もない話を挟み込み、それにつられて話題を変えながら自分は飲み続け、志田奈津美は食べ続けた。二時間たったころには、一人でワインのボトルを一本半は飲んだと思われる。
酔い覚ましに、志田奈津美と飯田橋から市ヶ谷まで歩いて帰った。
志田奈津美は、駅から京王線直通の電車で帰ったが、自分はさらに十五分ほど歩いた。
自分の住んでいるアパートは、千代田区番町にある。皇居のすぐ隣、千鳥ヶ淵や英国大使館などもある都心の住宅地である。半蔵門の駅に近い方は、マンションや雑居ビルが多いが、皇居に近づくにつれて、大きさのさまざまな一戸建てが残っている。
番町に住んでいる、などと言うと、どこのお坊ちゃんかと思われることがあるが、自分の住むアパートは、木造の二階建てであり、総戸数四個のむかしながらの作りである。ベランダはない。築年数は少なくとも五十年で、実際は不明と言われている男性専用アパートである。家賃は払えなくもない。給料の三分の一程度である。
自分はこの世でなにが苦手と言って、通勤が苦手なのである。電車自体は嫌いではなく、人がいなければ、むしろ乗りたいくらいであるが、見知らぬ他人がすぐ近くにいることにいまだに慣れない。
通勤の時は、半蔵門駅から一駅で九段下に行き、東西線に乗り換えて、再び一駅の飯田橋で降りているのであるが、原稿取りや打ち合わせで、仕方なく遠出をする際は、空いている各駅停車でのんびり行くこともある。
郊外に住んだら、家賃は二万円か三万円くらいは浮くのだろうが、通勤が苦痛にならないことは、それ以上の価値がある。
玄関から上って、すぐ脇にある流しの上の電気をつけた。
木の折りたたみ椅子をひろげて、息をつく。
床に置いてあるペットボトルをひねって、水を半分ほど飲んだらお腹が空いてきた。
思えば、朝に飯田橋でハンバーガーを食べてから、昼はサクランボ、夜はバーでポトフを食べただけである。
屈んで冷蔵庫を開ける。立方体の白い小さな冷蔵庫には、パックごと卵が入っている。この程度なら、コンビニでも十分な気もする。コンビニは、一面、冷蔵庫になっている。飲食物のマガジンラックともいえる。
冷蔵庫の中身でその人の生活が分かるというものだ。飲み物しか入っていない人は普通の暮らしじゃないし、まして、冷蔵庫を持っていない人は。
鍋に卵を入れて茹でながら、やかんでお湯を沸かす。
晩御飯は、たいてい外で済ませるが、家で食べる時もあって、その場合はゆで卵二個と紅茶の組み合わせで済ませる。
再び椅子に腰かけた。流しの上の蛍光灯のちらつきがいろいろな影をあちこちに作っている。
腕時計を見たら、九時前だった。
編集プロダクションインディードの就業時間は、十一時から六時である。十一時きっかり来ているのは、持田佳奈だけであり、自分は必ず毎日十一時半に着く。わざと遅刻しているわけではなく、毎日十一時に行くつもりで九時に起きていながら、どうしても着くのが十一時半になってしまう。
自分が着くと、たいてい持田佳奈が事務所の掃除を終えているので、自分がビルの一階までゴミを出しに行く。そうして、志田奈津美が来るのは十二時前である。
編集長の大谷さんが来るのは三時過ぎである。皆が帰っても、八時か九時くらいまで仕事をしているらしい。最近は、趣味が高じた旅行のムック本の編集も個人で始めたらしく、ルーシェの方は、表紙まわりと台割の外は、出版社との交渉や各漫画のチェックをするくらいになっている。
編集長の大谷さんは、指示は出すが、仕事をこなしていればなにも言ってこない。
たまに自分よりも早く来ることがあるから、自分が毎日遅刻しているのを知っているはずだが、それについてなにか言われたことはない。
インディードが会社組織ではないことを知ったのは、最初の確定申告の時であった。
年が明けて区役所から申告用紙が送られてきた。ああ、申告するんだな、と事務的に書いて提出して、片付いたと思っていたら、四月になってから税務署から電話が掛かってきた。税務署員は、申告をしていないから申告書を提出するように、と言った。自分が申告した旨を伝えると、区役所ではなく、税務署に申告せねばならない、と言ってきた。あらためて税務署に申告して、それで片付いたのかと思えば、またしばらくして今度は封書で無申告加算税、重加算税、延滞税、締めて七万八千円也との通知が来て、びっくりした。
重加算税は、『脱税の意思ありと認められた場合に課される』由であったが、区役所宛てに申告している時点で、それはないし、無申告にしても、申告しなかったつもりはないし、と思って、複雑な気分に沈んでいたところ、そういえば、他のサラリーマンはどうしているんだと、知り合いに聞いたら、いちいち給料だけなら確定申告なんてしないし、お前のところは会社なのかよと言われた。志田奈津美に聞いたら、うち会社じゃないよ。私も社員じゃないし、と言われて、初めて我が勤め先が会社組織ではない、ただの集まりであることを知ったのだった。
インディードの就業時間は十一時から六時であるということは、六時間労働である。それで月給も大卒並をいただいている。以前、大谷さんの指示で残業をしたら、二時間しかしていない残業に対して、残業手当が一万円付いていたことがあった。
社員ではないから、社会保険は一切加入していないが、交通費は出る。
うちから飯田橋までは、定期券代が六千円ちょっとなのだが、仕事を始めて一年くらいたってから給料明細を見たら、交通費が一万円になっていた。大谷さんが、計算が面倒になったのだろうと思われた。
ふと見ると、流しの吊り棚の下を、蛍光灯に照らされて湯気が流れてゆく。
換気扇をつけるのを忘れていた。立ち上がって、換気扇の紐を引っ張る。
口から湯気を吹き出すやかんを見ながら、流しの上に吊った棚のガラス戸を引いて、黄色い紙に包まれたティーバッグを、オレンジ色のマグカップに一つ入れた。
たぎるお湯の重みを感じながらコップに注ぐ。内側が白いコップだから、コップの縁が自身の内側に投げかける影の底で、透明と茶色が混じってゆくのが見える。
アルミの片手鍋の中では、沸き立つ湯の中を白い卵が転がっている。
火を止めてから、柄を持って、流しに湯を流した。
ボンと音がして、少し驚いた。自分が驚くことには、いつまでも慣れない。
鍋に水を入れて冷やしてから、まな板で茹でた卵を叩く。殻のまわりにぐるりとひびを入れた卵を、揉むようにひねって殻を外した。
藍色のつる草模様の入った長いお皿に卵を置いて、赤いキャップの瓶を傾けて塩をふった。
「いただきます」
手を合わせて台所で食べはじめる。流しの横のステンレス台がテーブル代わりである。
いつから、自分は、いただきます、と言うようになったのだろうか。
いつから、自分の作る晩御飯はゆで卵と紅茶になったのだろうか。
インディードに入る前は、こうではなかった。
インディードに属する四人のうちで、大卒は編集長の大谷さんと志田奈津美だけである。持田佳奈はデザイン系の専門学校を出ているが、自分は、専門すら出ていない。
高校は、都立の工業高校だった。
こどものころから、将来よりも、現在の自分の立場ばかり気にしていた自分は、親の言うまま理系に進んだ。母からは、建築家になるように言われて、自分も図書館でインテリア雑誌や建築雑誌を眺めては、有名大学の建築学科に進むものだと思い込んでいた。そうは言っても、建築家になりたいというよりも、普通に大学に入って、当たり前のようにサラリーマンになるものとしか考えていなかった。当時は建築家と言っても、具体的な仕事内容は知らなかったし、親戚のおじさんからもらった自在曲線定規と三角スケールは、飾り物にしかならなかった。実際、小学校の時に、将来なりたいものを描いてくるという課題では、サラリーマンと題して、民家の玄関先に立つ背広の男の絵を描いて提出したくらいだった。建築雑誌にしても、こどものころからアパート住まいだった自分にとって、邸宅自体を憧れの対象と見ていたにすぎなかったのかもしれない。
中学に入って、自分の偏差値がわかってくると、とても理系の大学には進めそうになかった。国語と社会だけは、偏差値六十を超えていたのに、肝心の英語、数学、理科に関しては、五十を切っていたからだ。
それでも、理系に進むべきとの想念は、自分の脳に現実のものとして標識のごとく確固たるものになっていたから、工業高校へ進んだ。
高校時代は、平均的な成績で過ごすかたわら、部活は、はじめ野球部に所属した。
自分の身長は百六十七センチで、背が高いわけでもないし、中学以前に野球の経験があったわけではなかったけれど、高校生活と部活は切り離せないものとの思い込みをしていたので、友だちに誘われた時に、二つ返事で入部した。
練習は週二回で、都心の校舎だったから、校庭もテニスコート二面くらいの広さしかなかった。練習と言えば、バッティング練習は、トスしてネットに向かって打つだけで、内野の守備練習はこなせたけれど、フライの練習は、三階建ての校舎の屋上からボールを落として捕るという有様だった。
そうした練習の成果では、何年かに一度、一回戦を突破するのが関の山であり、自分が入った時も一回戦を突破したのが三年前にさかのぼるとのことであった。
ただ、自分がまともに部活に参加していたのは五月までで、上下関係や、一部の同級の者とそりが合わずに、しだいに休みがちになった。
夏休みの合宿にも夏期講習があるからと、参加せずに済ませてしまい、それからは、なんとなく行きづらくなって、九月に二度ほど出てからは、部活に出なくなってしまった。
そうして、卒業するまでの残りの期間は、ただ学校に行って、ただ教室にいて、同級生と上面の会話をするというだけの生活を続けた。勉強するわけでもなければ、遊んだり、恋愛をしたり、また友情を育むような出来事があったわけでもなかった。放課後も漫画やテレビゲームに費やして過ごすだけの三年間だった。
卒業後は、一部の成績上位者が理系の大学に進んだほかは、皆、就職していった。プラントに勤める者、コピー機のルートエンジニアをやる者、プログラマーをやる者、さまざまだった。
自分は就職しなかった。なんとなく、将来を先延ばししたかった。
そこで、専門学校の夜間部に通って、建築を専攻した。夜間部は、書類選考以外の試験がなかったから、合格してしまった。
一年ほどたって、母親が死んだ。もともと父親は自分が小学校に入る前に亡くなっていたから母子家庭に近かった。
そういうこともあって、くいっぱぐれがない理系の仕事につくように母親は言いつけてきたのだろう。
母は、よくしゃべる人だった。夕飯の時に、その日にあったことを楽しげに、時に腹立たしげに話した。でも、その話しぶりは、どこか自分の正当性の主張をしているように見えた。悲しみと侮辱を押し殺しながら、必死に世間と争っているようなところがあった。
葬式を済ませ、母と二人で暮らしていた中野の木造アパートを引き払い、西武線の沿線に引っ越した後で、目的を失ったことを実感した。もう、母を喜ばせることも怒らせることもないと思ったら、気持ちが白々としてきた。やることがわからなくなった。自分の進路を自分の心を守る盾にする必要が失せたから、専門学校もやめてしまった。
授業料の支払いの問題もあったのだけれど、それまでの進路選択は、母親に心配をかけないためだけのものでしかなかった。
勉強の方も、三角関数が一向にわからぬまま、そのまま就職しようとしたところで、筆記試験で落ちるか、入ってから恥をかくだけだったろう。
専門学校をやめてからは、本の問屋でアルバイトを始めた。そこでの仕事は、通勤も嫌だったし、仕事もまったく面白くなかった。
本の問屋で印象に残っているのは、お昼ご飯に、スーパーで売っているようなバターロールの八個入りを持って行って食べようとしていたら、上司の男から、『そんなに食うのかよ。昼にそれは食い過ぎだろ』と言われたことだった。
二十一歳の年に、楽しい仕事がしたいと思って、漫画の編集をやりたいと思った。
そうは言っても、専門中退で、ろくに経験もない者が出版社に就職できるはずもない。アルバイトでもいいやと思って、情報誌を買って応募してみたけれど、受からない。
自分のように、親の顔色をうかがって生きてきたような人間は、最後まで、自分を殺して生きる以外に手段がないのかなと思っていた。
ある時、毎号買っていたゲーム雑誌の編集後記を見ると、アルバイトを募集していた。さっそく応募してみて、そこは受からなかったけど、本屋に行って、いろいろな漫画やゲームやアニメの雑誌をめくって編集後記のページを見たら、意外と多くの雑誌が編集アシスタントを募集していた。
片っ端から応募したら、インディードから連絡があった。面接に行ったら、大谷さんがいて、『さっそく来週から来てください』と言われた。
面接では、経歴も家族構成も、志望理由も聞かれなかった。
『へえ、理系なんだ。かっこいいね』と言われたり、BL雑誌を見せられて、『こういう漫画なんだけど、大丈夫?』と聞かれたくらいだった。
志田奈津美は、自分の一か月前から働いていた。大学を卒業して、院に進もうとして受からず、浪人しようとしていたところを知り合いのつてで、大谷さんに呼ばれたとのことだった。
それから志田奈津美と机を並べる日々が始まった。
まともに女子と話すのは、小学校以来だった。
高校は、工業高校だったから推して知るべしだが、中学でさえ、公立であり共学だったにもかかわらず、なぜか自分の学年だけは、男子と女子の比率が六対四、一・五倍の差があった。自分が生まれた年の中野の一部地域だけ、水道になにか混ざっていたのではないかといぶからざるを得ないくらい、隔たった男女の比率であり、あまり女子とかかわった記憶がない。教室での席にしても、どういうめぐりあわせか、何度席替えしようが、三年のあいだ、前後はもちろんのこと、隣に女子が来るような配置は一度もなかった。
 それが突然、妙齢の女子と机を並べることになったわけで、どうしたものかと思っていたが、仕事の話ならばせざるを得ない。また、仕事の話なら話しかけても構わないはずだと自分に言い聞かせて話すうちに、いつ知れず、他愛のないことも話すようになり、加えて、志田奈津美が絶えずなにかを食べているけしきが、アットホームな雰囲気を自分に与えてくれて、しだいに事務所にいるのが楽しくなっていった。
後から来た持田佳奈にしても大谷さんにしても、からかったり、人に突っ込みを入れたりしてくるようなことをしない。
ああ、なんだ、世の中には、こんなに楽な場所があるのか、と思った。
インディードで仕事をしていると、粋がって、芸人の口調をまねをして、他人に突っ込みを入れるのが煩わしいものに思えてくる。
取引をしているわけじゃないけれど、自分も志田奈津美や持田佳奈に対して、また食べてんのとか、また派手なの着てきたねえとか、たとえリラックスさせるための冗談であっても、からかうようなことはしない。
 こういう世界は、自分ばかりではなく、実は大半の人が望んでいるのではないかと思う。
 このごろは、いまが自分の人生でいちばん幸せな時期なのかもしれないな、と思いさえする。自分は、遅刻はするし、仕事も丁寧じゃないから、みんなに対してなにをするというのでもないけれど、ずっと続いてくれないかな、とさえ思っている。
腕時計の針は、九時半を指していた。
 風呂に入って、積んである本でも読んで寝よう。来週早々、青木とばり先生と『打ち合わせ』だ。


