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【民俗学漫談第28回】現代音楽

現代美術

現代美術もサブカル化しているように見えます。端ばかりつついて、中心がない。

個人的に現代美術はおもしろいと思うんですよ。参加してみたいくらいで。

でも、メインカルチャーとしての美術がどうも前面に出てきませんね。

美しいもの、崇高さで人の心を揺り動かすもの。

それが、メインカルチャーとしての美術の役割なはずですよ。

うーん、すでに写真技術を意識することさえなくなってしまったんでしょうか。

現代音楽

現代音楽、なんていうのもあります。

クラッシック音楽の一部で、現代において作曲されたものだと思うんですが、これも変な言い方だと思いますよ。

ポップスとかは、わざわざ「現代音楽」なんて言いませんよね。

現代の音楽なのは当たり前ですから。

なのに、クラッシックは、なんで現代音楽と言うんでしょうか。

あれって、「クラッシック音楽で用いられる楽器と技法で作曲された音楽」ってことでしょうか。

美しい協和音を崩して、不協和音を用いる。

それで、不安を与えて、はっとさせようとしているんでしょうか。

現代音楽はもちろん、クラシック自体も聞く人が少なくなっているようです。

聞く人は減っていないんですが、聞きに出かける人が減っているという。

私は、好きでBBC3クラッシックチャンネルのインターネットラジオをよく聞くんですが。

生産のエスカレーション

クラッシックを聞かないのは、官能性がないからでしょうね。

なくはないんですが、ショパンの別れの曲とか、ベートーベンの悲愴とか。

足らないんですよね。今の人々には。

ポテトチップスやハンバーガーばかり食っている方に、だしのうまみを感じろ、と言ってもわかるわけないじゃないですか。

テレビばかり見ている方に、小津安二郎の映画は見ていられないでしょう。

新聞やWEBで情報ばかり求めている方には、内田百閒の文章には何も感じないでしょう。

それと同じですよ。

普段、官能性の強い曲や歌詞にさらされている方がクラシックを聴いたところで退屈を感じるしかしないでしょう。

しかも、コンサートホールに据え付けられた椅子に座ったまま、かしこまったまま、聞いていなくちゃならない。

マニア以外は、つらいでしょ。

人は、「クラッシック音楽を聴きに行く」というより、経験を求めに行きたいわけですよ。

「好きな演奏家の音楽を聴きに行く」という経験をしたいんです。

当然、そこに「誰と行く」と言う経験も合わさってきます。

エンターテイメントを求めているんですよ。

芸術だろうが、テーマパークだろうが、「俺がボスだ」的な消費者は、同じレベルで扱って、自分の気分をよくしようとするものを優先的に選びます。