曇りガラスの扉の向こうから雑多な音楽が漏れてくるなか、先ほどから萌黄色のソファーに腰かけて、テーブルを挟んで漫画家の青木とばり先生と向かい合っているのは、先々週、締め切りの一週間前にペン入れ具合を電話でうかがったところ、まったく進んでいないとのお返事で、どうしたことかと尋ねたら、恋人との惜別の情に、精神が持っていかれてしまっている、とおっしゃるゆえ、それは容易ならぬ出来事とは察しますが、いきさつなどは校了した後にいくらでもうかがいますから、とにかく精神を引きずってでもペンを入れてください、と頼みこんで原稿を仕上げさせはしたものの、残ってしまった話を聞く方の仕事を片づけるべく、平日の昼間から新宿のカラオケボックスで歌も歌わずに先生の愚痴を聞くという、『打ち合わせ』をしているためである。
「なんで、他の女と遊ぶのよ」
「それは、そいつが倫理的にだらしないだけです」
「男って、なんで若いのが好きなのかね」
「ううん、威張りたいだけかもしれませんよ。同い年だと、女性の方が大人ですからね。単純な本能ではない気がしますよ。まあ、年上好きもいますし、見た目は自分より若くて、実際は年上が好みっていう、複雑なのもいますから」
「なにそれ。わけがわからない」
「そういうのも、ある種の理想形なんですよ。わけはわからないけど、理想。そこに少女漫画もBLもポイントがあるんですよ。あの閉じた世界のファンタジーが」
 青木とばり先生は、少し膨れたような顔をして、今日二杯目のミルクセーキに差したストローに口をつけた。残っていた半分ほどを一度に飲み干して、グラスを置く。
 入ってから一時間ほどは、カラオケボックスでの段落のない一人語りを聞かされていたのだが、歯車の回転も、ようやく息を合わせられるスピードに落ち着いてきた。
自分の担当する漫画家先生は全員女性である。あまりご自宅に行くのは、はばかられるので、打ち合わせは事務所か、先生方のご自宅近くのファミレスや喫茶店で行うことが多い。
 今日、カラオケボックスで『打ち合わせ』をしたのは、青木先生の場合、公共の場で話すのをはばかられるようなことを言いだしかねないので、まわりを気にしない場を求めてのことである。また、カラオケボックスは、場所に対して時間料金が発生するので、いちいち注文を気にする面倒のないところも利点である。
 青木先生の正確な年齢は知らないが、デビューして数年であれば、同い年か、少し上くらいであろう。
 漫画家というと、不摂生で服装などもいい加減なイメージがあるが、それはむかしの話で、最近の漫画家先生は、編集者よりもずっとおしゃれな人が多い。
 青木先生も、今日は、飴色の地に細かな薔薇の模様が広がるフリル付のワンピースを着て、上にレースのボレロをあわせて、ガーベラの花飾りの付いたサンダルを履いている。
 度々、エステに行く話をしているから、肌艶はよく、メイクのノリもよいようである。
 目には、若干赤みがかった茶色のアイシャドウを入れて、先生の釣り目を和らげ、薄い唇には、ピンクの口紅をオーバーリップ気味に引いている。
 曇りガラスの扉を影が横切る。外から各部屋から漏れる曲が混ざり合いつつ、くぐもったポップスのメロディーが聞こえてくる。
 テレビモニターは、ずっとミュージックビデオのような映像を流していて、いまは、二十代後半とおぼしき女性が、コスプレのようなセーラー服を着て浜辺を歩いているけしきが映っている。
自分は、カラオケをしたことがない。普段、家では、ビートルズかボブデュラン、もしくはBBCのクラッシックチャンネルを流しているので、歌詞のわかる曲がないのである。いくら自分でも”ライクアローリングストーン”や”ワンモアカップオブコーヒー”くらいは聞き取れるが、文章レベルとなると皆目見当がつかず、何回聞いたか知れないくらい聞いていてるのに、いつまでたっても、なにを言っているのかわからぬまま聞き流しているだけである。中学や高校のころにしても、毎日、J‐waveなどを聴いていたのであるが、英語の偏差値は四十程度であったから、歌詞など覚えることもなく、音楽として聞いていただけである。
なぜ日本語の曲を聴かないのかはよくわからない。新しくフレーズを覚えたくないだけかも知れないし、とある言葉から連想される負の感情に触れたくないのかもしれない。
そのようなことを考えつつ、青木先生を見ると、結い上げた栗色の髪に両手を持ってゆき、整えるようなしぐさをしている。
「あーあ、阿部くん、結婚してよ」
 いきなり、なにを言うのだろうか。この先生は。
「嫌ですよ。他をあたってください」
「少しは、考える振りしてよお」
「すいません。やさしさが足りませんでした」
「いいよ。まあ、阿部くん、面食いっぽいもんね」
「そうですよ。超面食いですから」
こういうセリフ―普段考えてもいないこと―をその場のノリで言うのは、なんだかとても違和感を覚えてしまう。胸がざわつく。つけずに済んだ傷を自分からつけた気分になるが、これも編集者としてのやさしさだと思っている。
「やっぱりね。あーあ、どこかにいい男はいないかなあ。紹介してよ。二、三人」
「私の数少ない男の友だちは、皆、結婚しています。自力で見つけてください」
「自力って、面倒くさいんだよね。別れると、また探すのが面倒なんだよなあ。告白する前に結果が測定できるアプリとか欲しいよね」
「それはあれですよ。YESと見て告白すると、結果はNOで、NOと知りながら接しているとYESになるものですよ」
「なに、その量子論みたいな告白結果は」
「浮世のめぐりあわせは、量子論みたいなものですよ。まあ、自力で運命の人にたどり着いて、なにもかも引き受け、なにもかも任せたらいいじゃないですか」
「一歩目がわからない」
「じゃあ、イベントにでも行ってみたらどうでしょうか。運命的な出会いが待っているかもしれません」
「イベントの時って忙しいんだよねえ」
「先生のイベントって、コミケでしょう。コミケもいいんですけど、たまには、違う世界をのぞいて、たとえば音楽教室とか、あと料理教室とか行ったらどうですか。料理教室なんて、礼儀正しくて、少し臆病な男子がいるかもしれませんよ」
「うわ、なにそれ。そういうの好み」
「先生、よだれが」
こういう調子で、すでに二時間、先生も自分もマイクを握らず、先生の愚痴を新宿のカラオケボックスで聞き、時は過ぎていった。
「少しダイエットしようかな」
「先生はごくふつうの体型だと思いますが、最近の娘さんは痩せていますからねえ」
「最近の娘さんって、阿部君いくつなのよ」
「二十五ですよ。今年で六」
「そうなんだ。じゃあ、志田ちゃんと同い年だ」
「そうですね」
「学ラン着れば高校生でいけるかも」
「そう言えば、母親の葬式の時は、二十歳の年でしたけど、喪服を持っていなかったので、学ラン着て済ませましたよ」
「全然、いけるでしょ」
 青木先生は、冷めたポテトフライを口に入れた。
 しかし、この『打ち合わせ』は、どうやって切り上げようか。橙色の壁にかかった白い時計は、四時近くを指している。
「阿部くんって、出身どこ?」
「中野です」
「いまは?」
「いまは番町です」
「番町に住んでるの」
「そうですよ」
「もしかして、お坊ちゃんなんですか」
「全然違いますよ。賃貸の木造アパートです」
「お坊ちゃんがBLの編集をやってたら、BLっぽいのに」
「虚構と現実が混濁していますよ」
「それって、歩いて帰れるんじゃないの?」
「たまに、歩いて帰っていますよ」
「あれ、なんの話していたんだっけ」先生が首をかしげた。
「ダイエットするとかしないとか」
「ああ、そうか、ダイエットの話だ」
「ダイエットはしたことあるんですか」
「一度だけ」
「いつごろですか」
「高校の時」
「期間はどのくらいやったんですか」
「一日」
「一日ですか」
「リンゴ食べた。朝と昼。帰ってからコロッケを夢中で食べてしまった」
「聞いているだけで、おいしそうに食べたのがありありと目の前に浮かぶようです」
「阿部くんは痩せているよね」
「そうですね、最近運動もしないから、筋肉もつかなくて」
「運動しなくて痩せてるんだ」
「代謝がいいのかもしれません」
「阿部くんの肌、きれいだよね」
先生は、顔をしけじけと見つめてくる。
「そうですかね」
「ちょっと触ってもいい?」
「どのへんを」
「鎖骨のあたり」
「まあ、いいですよ」
とばり先生は、体を伸ばしてテーブルに片手をつくと、シャツの胸元から手を入れて鎖骨の下あたりをさする。
「うわ、やっぱりすべすべだ。阿部くん、なにを食べていたらそうなるの」
「いや、別に普通の物ですよ。ゆで卵とか、牛丼とか」
「なんか、普通だね。おからとか、海藻とか食べているのかと思ってた。ロマンが足らないよ」
「すいません。私の場合、代謝がいい気がしますよ。あとは、規則正しい生活をして、九時間寝る」
「九時間も寝てるの」
「うちは、六時で上がれますから」
「夜はなにしているの」
「お風呂入って、蒲団に入ります。それで、音楽つけながら、眠るまで本を読んで過ごしますね。だいたい十二時くらいに眠っているみたいです」
「でも、阿部くんがそのくらい寝て、そういう生活しているって言われると、うんうんって、納得しちゃう」
 残っていたアイスティーを飲み干した。ほとんど水と変わらない。
「阿部くんさあ、付き合っている人いる?」
「個人情報に関することは、ノーコメントでお願いします」
「そうなんだ、ふうん」
とばり先生は、屈むと、膝の上に肘をついて、両手で顎を支えながら見つめてきた。
「じゃあさ、今日の仕上げ。阿部くん、スケッチさせてよ」
「私ですか。モデルにならないと思いますけど」
「いいって。いけるいける」
 そう言って、黒い鞄からスケッチブックを取り出した。
「なんか、阿部くんて、カミュに似ているね」
「カミュ? 異邦人のですか」
「そうだよ」
「私に似ているんですか」
「なんとなく雰囲気がね。危ういバランスの上に成り立っている端正な顔って感じ。どことなく浮世離れしているのは、精神よりも、肉体って感じの顔をしている。あと二十年もしたら、似てくるよ。いまはまだ若すぎるからね」
とばり先生にしても、たまにむちゃくちゃなことを言うし、締め切り前に電話に出なくなることもあるけれど、やっぱり、プロの漫画家はすごいなあ、と思う。一か月で絵が上手になったり、毎月毎月物語をこしらえたりするのも、根本にはこういう観察眼があってのことだろうし、そうして観察したものを自分なりの手法で操れる能力があるからに違いない。
自分が自らの姿を見たって、髪が跳ねていないか、目に隈はないか、髭はそり残していないか、そんなことばかり見て、他人に対しても、同じような視点でしか見ていないかもしれない。
先生の鉛筆を走らせる音が聞こえる。
スケッチブックの上と、モデルの自分を交互に見ては、口元に笑みを浮かべたり、真顔で全体を見ながらうなずいたり、鉛筆を使って比率を見るようなしぐさをしている。
その姿は、あくまで自然で、よどみがない。美しい姿とは、ポーズのことではなく、行動のことであり、人がもっとも様になっている姿を言うのだろう。
自分は、別段、ポーズをとれとは言われていないけれど、なんとなく、写真に収まる時のような気分で手を膝にのせてじっとしていた。
なにもせずに、静かにしているのは、好きだ。
ただ空を眺めているのも、静かに座っているのも、アパートの部屋の窓際にもたれて日向ぼっこをしたり、事務所のあるビルの屋上から新宿の夜景を眺めていたり、飯田橋の小さな公園に腰かけて、ビルに区切られた空を眺めているのが愉快だ。
小さな事務所の木の机に坐って、普通で平凡に仕事をこなしていくのが好きだ。
いまの生活がずっと続くわけはない。ルーシェの発行部数も、伸び悩んでいるし、大谷さんが気まぐれを起こせばインディードもそれまでだろう。
でも、自分が自分らしく、普通で平凡にしていられるのは、後にも先にもここしかないだろう。
「うん、だいたいできた」
とばり先生がスケッチブックを渡してきた。
「どうでしょうか、今回のキャラは」
「使う気ですか」
「当たり前じゃん。私もプロだし、阿部くんもプロの編集でしょ」
スケッチブックには、なで肩で華奢な姿の、少年のような顔をした自分が描かれていた。
おっとりとした瞳に形の良い眉には、天然パーマの前髪がかかり、唇は薄く口元は深く、鼻筋の通った顔立ちは、顎へかけて細くなっている。そこに、背景は、ざっと、黒く線で塗りつぶされて、なぜか半月が浮かんでいた。
さすが、BLの漫画家だけあって、誰でも美少年化してしまう。BLはファンタジーなのだ。
「背景は夜ですか」
「なんかね、阿部くんは、夜のさなかにいるのが似合っているんだ」
そうして、先生は、やさしく微笑んだ。どこかで見たような表情の気がしたが、思い出せるわけもなかった。


「そうですか、ネームが上がらないのは、つらいですね」
――すいません、なんか進まなくて。
「では、ちょっと大谷さんと相談します。先生は、引き続き考えていてください」
――はい、すいません。よろしくお願いします。
「では、失礼します」
白い受話器を志田奈津美の席との境に戻す。
自分の担当している漫画家は五人いて、一人は青木とばり先生である。とばり先生は、現実の恋愛関係につまずかなければ、なんだかんだで締め切りを破った例(ためし)はない。とばり先生の原稿はすでに自分の机の上にあって、いまから、吹き出し部分に写植を貼り付けようとしていたところである。
残りのうち、三人は、来週の頭には原稿が完成するとおっしゃっている。
最後の一人が、いま電話で話していた先生で、ペンネームを牛乳ジュリエッタと言う。
最近は、本名で書く漫画家さんもいるが、BL作家の場合、本名で書く人はまずいない。ペンネームも自分の表現の一つ、という思いが強い。
青木とばり先生のように少しロマンチックなペンネームや、如月融などと言って、性別がわからないものであることが多いが、なかには、牛乳ジュリエッタなどと、ちょっと無理をしなければ、人間の名前と認識できないペンネームを名乗る人もいるし、夏みかん168などと、目の前で名乗られても、なんの伝票かと思うだけで、ペンネームとは気づきづらい人もいる。
牛乳先生は、本名は並木彩と言うのだが、この業界はペンネームで呼ぶのが常であるから、呼ぶ時も牛乳さんと言っている。
牛乳先生は、二十代後半の、どこかで事務でもとっていそうな物静かな雰囲気をかもし出している女性である。ペン入れ自体は、早い方であるが、慢性的にネームが遅いという欠点がある。ストーリーを練るのに時間がかかるせいかもしれない。
その牛乳先生が、ストーリーが思いつかずに、ネームができないと言ってきたのは、今週の月曜日で、それから四日、週末まで待っていたのだが、返事は同じであった。
左肩をひいて大谷さんに向くと、電話が気になったらしく、すでに大谷さんも椅子を回転させて、こちらを向いていた。
「牛乳先生、難しそう?」
「ネームが一向に進まないらしいんですよ。体調とか、精神状態じゃないらしいので、ネームができればペン入れは進められそうなんですが、ストーリーが思いつかないらしいですね」
「要するに、なにもできていないってことだよね」
「そうですね」
「ううん、どうしようかな。落とすか。でも、今月号は再録物は載せたくないしなあ」
大谷さんは、煙草を空気清浄器付の灰皿に載せて腕を組んだ。机にはブラックの缶コーヒーが、足元には、ウイスキーの瓶が置いてある。毒物ばかりだ。
志田奈津美と持田佳奈は原稿を取りに行っている。事務所は蓋をしたようにしんとした。
秋の日は落ちかかり、ベランダにかろうじて夕映えの名残がどろんとしている。
床に視線を落としていた大谷さんの目が上がった。結論が出たらしい。
「しょうがない。じゃあ、阿部くん、書いてよ」
 これはいけない。自分は国語の偏差値は比較的高かったが、それは偏差値四十の英語や数学に比べての話で、そもそも、テストと創作はまったく別の能力であろう。
 しかし、大谷さんも現実逃避のために人をからかうようなことは言わない。本気で言っているのだろう。
 顔つきも声も、いつもとなにも変わらない。
「書けるでしょ。十六ページ。漫画家さんのフォローは、担当編集の務め。大丈夫、阿部くんならできるよ」
「はい」と言ってしまう。
 それで、いつまでに、と聞こうとして、言葉を呑み込んだ。大谷さんに聞いても仕方がない。担当者は自分であるから、自分が間に合うように仕上げれば済む話である。そもそもこうなったのは、自分が漫画家さんをコントロールできなかったところにある。
 ペン入れを来週末までとすれば、月曜日の朝には牛乳先生に渡さなくてはならない。要するに、明日明後日の土日で自分が書き上げれば、何事もなかったように、ルーシェ十一月号は店頭に並ぶだろう。
「じゃあ、土日に書いて月曜の朝に牛乳さんに送ります。それで、金曜までにペン入れをしてもらって、可能なら金曜の夜までに製版に回して、無理なら月曜の朝。校了日は月曜ですから間に合います」
「オーケー。原稿料払うからお願いね。自分の家で集中できなかったら、事務所に来て書いていてもいいよ」
「わかりました」と答えて、机に向かう。
とりあえず、青木とばり先生の原稿にネームを貼って、製版に回さなくてはならない。
印刷所の営業の人が六時に来ると言っていた。
 漫画には登場人物のセリフを入れるための吹き出しがあるが、原稿のそれは空っぽである。セリフの部分はこちらがテキストを指定し、印刷所で活字を入れてもらうことになる。
うちはこのセリフを写植でひとつひとつ貼り付けるという、ひとむかし前のやり方で行っている。
このビルのオーナーが、製版屋さん兼写植屋さんだから義理があるのだろうと思われる。入居条件を優遇してもらっているのかもしれない。
自分は、漫画の原稿用紙にカッターと糊を使って、ペタペタ貼り付けたり、誤植部分を切り抜いて、別の写植から切り出したものをはめ込んだり、といった作業が好きである。
写植というのは、写真植字の略で、活字を写真と同じ印画紙に印画するものである。写っているものが、写真のように風景や人物でなく、文字というだけの違いである。
いま自分の机には、袋に入った青木とばり先生の原稿と写植がある。
うちでは、このセリフの写植もネームと呼んでいる。
ラフとも呼ばれる、下書きの方のネームができ上がると、そのコピーに文字の書体や大きさの指定を書きこんで、一階の製版屋さん兼写植屋さんが取りに来るので渡す。
すると、大きな白い印画紙の上に、一定の間隔を置いてモノローグやセリフが並んだものができ上がってくる。
これをカッターで切り抜いて、吹き出しに貼ってゆくのであるが、あらかじめ印画紙の裏にペーパーセメントを一面に塗ったうえで、硬質のカッターマットに貼り付けておく。
ペーパーセメントは、琥珀色の瓶に入っていて、蓋の真ん中を刷毛が貫いていて、開ければ、ペーパーセメントが刷毛に付いてくるから、そのまま塗れば良い仕組みになっている。
先ほど塗っておいたから、すでに糊は乾いているだろう。カッターと金定規を持って、まずは扉ページに貼る柱を切り抜く。『せめて、この夜が終わるまでは、おまえでいっぱいに』という写植を四角く切り抜く。
柱というのは、漫画の場合、枠の外の部分に入れるキャッチコピーや簡単なあらすじを指すのであるが、うちの場合は、そのほか、表紙に置くキャッチコピーも柱と呼んでいる。これは編集者が考える。
絵の上には直接、写植を貼り付けられないから、トレッシングペーパーを一面にかぶせて、上の方を二カ所ほどメンディングテープで留める。
柱に続いて、作者名の『青木とばり』を切り抜く。タイトルはデザイナーさんに描いてもらっているから、トレッシングペーパーの上から貼る。
このへんのレイアウトは、それぞれの編集者のセンスに任されている。自分は絵の妨げにならなければいいと思っている。扉ページには、ノンブルと呼ばれるページナンバーは入れないので、これでおしまい。
続いて本編に入り、セリフを吹き出しに貼ってゆく。
今回のとばり先生のストーリーの主人公は高校生で、背が低いことをコンプレックスにしながら、背の高い友人に、『小っちゃくてかわいい』と言われたことで、恋慕の情にほだされてしまい、最後の部活の帰りに海辺の岩陰でうんたらかんたらが始まるというストーリーであるが、この主人公が、このあいだのカラオケボックスで、自分をモデルにして仕立てたキャラクターとなれば、果てしなく美少年化されているとはいえ、どことなく当人の面影が残っていて、自分が見ればわかるから、自分で自分のBLの編集をしているような複雑な気分になってくる。
『やさしさや心遣いが恋しくなった』とか、
『一度落ちてしまって
もう這い上がれ…』
などと、セリフを吐いている。
このキャラをとばり先生が気に入った場合、もしくは、読者アンケートで人気があった場合、また使われるのだろうか。
四ページ目に、風に吹かれた主人公の立ち姿のシーンで小さな楕円が浮いている。吹き出しなのか、効果なのかわからない。ネームを見ると、指定していないので、効果ということにしておこう。
『ルーシェ』に載っている漫画や小説はすべて読み切りである。
連載の場合でも、キャラや世界観が同じなだけの、一話完結の読み切り連載にしておく。その方が、読者には買い求めやすいからである。
とりあえず、ネームは貼り付けた。まっすぐに貼れていると思う。
自分が入ってきたころは、慣れていないことと、生来のいい加減さが出て、自分では気づかぬまま、曲がって貼ってしまうことがあった。
それを大谷さんや志田奈津美がなにも言わずになおしていた姿を見かけて、これはいけない、と思って、その後は心をこめて貼るようになった。
こうしたアナログ作業をしていると、知らずネームが袖にくっついて、そのまま電車に乗ってしまうことがある。
たいていは『ああ』とか『うっ』だのと、短いものであるが、このあいだは、『銀色のしずくがキラキラと落ちてくる…』というものが貼り付いていたのを家に帰るまで気がつかなかった。電車でつり革をつかんでいた時に、隣にいた女性がどうも自分の袖を見ていた気がしたが、読んでいたのだろうか。
しかし、まあ、セリフだけならばなんともない。漫画では公の場では見せられないシーンであったのであるが。
ネームは貼り付けた。あとは、柱とノンブルである。
これが済めば、もう入稿できる。
漫画の場合は、原稿がそのまま版下になる。
印刷するための版を作る。そのための原稿が版下である。
アナログの場合、小説や記事ページなどは、ページごとに版下が作られる。レイアウトを指定した紙の上に、テキストが連なった大きな写植が貼られる。誤字などがあれば、その部分だけ切り抜いて、余って取っておいた写植を切り取ってはめ込むのである。このへんはカッターさばきの加減が必要で、器用にやらねばならないが、図画工作のようなものである。
自分が入ったころは、大谷さんから、練習と称しては、紙のレイアウト用紙の上で、文字数なども計算しつつ、レイアウトを指定した。いわゆる『割り付け』と呼ばれる作業であるが、いまはデジタルなので、文字数の数え間違いなども少なくなった。
以前、印刷所の営業の青年に、『版下入稿はやっぱり面倒ですか』と尋ねたことがあったが、『現場は、デジタルばかりのいまの時代に版下が来ると、逆に気が引き締まると言っています』と答えていた。
社交辞令的なものも混じっているのかもしれないけれど、あながち嘘ではないと思う。
自分は紙の原稿用紙が好きである。
作品という感じがするし、修正する時も図画工作をやっているようで楽しい。
漫画家さんの最寄りの駅まで出向いて、駅前で待ち合わせして、挨拶をして、アナログ原稿を宝物のように持って帰る、その一連のスタイルは捨てがたいものがある。
自分がインディードで編集者を始めたころ、青木とばり先生の原稿を取りに行って、飯田橋に着いたら、雨がそぼ降っていたことがある。あのころはまだプラスチックの原稿鞄を持っていなかったから、シャツの中に原稿を入れて抱えて帰ってきたことがある。それこそ宝物を抱えるように。
そういう予定外のイベントも、データだけのやり取りでは起きにくい。
データの方がそのまま印刷所に回せるし、原稿を取りに行く手間もないから、はるかに楽で、しかし淡々と事務作業的に雑誌ができ上がってしまう。漫画家さんの顔も見ずに雑誌ができ上がってしまうこともある。打ち合わせもメールで済ませてしまって電話さえ使わないこともある。
年に一度、忘年会でしかお会いしない漫画家さんも少なくないのだ。
アナログによるさまざまなイレギュラーが、妙なバランス感覚を持った編集者に育ててゆくと思うのだが。
「ただいま戻りましたあ」
鼻から抜けるような声で持田佳奈が戻ってきた。手には、プラスチック製の黒い鞄を持っている。
原稿を取り出して、大谷さんに渡す。
「おつかれさま。持田さん、今日はもういいよ。唐木くんも」
「わかりましたあ」
 もうそんな時間か、と思って、机に置いた腕時計を見ると、六時五分前になっている。
 持田佳奈が席に戻ってくる。
「先輩先輩。ドングリ拾ってきた」
 そう言って、彼女は、二人の席の境に丸いドングリを置いた。


「どうしようか」と呟く。
文机に置いた時計の針が進む音がした。
いつもの土曜日であれば九時まで寝ているのであるが、今日は早く起きてしまった。
番町の路地裏は、晩秋のひんやりとした空気に包まれてうす青く染まっている。昨日の月が、まだ空の中に残っている。
アパートの住人もまだ起きていないようだ。自分の住んでいるアパートは、木造の築年数不明の建物だから、隣はおろか、下の階の音さえ聞こえてくる。
部屋を歩く足音、壁にコンセントを差す音、水道の蛇口をひねる音、さらにはいびきまで聞こえてくるさまは、二段ベッドかとさえ思わせる。
窓も木枠だから、隙間風はもちろんのこと、路地から聞こえてくる散歩中の犬の吠える音やおっさんの唾を吐く音などで、寝ている時も目が覚めてしまうこともある。寝つかれぬ夜には、耳栓をしてヘッドホンをして音楽をかけながら寝ているほどである。
ふと、自分の脇に光るものがあるのに気がついた。自分はいま、畳の上に坐って眼鏡を外している。なんだろう、と思って手に取ると、プラスチックでできた、綿棒ケースの蓋だった。はじめ、卵より一回りほど大きなものが光っているのを見た時に、自分の持ち物の中で一致するものを考えた。鏡だろうか? いや、自分の持っている鏡でいちばん小さな物でも、ずっと大きいから違う。携帯用のお裁縫セット? こんなところに出ているわけはない。触ってみて、ようやく、綿棒ケースの蓋だとわかる。眼鏡をかけて、台所へ捨てに行った。
台所に入ったついでに、紅茶を淹れて、湯気のたつマグカップを片手に部屋に戻る。
朝の光が障子を明るくしはじめたので、文机の電燈を消して障子を開けた。向かいのマンションとマンションの間の空が、藍から紅色に溶け合っている。今日も晴れそうだ。
部屋の真ん中には文机がある。まわりは、蒲団を敷き延べる場所が空いているほかは、雑誌や本が積み重なり、もたれ合い、または散らばっている。だいたい、漫画やゲーム関係が半分で、残りは、文学的な書籍や小説の類である。読まぬままに置いた物も少なくない。読むばかりが本ではない。そうした本の合間合間に、ボタンやストローや、出自のわからぬ紫色の紐や飛行機の模型が落ちている。
鼻をかみたくなった。まわりを見るが、どうもティッシュが見当たらない。立ち上がって、押入れから新しく出した。
十分くらいたってから、美術展のチラシの下にティッシュがあるのに気がついた。
自分は、物をしまうというよりも置くだけ。先を考えずに積み重ねるから、美術展のチラシの下になにがあるのかは、見てみないとわからない。
文机の下に置いてある中から一冊の文庫本を手にする。
表紙には『身ぶりと言葉』と書いてある。
その分厚い文庫本をめくると、『第一章人間像』などと書いてある。
面白そうではあるが、いま考えるべきはこういう類のものではない。ストーリーを考えねばならない。
普通、漫画を描く際は、まずストーリーを作り、キャラクターを決め、ストーリーの細かいところを作ってゆく。
キャラクターを先に作る場合もあるし、とあるシーンを描きたいがためにストーリーを作ると言う人もある。
自分はどのような手順でストーリーを作ろうか。
いま、文机には聖書がある。専門学校に通っていたころ、友だちと四谷の教会のクリスマスミサに出た帰りに、お土産気分で購入した物である。
たとえばこういうストーリーはどうだろうか。
 聖ヨハネと聖マタイが、更けてきた夜に蝋燭を挟んで、女の姿をした悪魔から誘惑された経験について語り合ううちに、お互いの愛に気がついて、あとはBL的展開になるというストーリーは。
 しかし、牛乳先生が書き慣れていないものを描かせるのはどうかと思った。なにより、聖ヨハネを出した時点で、大谷さんが必ずしもイエスと言うとも思えない。
 文机の両サイドは机と同じ高さに本が積まれていて、その上にお盆を置くことにより、机が拡張しているわけであるが、そのうちの一冊を引き抜いてみる。
『未来のイヴ』と題されたその本は、ペーパーバッグのような体裁で、白い表紙はくすんで、バラバラで揃っていない小口は茶色く染まっている。
 中を開ければ、旧仮名旧漢字である。戦前に発行されたSF小説のようであるが、読んだのか読んでいないのか覚えていない。
自分も編集者を始めてから、なるべく本を読んではいるのだが、ストーリーを覚えていられない。個々のエピソードは覚えているものの、日のたつにつれて、全体の展開の記憶がおぼろなものとなってゆき、とくにオチをほとんど覚えていないという有様である。それに比べると、総じて、漫画家でも作家でも多くの小説や物語を読んでいて、しかもそのストーリーをちゃんと覚えているのには感心してしまう。
創作をする人は、膨大な知識をもとにして、ストーリーを生み出しているのだろう。
しかし、自分にそのような知識はない。
前に、神楽坂の蕎麦屋でカツカレー丼を食べていた時に、テレビに映っていたある作家が、『一度で覚えられなければ十回読めばいい。十回で覚えられなければ百回読めばいい』と、言っていたが、いくら自分でも百回読めば覚えられそうである。
 大作家ですべてのネタを聖書から拾ったという人もいる。シェイクスピアだけで十分だという人もいる。また、広辞苑しか読まなかったという人もいる。
 しかし、自分は百回読むのに一年は費やすだろう。少なく読んで多く考え、数少ない知識を展開してストーリーを作り出すような才能があるとも思えない。一つの考えに拘泥し、自らの正当性を主張せんがために堂々めぐりをすることになるだろうと思う。
文机の前にあぐらをかきながら、半ば自動的にティッシュを取った。鼻をかんだが、鼻水は出なかった。
肩が丸まっているな、と思って、腕立て伏せでもしたらいいだろうと思った。そう思って、頭の中で腕立て伏せをする自分を想像しはじめる。それがいつまでも頭の中でやっている。現実の自分は、胡坐をかいて腕を組んだままである。
 腹も減らないな、と思った先に腹が減った気がした。
 実際、頭の中で思ったことが少しばかりずれていることがあって、そろそろ起きようと思いながらも再び夢の中に沈むこともあるし、焼うどんが食べたいと思って口に出した瞬間、食いたいのは焼うどんではなくて、お好み焼きだったことに気がつくということもある。
 いまは腹が減ったことに気がついたから、なにか食べよう。
 卵でも茹でようかと、台所に入ると、食パンの包みに添えるようにして、流し台に青い蓋のガラス瓶が置いてある。
 昨日、番町の小さなスーパーで、黒ゴマクリームを買っておいたのを思い出した。
オーブントースターを開けて、パンを置いて、プリンを食べるような小さなスプーンで黒ゴマを塗りひろげる。練った炭のような色をしている。
食パンは台所で食べた。
 家にいる時はあまり部屋で食べないようにしている。
 ただでさえ、本に占められた部屋は虫が出やすいのに、食べかすや汁が飛び散れば、また別の虫を呼んでしまうであろうから、部屋では、ゆで卵と飲み物くらいにしておいている。
 部屋に戻って、しばらく机を前にしていたが、手の届く範囲の本や雑誌をめくっては戻し、めくっては戻しを繰り返している。
 日ごろ、編集者としての自分は、漫画家というものの一部はどうしてまた、あと一日と言わず、あと半日早く始めないのか、そうすれば新幹線便などを使って、自分が東京駅まで原稿を取りに行く手間も省けるのに、一日家にいてなにをしているのかと思っていたのであるが、我を顧みて、そうした積年の疑念もようやく晴れた。
 相手のポジションを体験し、漫画家の状態を理解したところで、机の上のコンピューターの画面は、カーソルが点滅しているばかりで白いままである。
 時間ばかりが過ぎ、起きてから四時間ほど進んでいる。
 この四時間に意味はあったのだろうか。
 畳の上にごろんと横になる。両脇を本が堤防のように並んでいるから、あたかもドックに入った船のような気分である。
 板張りの天井を見たところでストーリーは思い浮かばない。
 聞くところによると、作家さんにしろデザイナーさんにしろ、アイデアというものは突如、『降りてくる』と言う。
 まるで天から降ってくるような言い草であるが、もし自分にそのような状態が生じたら感謝の祈りでもささげねばならないだろう。
仰向けになって目をつむる。うつぶせになって息をつく。しばらく横になっているが、BLのストーリーなど何百と読んできて、それなりの知識もあるだろうに、『降ってきた』のはアイデアではなく眠気の方で、しだいに眠気は重みを増して自分を包んでくる。
 いけない。これではいけない、と精一杯の力を上半身と腕にこめて起き上る。文机のカップを手にして、そこに残っていた紅茶のしずくを飲み込んだ。
思いついた。ゲイバーのママをやっていた親が亡くなり、それを継ぐ話はどうであろう。
ゲイバー。字面はカッコいいと思う。サイバーみたいだし。
しかし、BLよりは青年コミックの方で需要がありそうだ。
これだけ考えても、ストーリーは思いつかないので、シチュエーションから考えてみる。短編小説の書き方の一つである。
読者アンケートなどを見ていると、男同士が煙草の先を合わせて火を移すしぐさなどはドキッとするらしい。
男から見て、女子同士で髪をなおしてあげるとか、自分の胸で相手の手を温めてあげるとか、そういうものに近いのかもしれない。
自分が通っていた高校は工業高校であり、男子校のようなものだったから、パンツ一丁で歩いている者や股間を触ってくる者がいたが、これはあまり美しくないからBLにはならない。
BLの主人公もその相手も、美男子や美少年ばかりであるが、もともとがある種のロマンを描いているわけであるから、不自然さは感じない。
登場人物の設定では、『ルーシェ』の場合、高校生かサラリーマンが多い。それに次ぐのが大学生だったり、バンドマンなどのアーティストや自由業系のものだったりする。
恋愛も含めて自由が増す大学生の扱いが少ないのは、大学生という存在に幻想性が足らないためだと思う。
大学生活とは、それまでの閉ざされた舞台の中で、受け身のまま、用意されたものを選ばされ、決まりきったこと以外は認められない世界から解放された後にくる、自由と可能性に包まれた段階であろうが、大学生は高校生に比べて、はるかにロマンを感じない。
大学生を主人公にするのは難しい。
自由で可能性を抱いた身の上では、BLも恋愛もご自由にどうぞ、という話になってしまう。
むしろ、サラリーマンの方が閉じた、しがらみのある世界にいるから、BLでは意外と出番が多くなる。
よし、主人公は二十代前半のサラリーマンにしよう。
ふと、部屋全体の色が褪せて見えた。
机の時計を見たら四時を過ぎていた。夕方だ。
もう、こんな時間になっていたのか。どうして、時間というやつは、ゆっくり進んでほしい時にものすごいペースで進みたがるのか。
立ち上がって、障子を閉めに行く。窓の外は、切り取られた晩秋の弱い日差しが、マンションの隙間から路地に落ちていた。
ええい、もう面倒だ。考えるからわからないのだ、ストーリーもプロットもあるものか、と自分は、いきなり書きはじめた。

空を見上げるのが怖かった。
有(ゆう)が亡くなった遠い国に続いているこの空が。
空の彼方に有の足跡を感じて。
有を求めても届かぬ明日――。
夕暮れの坂道で、明日晴れるなら、きみを思い出そう。
明日雨ならば、きみを忘れよう。
そう思いながら忘れたかったのは、ふさぎたかったのは、きみの言葉でなくて、自分の感情だった。
想いは色褪せてゆくどころか、有、昨日よりもしたいくらいだ。
もう、ずっと…。二度と届かぬ風追いかけて――。
有の香りのうちにたゆたい。ああ、もう、有の膝の上に頭をのせ、すべて有だけを吸い込み、有だけを吐き出していたい。
有がもう一度、僕の手を握ってくれることが会ったら、僕はどんなにか――。
そんなことは、この世では起こりえない。
だけど――、いまはきみの心に落ち込んで――。

会社の忘年会の帰り、郊外のまだ自然の残る町に帰ってきた三井渚は、いつものように、近道である雑木林を通り抜けていた。
  木々のやせ細った梢に月光がゆらめく薄明かりの中、向うから人が来る。
「渚」と呼ぶ声は、紛うことなきかつての恋人の有であった。
薄い腰、薄い胸、同時に幅の広い背中、しなやかな腕。すらっとした体つき。
「ううん、これは約束。きみを好きになる約束」

切り取った想いは、寒空に舞い上がって有の声が降る――。

ここで止まった。しかし、考えている時間はない。止まったら、思いつく限り別のシーンを書けばいいだけだ。

仕事の帰りに、雑木林に向かう三井渚。
「今日も俺は夜中にこの世界を抜け出す――いまの自分のすべては、あの林の夜の中に。あの言い知れぬ夜の混沌にある」

やがて、三井渚の部屋に、夜毎、有が通うようになる。

会社の給湯室では、女性が三人ほどおしゃべりをしている。
「ねえ、三井さん、最近やつれてきてない?」
「そうそう、クマもできてるし、頬もこけてきてるよね」
「どうしたのかな、なんか心配」

三井渚が、机で営業報告書をまとめていると、「三井君、やつれていないかね」と課長が心配そうに声をかけてくる。
「いえ、大丈夫です」
「そうかね、なんだかやつれているように見えるが、まあ、正月はゆっくり休んでくれたまえ」

逢瀬のシーン。
「僕に残されたのは、渚を愛する、ただそれだけの自由」
「俺はやっと大切なものがわかった。肩が触れて 指をからめて…。すべてはあとから気づくんだ」
満開の花の熱(ほめ)きにさざめいて、渚と有が揺れはじめる。
深い有の楽園に、渚の人差し指の先が触れる。
しずくは間接照明の光を含んで鈍色に反射しながら、ゆっくりと滴り落ちて、波打つ白い大地に染み込んでゆく。
長い指がにわかに熱くなった一器官を屹立させ、やがてふるえながらきらめいた肌をおしひろげた。
囲われた願いと硬直した現実がぶつかり合う。
息を継ぐのももどかしく、渚は爪先で踏ん張って、猛る熱情の拡がった背中を上からぐっと押さえつけ、片手をつかみながら鼻を首筋に押し付け、むせび泣くように、唇を震わせる。
呼吸が重なる。
呼吸がずれる。
言葉は言葉にならず、体は腰を下ろしているのか、宙で支えられているのか、這い上がろうとしているのか、重なろうとしているのか。錯落とした心は重心を欲しがり、さざめく体は自律を求めていたが、やがて、渚は口を開けながら、欲情のほとばしりを出すと、有は渚の口の中に指を入れ、激しくゆらめいて、やがて二人は白くかき消された光に沈んでいった。

最後のシーン。
スーツから見え隠れする髑髏に重ねてモノローグ。
「ずっと未来を見つけようと望み続けていた。
二人で夜の彼方に行きましょう――」

こういう調子で、書ける箇所から書いてゆき、一度眠って、日曜日にシーンとシーンのあいだを繋ぎ、余計なところは削り、また付け加えた。あとは順番を代えて、また繋げて、夜の六時に完成した。編集には編集なりの書き方があるというものだ。
シナリオというよりは、ノベルに近いものになってしまったが、牛乳先生ならばなんとかしてくれるだろう。
あらすじとしては、二十四歳のサラリーマンが、酔った帰りに近所の雑木林に入り込んだところで、一人の青年と再会する。彼こそは、かつての想い人であった青年なのであるが、留学先で亡くなったと聞いて、以来、傷心のままでいたところの再会である。彼が言うには、亡くなったというのは、親が自分たちを引き離すための方便であり、かつての愛は衰えるどころか募るばかりだ。と話す。
 それから、会社が終わるたびに逢瀬を重ねるが、亡霊が訪ねてくるに至って、しだいにやつれてゆき、姿を消してしまう。
 こういうストーリーである。
死んだはずの人間が訪ねてくる。圓朝の牡丹灯籠だな、と思った。もちろん、圓朝の牡丹灯籠に比べるべくもないが、まあ、これで良し、とファイルを閉じる。
 ここは、編集者としての自分には黙っていてもらおう。
 愛し合うシーンが半分を占めているので、大谷さんもゴーサインを出してくれるだろう。
タイトルは、『片方の愛を下にして』と、『彼との絶対回数』の二つが思い浮かんだ。どちらにするかは、大谷さんに選んでもらえばよい。
立ち上がって伸びをして、窓を開けた。
街燈の光が、地上まで降りようとする夜の帳を防いでいる。ひんやりとした空気が気持ちよかった。


自分の書いたものも無事に牛乳先生の手により漫画となり、発売日に無事、『月刊ルーシェ一月号』は店頭に並んだ。意外と読者に受けて、その後も自分は牛乳先生の漫画の原作をやらせてもらえることになった。
 十二月も後半に入ると、年末進行に忘年会とあわただしく過ぎ去って、仕事納めを迎えた。
 とくにやることもなく、持田佳奈と自分のペンネームなどを考えていた。
「くるみって名前はどうです? おいしそうだ」
「名字?」
「うん、くるみカリカリ。おいしそうな名前にしたらどうですかね。くるみをカリカリするんだ」
「それはかわいいね。いつか、ゴーストでなくなったら名乗ってみよう」
志田奈津美がお昼から帰ってきて、自分が出ようとしたら、大谷さんが来た。いつもより少し早かった。仕事納めだからだろうか。
「ごめん、阿部くん。みんなに伝えることがあるから」
 そう言った大谷さんの表情はいつもと変わらなかったけれど、打ち合わせをする時期でも、大谷さんが来る時間でもなかったことが、なんだか不安にさせた。
 全員でソファーに座った。志田奈津美と自分が並んで、大谷さんと持田佳奈が並んで座った。
 大谷さんからの話は短いものだった。
BL雑誌ルーシェは、来年の四月号をもって休刊。理由は、発行部数の伸び悩みもあるが、出版社の路線変更とのこと。大谷さんも版元を探していたが、どうも見つかりそうにないから、あと三号で休刊になり、実質は廃刊になるだろうということ。
それにともない、ルーシェ以外に雑誌を持たないインディードは三月一杯で解散。皆、編集を続けたいだろうから、紹介してほしければ紹介する。
 そういう通達だった。
 その日は四時で上がっていいよ、ということで、皆、静かに帰った。
年内の残りの三日間は、掃除をしたり洗濯をしたりしていたら、いつの間にか過ぎていった。
 年が明けて、いつもと同じく九時に起きたら、静かで青い元日の空が広がっていた。アパートの住人は帰省などをしたらしく、物音もしない。
 自分は、正月と言っても、帰省先もないし、高い料金の旅行に行く余裕もないから、毎年、本や漫画を読んで過ごしていた。
 今年も、同じように過ごすつもりでいたけれど、ふと、仕事場に行こうと思った。行かないと済まない気がした。
 その気持ちは、それまで当たり前のように存在していたものが、自分の意志ではどうにもならないものだったんだと悟った後に、急に一日一日が過ぎてゆくのが愛おしくなるようなものだったのかもしれない。それとも、まだ形を取らないなにかを確かめたい衝動のようなものだったのかもしれない。
 買っておいた黒豆だけ食べて、くたびれた革ジャンにジーンズでアパートを出た。正月で車も少なかろうから歩いて行こうかと思ったけれど、九段下は混み合っていそうで、かといって、市ヶ谷の方からまわる気にはならず、やっぱり地下鉄で行くことにした。
 正月の電車は、家族連れやカップルばかりがまばらに座っていて、一人で乗っている者は自分だけだった。いつもの通勤に使う電車であり、いま乗っている人たちの中でも自分がこの電車に一番慣れているだろうに、自分だけ場違いのような気がした。
自分は一駅で乗り換えるから座らずに扉の前に立っていたら、端の席に座って、隣の女性と話していた男が一瞥した。なんだか、落ち着かない気分になった。早く駅に着いてくれ、と思いながら立っていた。
飯田橋の駅を出ると、ガラス張りの高層ビルが冬の日差しを射返していて、通りに変な影を作っていた。目白通りを挟んだ向こうから、東京大神宮へ詣でた帰りと見える晴れ着の人たちが賑わいながら降りてきた。
事務所のビルに着くと、一階の製版屋さんに門松が出ていた。
 ふと、志田奈津美が来ていないかな、と期待する心が湧きあがった。彼女がいれば、心が晴れる気がした。会いたいと思った。
 志田奈津美とは、普段は仕事の話のほか、ざっくばらんに話すばかりで特別な感情は抱いていないと思っていた。しかし、それは、そう自分に言い聞かせて、それ以上踏み込まずに済ませるための、枠というか、方便だったのかもしれない。あと三か月。たった三ヶ月で、ずっと隣にいた彼女と離れてしまう。もしかしたら、もう二度と会えなくなるかもしれない。急に想いばかりが募ってきた。
 自分にとって、インディードがなくなるということは、隣に志田奈津美がいる理由がなくなるのと同義だった。
 しかし、その想いは本物なのだろうか。単に、均衡が崩れた挙句に、熱を帯びて、にわかに膨張しているだけなのではないか。
 自分は、その気持ちを確かめるために、今日、元旦に事務所に来たのだろうか。
 誰もいないエレベーターに乗り込んで、十階で降りて、事務所に行く。ドアノブを回したが、閉まっていた。当たり前だ。今日は正月で休みで、そして、あと三か月でここに来る理由が消える。
チェーンの先を引っ張り出して鍵を出し、扉の鍵を開けた。
 インディードでは、皆が事務所の鍵を持っている。マンションがオフィスになっているところはどこも同じだろう。
 照明とエアコンをつけて自分の席に着いてみたけれど、やることはない。すでに仕事納めの日にやることがなかったのだから当たり前である。
 来るばかりでなにかが変わるわけではない。
一時間黙って坐っていれば、一時間が過ぎ、ただ三月三十一日が一時間近づいてくるだけである。
先のことを考えてはみるものの、自分が他の会社でまともにやっていけるのだろうかという不安がある。
 履歴書だって、アルバイト用のものしか書いたことがないし、スーツも持っていない。まともに就職活動をしたことはないし、ビジネスマナーなんてものは習ったことのない舞踊のようなものだと思っている。
 インディードは、毎日きっちり三十分遅刻していてもなにも言われないし、仕事上で注意された覚えがない。
大学に行っていない自分にとって、インディードはモラトリアムみたいなものだったのかもしれない。でも自分のような大根(おおね)でいい加減な人間が普通に会社勤めなどできるのだろうか、と無干渉な空を眺めながら思っていると、扉が開いた。
びっくりして振り返ると、志田奈津美が入ってきた。ボブの髪をいつもよりも柔かくふわりとさせている。
アイボリーとグレーのマフラーをゆったりとぐるぐるに巻いて、ベージュのコートから黒いタイツが見えている。
「あれ、志田さん」
 自分の心が急に明るくなってゆくのがわかる。
「阿部くん、来てたんだ」
 志田奈津美の低い声に、ひなたの匂いを感じた。
 コートを脱ぐと、紫に近いようなグレーのニットに、紺のニットスカートをはいている。志田奈津美のスカート姿を見るのは初めてかもしれない。
「いつもの癖で、いきなりドアノブをひねったんだけどね。習慣は恐ろしいね」
「実家に帰っていたんだっけ」
「うん。一応、家族と深大寺に初詣してきたところ。友だちの家に遊びに行ってくるって言って、別れてきた」
 コンビニエンスストアのロゴが入ったビニール袋を机に置いて、席に座った。
「阿部くん、昼とか食べた?」
「いや、とくには」
「じゃあ、ともに食べよう」
 志田奈津美は、袋からパンの包みを二つ出して、二人の間に置く。一つは、小さな菓子パンが六個並んでいる物で、もう一つはドーナツが五個入った物である。
「ソファーで食べる?」と聞きながら自分は立ち上がる。
「いいよ。ここで。原稿もないし、机でいいよ」
 立ち上がったついでにキッチンへ行く。
「なんかあるー?」
「食べ物の類は年末に持って行っちゃったけど、コーヒーとか紅茶なら残っているはず」
「冷蔵庫は?」
 開けて見たら、冷蔵庫の中は、缶ビールばかりだった。蓋つきのゴミ箱からアルコールの臭いがほのかにたった。大谷さん、暮れに飲んで帰ったな。
「コーヒーか、紅茶飲むー?」
「コーヒープリーズ」
 お湯は、やかんで沸かしたい気分だったけど、やかんはないから電気ポットにお湯を入れて沸かす。
 流し台の水切り籠に伏せてあるカップのうち、ステンレス製の物と、黄色と水色のチェック柄のマグカップを取る。
 冷蔵庫の上にあるお歳暮の箱を開けると、瓶入りのインスタントコーヒーはあったが、個包装のドリップ式のコーヒーは、そこだけ空になっていた。
 棚から封を切ってあるコーヒーを出して、壜をトントンとかたげてマグカップに入れた。いつもなら紅茶なのだが、たまにはコーヒーもいいかな、と思って、ステンレスのマグカップにもコーヒーを入れた。
 そうしているうちにお湯が沸く。
 お湯を注ぐと、泡立ちながら湯気をたてて、深みのある液体の嵩が増してゆく。
 スプーンを使わずにカップを揺らし、中の液体を回転させた。
 席に戻ると、パンがトレーごと出されて包装紙の上に置かれていた。準備万端と言ったところだ。
「ありがと」と言って、志田奈津美がマグカップに手を伸ばす。触れた人差し指は冷たかった。
コーヒーを口に含む。苦い。
「ああ、あったかい」
志田奈津美は、マグカップを鼻の下に持ってゆき、香りを嗅いでいる。
「じゃあ、食べるよ。いただきます」
自分は、掌より小さな丸い菓子パンに手を伸ばした。半分に割ると、中から飴色をしたピーナッツクリームが出てきた。
「いただきます」
志田奈津美も、手を合せてパンを食べはじめた。
一個食べたところで、志田奈津美はコーヒーを口にして、息をついた。
「なんか、急に決まっちゃったねえ」
「そうだね」
「佳奈とか、どう思ってんだろうか」
「持田さんは、なんだかんだで、切り替えうまそうだし」
「阿部くんは?」
「俺?」
「切り替えられてるの?」
「なんとも。基本的になにも考えていない人間だし」
「そうか。時は流れ、場は過ぎ去るのみ」
 志田奈津美は、ドーナツを二個続けて食べた。自分は菓子パンばかり食べる。
 二人しかいないから、会話を止めれば事務所はしんとする。
 志田奈津美が、ため息をついて顔を空に向けた。なんにもない、ただ一面、水色にべた塗されただけの空が広がっている。
「ああ、あと三か月で卒業かあ。せつないねえ」
「そうか、これって、卒業が迫る気分なのか」
「たぶんそうだよ」
「そうかあ、これが卒業なのかあ」
「しみじみしてる?」
「俺って、高校は工業高校だったし、卒業のせつなさとか感じたことなかったなあ。三年の年も、卒業イコール通わなくて済む、だったし。中学も高校も卒業式が終わったら、すぐ帰ったし、下級生から贈物をもらえるようなこともなかったし」
「私は女子校だったけど、卒業式って、下級生が百合の花を一人一人くれるんだよ。校章なんだ、百合の花は。教室も後輩が飾り付けして、黒板には『ご卒業おめでとうございます』って、大きく書かれて、卒業生はそのまわりにメッセージを書き残すのが恒例」
「なに、その青春ドラマみたいなの」
「青春ドラマみたいなことをやっちゃうのが青春なんだよ」
「男ばかりだと、そういうのまったくないよ。教員も男ばかりだとやる気がなくなるのかもしれないな。中学とかは一応共学だったから、俺のあずかり知らないところで、感動のイベントが行われていたのかもしれないけれど」
「じゃあ今回が、阿部くんの初めて味わう卒業気分なんだよ」
「そうかあ、なかなかせつないものだね」
「せつないものだよ、卒業は」
志田奈津美は足を組みなおして、膝の上に左手を置いた。
「黒板て、なにかせつない気がする」思いついて言ってみた。
「ああ、黒板はせつないわ。ホワイトボードや、ましてプロジェクターじゃ、しょうもない」
「イメージしてみたけど、さっきの『ご卒業おめでとうございます』も、黒板だからロマンチックなんだろうね」
「うん。それは言えてる。ホワイトボードじゃ、せつなさが足らない。ミーティングみたいだ」
「未来になっても、黒板てあるのかな、教室に」
「ある時点で教育がやばい気がするけど、なければないで、なにかを失っている気がする」
「あの、静かな教室に響くチョークの固い音ね。寝たり、窓の外を眺めたりするには最適」
「そして、黒板に書くたび、さらさらと落ちてゆく粉。書くたびに少しずつこぼれ落ちてゆくなんて、たまらなくロマンだよねえ」
「そうだねえ」
自分は、ドーナツを手にして空に目をやる。
 雲の一つもない。正月というものは、本当に毎年毎年よく晴れるものだ。
「何年いたんだっけ」と志田奈津美が聞いてきた。
「ここ? 四年じゃない?」
「四年で卒業か。大学みたいだね」
「大学かあ、やっぱり俺にとっては、ここは大学みたいなものだったのかもしれない」
 志田奈津美は、ポケットから黒い髪留めゴムを出すと、右手首に通しながら、うなじをむきだしにして首の後ろで髪を留めた。華箸な白いのどが見える。
「あ、違う。間違えた。今日は、違う」
 そう言って、髪ゴムを外した。
「癖が付いちゃっているね」志田奈津美が照れたように言う。
「行動の?」
「そう。ここに来て坐ると、まず髪を結わくっていう」
「今日は、お休み。なにより、お正月だし。仕事モードになることはないよ」
志田奈津美は、短く笑うと、珍しく、探るような瞳で見つめてきた。
「ねえ。今日一日だけ、誠也って呼んでいい?」
 志田奈津美の言ってきたことは思いの外のことだったけれど、楽しそうだ。
「いいよ。お正月だし」
「そうよ、正月正月」
志田奈津美は、手で顔をあおぐようなしぐさをした。
「で、誠也は、私のことを奈津美って呼ぶの」
 やっぱり、いつもの志田奈津美とは声のトーンが違う気がする。低さは同じなのだけれど。仕事に来てるんじゃないから当たり前か。
「それで行こう。今日、ハレの日だもんね」
「一年でいちばん新鮮な空気に包まれる日だよ」
「不思議だよね。十二月三十一日と一月一日って、ただの次の日なのに、次じゃないよね」
「元旦に会社にいる人って、いるのかな。サービス業とか、インフラ関係とか別にすると」
「少なくとも、仕事もないのにいる人はいないでしょ」
「元旦に、義務がないのに、仕事場に来ているのって、不思議。世の中忘れそう」
「俺は、なにをしているんだろうねえ」
「それはこの場? それとも人生?」
「ああ、四十歳くらいになって、生きていたとしても、なにしてるのかな、とか思いそう。それで生きていればいるほど、好い思い出は褪せて行って、嫌な思い出だけが残りそう」
「誠也ってさ、見た目もあるけど、高校生だよね。高三っぽい」
「雰囲気が?」
 自分の性質について、志田奈津美の口から聞くのは珍しい。忘年会のあとに二人で市ヶ谷まで歩いて帰っても、料理や夜空に浮かぶ月の話などをしながら歩くのに。
「雰囲気も考えも。こどものように照れるかと思えば、大人には堪えられない孤独に堪えられて。こどもにはわからない喜びを知りながら、大人の諦めというものを知りつつあるって感じ」
 それは、実際の高三ではない気がした。むしろBLに出てくる高三だろう。実際の高三は、もっと欲にまみれて足掻いている。
「大人っぽいところもあるかもしれないけど、大人じゃないよ。俺は」
「そう、大人っぽいって言うだけで、大人ではないんだ。誠也は」
「高三になると、皆、受験勉強とか就職とか、それまで自由に思い描いていた未来がいきなり選択肢になるよね。かえって、高二の時よりも世界が狭まっているのに、未来は近づいてくる。変な感じだよね」
 少し早口で言ってしまった。言って、自分でなにを言ったのだかわからない。少し恥ずかしくなったから、続けて聞いてみる。
「大学の四年はまた似たような感じなの」
「大学の四年に迫ってくるのは、未来じゃなくて、現実だよ」
 志田奈津美は、机に両手をついて、膝の裏で椅子を押して立ち上がった。
「淹れてくるけど、コーヒーいるよね?」
 正月の空は、日の傾きとともに、しだいに色が薄まってゆく。薄まっていって、今度は黒く染まってゆくのだ。
「はい。これ飲んだら出よう。日が暮れたら、このまま泊まりそうな気がしてきたわ」
 湯気のたてる香りとともに、志田奈津美がマグカップを置いた。
今日もやがて終わってしまう。


日没前の薄まった光が、お濠(ほり)とそれに並んで走る線路の土手をうす赤く染めている。冬至の日に比べれば、わずかに日の暮れるのが遅くなった気がするけれど、それでもあっという間に夜になってしまう。
往来を行く人は、普段の十分の一もいない。わざわざ土手まで上がって来て歩く人はさらにいない。春になれば満開になる桜も、いまは枯れ木となって、間隔を空けて寒々と市ヶ谷まで並んでいる。
 志田奈津美は、飯田橋から帰るのかと思ったら、京王線直通の電車に乗って帰るとのことで、市ヶ谷まで歩くと言いだした。自分も一緒に歩いて、市ヶ谷駅前から番町へ戻ることにした。
 志田奈津美は、普段も京王線沿線に住んでいるので、忘年会の帰りなどは、二人して土手の上を歩いて帰ったものだった。
 今日も、どちらとも言わず、自然に足が土手の階段を上がっていた。
「四月から誠也はどうするの? やっぱり編集?」
「ううん、どうしたものか、と思っている。他の会社とか、やっていける自信もないけど、とりあえずどこか受けてみると思うけど」
「そうかあ」
「奈津美は?」
 言いながら、名前で呼ぶのに慣れていないな、と思った。
「私は、言われた時は、紹介してもらうなり、自分で見つけるなり、編集の仕事をしようかな、と思っていたんだけど、年末にずっと考えていたんだ」
 ベンチを通り過ぎる。飯田橋側から数えて二つ目のこのベンチは、飲み会のたびに酔い覚ましと称しては、志田奈津美と一緒に腰かけていたっけ。二週間前の忘年会の帰りも二人でこのベンチに腰かけて、鏡のように輝く月を眺めていたんだっけ。
「やっぱり大学院に進もうと思って。この四年間も研究は続けていたんだ。たまに出身大学の先生に見てもらって。だからと言って、いまさら院に進んだとしても、別に研究者になれる可能性も低いんだけどね」
 志田奈津美が、もともと大学院に進もうとしていたのは聞いている。四年間、想いは変わらずにいたのだろうか。
「仮に院に進んだとしても、マスターだけ出て、ドクターに進めなければ、研究者になるのは厳しい。そうなると、結局就職となるけど、その可能性の方がずっと高いし。間を空けて院まで進んで、それを生かせない就職をしたところで、じゃあ、自分はなにをしてきたんだろう、なんの意味があったんだろうって、思い続けながら人生を過ごすのは怖くもある。このあいだ、出身大学の教員のところに相談に行ったら、研究計画の話もそこそこに、結婚を勧められちゃったし」
なにか言うべきだとは思いながら、なにを言っても嘘になりそうな気がした。気楽に言葉が口から出せない。いまは、志田奈津美と話をしながら、同時に、自分の心も探っているような状態だった。
言葉にならない想いを感じて、どうにか言葉にしようと探ったけれど、それはやっぱり言葉にならなくて、口を結んだまま土手を歩く。枯れ木の脇を過ぎる。過ぎれば、また同じような一本が近づいてくる。その繰り返し。でも、いつまでも続くわけではない。着実に終わりに向かって近づいてゆく。
ポケットに両手を突っ込みながら、このまま、あと十分ほどで市ヶ谷に着いたらそれで、妙な一日も終わってしまい、もう本当に三か月だな、と感じた。
なにかが終わる。終わるのは、インディード所属? BLの編集? それとも、もっと別のなにか。
 しだいに歩みがのろくなる。それは志田奈津美も同様だった。事務所の席と同じ、自分の左側にいて、一緒に歩いている。
 今日、元旦に志田奈津美が隣を歩いていることは、感覚としては違和感を覚えない。自分にとって、隣に志田奈津美がいることは、いつもの日常だからである。
 しかし、志田奈津美はどうして、今日、飯田橋まで来たのだろうか。志田奈津美の実家は調布の先だから、わざわざ来るような距離とも思えない。一時間以上もかけて、自分のようになんとなく来たかったのだろうか。それに、今日は雰囲気が違う。いつものようなざっくばらんな感じがしない。嫌な感じではない。むしろ和やかな雰囲気がしている。でも、どうして、お互い名前で呼ぼうなんて言い出したのか。もしかして、志田奈津美も自分と同じ気持ちを抱きつつあるのだろうか。
「待って」
志田奈津美がマフラーを一度解いて、また巻きなおした。
彼女もこうして一緒に歩きながら、なにかを確かめようとしているのだろうか。事務所にいたままでは、触れぬままお互いにかわしてしまう領域に触れようとしているのだろうか。いつもは、なんの気なしに始まって、お互いが会話の進む点を推測しては口に出してゆく。でも、そうした会話を滑らかに滑らせるようなやり方では、見えてこないものがある。むしろ、人間関係を保つためには、その見えてこないものを示そうしてはならない。皆、こどもの時分からの経験で、一度崩れだした人間関係を修復するのは、ひどくしんどい仕事であることを経験で知っているのだ。
 しかし、インディードの解散と、それにともなって、未来を決めなくてはならなくなっていることに揺らいでいる心と、今日、この正月に仕事でも遊びでもなく、約束したわけでもない二人が、日暮れに歩き慣れた外堀沿いを歩いているという、ふと嵌まり込んだ非日常のような状況が、たとえ普段は曖昧にしていたことを口に出して、はっきりさせてしまったとしても、次にやって来る仕事始めの日には、何事もなかったように接することができるだろうと思わせた。そうして、今日のことを胸に秘めたまま卒業するのだろう。
今日しかない気がする。普段の仕事や飲み会の帰りでも、休日に約束して会うというのでも違う。今日のような、ふとした間のような一日が必要だったのだ。
志田奈津美は、今日、事務所に来た時に、『いつもの癖でいきなりドアノブをひねった』と言っていたけれど、あれは彼女の賭けのようなもので、もし、あの間際、鍵が締っていたらそのまま帰って行ったと思う。彼女は、約束なしの出会いに賭けたのではないか。
 そのような考えを試みながら歩いていたら、すれ違ったカップルのこちら側にいた女の方がチラと見て過ぎていった。
「だめだ、寒い」
 志田奈津美は、はっきりとそう言うと、いきなり腕にしがみついてきて、俺の左腕とわき腹の間にぐいぐい腕を入れてきた。
 たちまち自問自答の霧がかき消されて、志田奈津美の感触が伝わってくる。驚いて、また嬉しくもあったけれど、それを悟られたくないから、そのまま歩きながら志田奈津美をうかがった。顔がすぐ近くにある。意志の強そうな眉の下、先がちょっと上を向いているまつ毛が自分の目の高さに来ていた。
「世を忍ぶ仮の姿ということで」
 志田奈津美は、そう言うと、くすぐるような目で見つめてきた。
一瞬、ぽかんとすると、
「ほら、いま歩いているのって、たいてい家族連れかカップルでしょ。それなのに、うちらはなに? なんか微妙な距離を取って歩いている二人がいるね。なんか、会社の同僚っぽい距離だよね、お正月なのに何しているんだろうって、ささやかれたらどうするの。世間の皆さんを安心させてあげないと」志田奈津美は、冗談めかすように言った。
「じゃあ、世を忍ぶ仮の姿ということで」
 なんだか、肩の力が抜けた気がした。腕を組む前まで胸に抱いていた固くて熱を帯びたなにかが抜けた。でも、それは冷めたというのではなくて、柔らかく暖かいものに変わっていった。
「誠也のお母さんて、どんな人?」
 再び歩き出すと、志田奈津美が聞いてきた。そう言えば、自分の家族については話したことがなかったと思う。
「悲しむのでも、楽しむのでも、どこか他人を怖れながらやるような人。もういないけど」
「小さい時?」
「ううん。五年くらい前」
「そうなんだ。お父さんは?」
「あまり覚えていないけど、神経質なのに大様(おおよう)に振る舞おうと躍起になっていた人だったみたい」
言いながら、それをあわせ持ったのが自分なんだろうな、とも思った。まわりの寛大さのおかげで、その性質が出てこないだけで。
「きょうだいは?」
「いない」
「天涯孤独か。誠也はそんな感じがする」
 自分はしみじみとうなづいた。
「じゃあ、好きな人は?」
 ドキッとした。これは簡単に答えられない気がした。
「わからない」
「そこはあいまいなんだ」
「なんていうか、好きな人がいて、それを口に出したら、なんだか、それほど好きじゃなかったんだな、とか思ったらどうしようかと思うし」
「誠也って、好みのタイプとか、言った途端に違うタイプを好きになりそう」
「かも」
 四年間も机を並べて、いろいろなことを話したのにもかかわらず、まだまだ話していないことはあるものだ。
「奈津美って、小さいころ、なにになりたかった?」
 今度はすんなり『奈津美』と言えた気がする。
「公式には絵本作家って言っている」
「非公式には?」
「お嫁さん」
 これは面白い。ふだんの志田奈津美からは想像ができない発言だ。
「じゃあ、誠也は?」
「俺はサラリーマン」
「なにそれ。二人で幸せな家庭を作るしかないじゃん」
 二人して、大声で笑った。初詣帰りらしい破魔矢を持った家族連れが立ち止まって、こちらを見上げたが、すぐにまた歩き出した。
「あはは。普通だったら、画家と小説家で、じゃあ二人の夢が叶ったら、一緒に絵本作ろうとか、ケーキ屋さんと大工さんで、夢が叶ったら、ケーキ屋さんを建ててあげるとか、夢がさらに膨らむのに」
「小さくまとまってしまう」
 笑った後に、再び歩き出した。
「このあいだ、出張校正した帰り、印刷所の営業さんが江戸川橋の駅まで送ってくれたんだ」
「ああ、中田さん?」
「そう。それでさあ、高速下の横断歩道で青になるのを待っていた時なんだけど、いきなり、『月がきれいですね』とか言うのよ」
「それって」
「たぶん、告白だよね。七十年代から言われはじめて、最近、ネットとかで広まったみたいだけど、夏目漱石が授業中に”I love you.”を生徒に訳させたらしいのよ。そこで生徒が、『私はあなたを愛しています』って答えたら、『日本人がそんなことを言うか。日本人なら、月がきれいですね、と言うはずだ』と言ったって話」
「それって、噂だよね。去年あたり、漱石全集読んだし、寺田寅彦とか、内田百閒の全集も読んだけど、そんな面白いことを言っていたら、どこかに書いてあると思うし」
「もちろん噂でしょ。史料に残っていないし。でも、漱石が教えていたのって、愛媛の中学以外は五高とか高等師範学校でしょ。あと帝大だし。そこで『I love you.を訳せ』は言わないと思う。漱石自身は、ロマンチストだとは思うけど。まあ、温泉の発祥をとりあえず弘法大師にするようなものなのかもしれない」
「それで、『死んでもいいわ』とか言わなかったの」
「言うわけないじゃん。死にたくないし」
「そういう告白って、漫画とか、二次創作の中だけかと思っていたら、実際に言う人がいるんだ」
「それだけ、ネットの力が強いんだろうけど、この年になって、付き合ってもいないのに告白されるとは思っていなかった」
「好きなら好きって言わないとわからないよね。ハートマークくらいつけないと。不意の告白の場合は」
「飛び込むような告白は女の子の方からするものであって、男の方からするものじゃないでしょ」
「男から告白する場合は、ある程度の雰囲気ができてからってこと?」
「そうそう」
「BLやっていると、いろんな価値観がフラットになっていくから、どっちからでもいい気がするんだけど」
「告白じゃなくて、プロポーズだよ、男の方からするのは。そこは古事記のころから不変でしょ」
 二人の歩調はぴったりとして、それでいてゆっくりだった。
「ねえ、誠也って、さっきどこか受けるって言っていたけど、やっぱりBLやるの?」
「こだわってはいないけど、BLも嫌いじゃないんだよね。BLって、ヤマなしオチなし意味なしじゃん。その思想って、面白いし、好き」
「従わざるを得ないコードに従っている振りをしながらコードを変化してゆくんじゃなくて、相手にしていないのが前衛的かもしれないね。ヤマがあって、オチがあるから、意味ができて、他者と経験を共有できるんだけど、BLは、そうじゃない。その点、本能に反しているんだけど、好きでやっている感じ」
「イラストレーターとか、漫画家さんを見ているとわかるけど、やっぱり自分がいいと思うことをやるのがいちばんだと思う。流行の絵とかは、その時は上手に見えるけどね。はやっているものは、見なれているから。ただ、その流行の部分から腐っていく。ねえ、奈津美、さっきさ、研究者を目指して、それで結局就職したら意味がないとか言っていたけど、人生にヤマも意味もオチも求めなくていいと思うんだけど。みんな、物語に慣れすぎて、自分の人生も物語化しがちだし、物語にしないと他人にも伝えられないと思っているみたいだけど。でも、フィクションじゃない、リアルは、平坦で物語も作る必要がなくて、自然で普通にしていれば、それがその人にしかなしえない仕事と言えるんじゃないのかな。普通で平凡で、それでいて幸せなものだからこそ、陳腐なものにならないし、決して共通化できないものがあると思う。奈津美は、奈津美でやりたいことがあるんだろうけど、それをやるにしろやらないにしろ、その時の自分を尊重できればそれで十分なんじゃないの。使命とか意欲とか、意志の強さとか、そういうものは、両刃の剣を振り回しているような感じなんじゃないのかなあ」
途中から立ち止まって聞いていた奈津美は、半ば賛嘆、半ば呆れたような、『いきなりなにを言い出すんだこの男は』、みたいな表情をしている。
「ああ、やっぱり、高三だわ、この男。超えてるわ。そんな観念的な臭いセリフ、真顔で言ってくるのは誠也だけだわ」
志田奈津美は、両手をひろげて首を振る。
「そこ、のってきてくれないと」
「真剣な顔で、長々と自分でもなにを言っているのか、わからなくなってきたみたいな顔して話すから、告白でもしてくんのかと思ったら」
「んん、『月がきれいですね』とか、言ったろか」
「このあいだの忘年会の帰りに、『あの皓々(こうこう)と輝く月に向かって、杯を上げたいねえ』、とかなんとか言ってたじゃん」
「あれは、別にただの李白じゃん」
「なんだ、ただの李白なんだ。また、覚えたての漢詩で告白かましはじめたのかと思ったわ」
「それは」
「それは、なに」
「奈津美も、『遥かなる銀河の彼方でいつかまた』、とか言ってたじゃん」
「あれは、ただの李白だし」
 奈津美がくすくすと笑い出したのにつられて、自分も笑い出した。
「ねえ、私のこと、どう思ってる? 正直に」
「大雑把でクール」
実際はちょっと違うけど、編集したらこうなる。
「うん、正解にしといてあげる」
「ありがと。じゃあ、俺は?」
「偏屈」
「まじか。偏屈はないでしょ」
「偏屈だよ、偏屈。いちばん言いたいこと、言いそうになったら、方向変えるじゃん。だから彼女もいないのよ」
「いきなりそれか。彼女がいないなんて企業秘密は、奈津美に言った覚えはないはずだけどね」
「彼女がいるわけないじゃん、誠也に。何年隣にいたと思ってんのよ、毎日毎日。佳奈としゃべる時もちょっと上がってるでしょ」
「んなわけないよ!」
「どうかなあ、話しかける前に、頭の中でセリフを復唱して、意を決してから佳奈に話しかけてない? 年下のかわいい女の子だ、って」
「仕事です。仕事の話をしてるんです」
「ほらね、理由をつける。誠也の偏屈。せっかく私が、毎日三十分も時間をあげていたのに、どうして、そこで愛を育まないかな。年頃の男女が二人っきりだよ。マンションの一室に」
「そんなんで、俺よりさらに三十分遅く来てたの?」
「あったりまえじゃん」
志田奈津美は、胸を張る。鼻から出た息が白くなる。
「絶対嘘だ」
 ぷいと、そっぽを向く。総武線が走ってゆくのが見えた。車内は、意外と混んでいる。
「じゃあ、奈津美はどうなんだよ」
「どうって?」
「その恋人とか、好きな人とか」
「恋人はいない。好きな人はいる。以上報告です」と言って、敬礼した。
「ずるいー。なにその簡潔かつ曖昧な言い方は」
「言ったでしょ。私の夢はお嫁さん。王子様を待っているのよ。そんじょそこらのさみしいからって告白してくるようなやつじゃだめね。まあ、今時、都心の高級集宅街にある木造アパートで、本に埋もれているBLの編集じゃ、王子様どころか、執事にもなれないよね」
 奈津美は、右の掌を左腕の肘に添えて、左手の人差し指を振りながら話した。
「くっそー、そのうち高級自由宅街のワンルームマンションに住んでやる」
「あはは、お酒飲むより、よっぽど楽しい」
 奈津美が一歩進み出て、お濠に向かって、いきなり叫んだ。
「ああ、お嫁さんになりたいー!」
 いきなり、奈津美が青春を始めたので、自分ものってゆく。
「じゃあ、サラリーマンになりたいー!」
「なってねー」
「それ、どっちのこと?」
「二人ともに決まってんじゃん」
「でも、俺は半分叶っているからね」
「だめだめ、インディードは会社じゃないし。誠也も会社員じゃないし。確定申告の存在も知らずに重加算税かまされてるようじゃ、社会人とさえ言えないね」
「古いよ! 話が。四捨五入したらサラリーマンみたいなものでしょ」
「四捨五入したら、フリーターだよ、うちら」
「五じゃなくて四だったのかあ」
揃って歩きはじめれば、土手が終わる。すでに、市ヶ谷駅前のスクランブル交差点と、そこに行き交う人びとが見えている。暮れやすい冬の夜を、赤いランプを明滅させながら飛行機が横切ってゆく。
土手が尽きて、道に降りる階段で奈津美が立ち止まった。時間切れ寸前で時間が止まる。
奈津美がこちらに体を向けた。
「ねえ、誠也、私が大学院に入れなくて、無理やり見合いをさせられそうになったら迎えに来てよ」
 奈津美は真正面から微笑みを浮かべた。それは初めて見る微笑みだった。冗談か本気がわからない。ハレの日に現れた空間内のフィクションかもしれない。
でも、少しうるんだような奈津美の目を見れば、馬鹿でもわかる。
「うん、幸せな家庭を築こう」
 自分も、言葉だけは冗談っぽく応えた。それが自分たちの恋のようなものなんだろう。
「指切りげんまん」自分は、奈津美に向かって小指を伸ばした。
「小学生だ」
日が沈んだその後の、まだ黒になりきらない空の下、どこからどこまでが冗談で本気かわからないまま小指と小指を絡めあう。唇をもれる吐息がかかる。
からめた右手を二人の胸の高さに上げて、初めに奈津美が、続いて自分が左手を重ねた。冷たくて暖かい。そして、最後に大笑いして、通りに降りた。


三月三十一日の夜に簡単な食事会をして、インディードは解散した。残務処理があるから事務所自体はひと月ほど残すと言っていた。
帰りは、志田奈津美と飯田橋から市ヶ谷までお濠沿いを歩いた。いつもの土手を歩こうと思ったけれど、花見客が盛大に出ていたから、お濠を挟んだ大通りの道を歩いた。桜が馬鹿みたいに満開で、ライトに照らされた薄紅色の花びらが光を含んで、別れの季節にある人びとの思いをすべて埋め尽くそうとしているかのように降っていた。
持田佳奈は、知り合いのデザイナーさんがやっているデザイン事務所に就職した。彼女も不思議なバランス感覚を持っているから、デザイナーの方が向いているかもしれない。
自分は、大谷さんから紹介された編プロを受けたものの、仕事場が落合あたりにある自宅兼のアパートで、とてもやっていけそうになかったから断った。自分で探して二社ばかり編集の仕事を受けてみたものの、通らなかった。アルバイトでもするしかないと思っていたら、三月に入って大谷さんが、他社のBL漫画の原作の仕事を紹介してくれた。書き上げたものを先方の編集長に見せたら、原作もお願いしたいけど、君はノベルの方が向いていると思う、と言われた。住まいは変わらずに、番町の築年数不明の男性専用木造アパートで、本に埋もれながらBL小説や原作を書いている。
 そして、志田奈津美。
彼女は、想いが通じたのか、関西の国立の大学院大学に社会人入学を果たした。『意地』彼女はそう言った。
結局、志田奈津美に好きとも、付き合ってとも言わぬまま、『卒業』と相成ってしまった。
毎日、仕事場でお互いの現状を報告し合うだけで、待ち合わせをして外で会うことはしなかった。
二人とも、言葉を扱う仕事をしていながら、自分たちのあいだには言葉を使うのをためらった。
お互い、あの日、ふとしたフィクションのような一日を特別なものとして少しのあいだ、留めておきたかった気持ちがあったのだと思う。あの一日が自分たちの心に根付くまで。
あの日の続きは、インディードを卒業してから始めたかった。
四月に入ってみると、お互いの新しい生活が想像以上にやることが多かったこともあって、ろくにメールのやり取りもしないまま、五月も半ばを過ぎてしまった。
雑然とした心持では、連絡をしたくなかったという思いがあってのことだったけれど、ようやく、四月から書いていたノベルが完成したので、志田奈津美に手紙を書くことにした。メールでも電話でもない、『ブツ』でなければ届かない気がした。

志田奈津美様

いまは、BL漫画の原作のほか、BL小説も勧められて書いています。担当編集者に見てもらいながらなので、構成などのアドバイスももらえて助かっています。
書く前はいつも不安ですが、背伸びをしながら毎日を過ごしている感じがします。
自分に作家の才能があるとは思えないけれど、必要としてくれる人がいる限りはやってみようと思います。
好きでやりたいことがあるのは、それだけで才能なんだと思う。

阿部誠也

万年筆にブルーブラックのインクでしたためた。なにか、肝心なことを書いていない気がしたが、これが自分の普通で自然な姿なのだろう。
ポストに投函する前に、ちゃんと届きますようにと、お願いしてから入れた。
一週間たってから返事が来た。
滑らかな大理石のような質感の封筒を開けて見ると、一枚だけカードのような便箋が入っていた。

誠也へ
ありがとう。手紙くれてうれしい。とっても。
手紙って、モノローグかませるからいいよね。
好き♡               奈津美

追伸 夏に帰るよ。

                         了


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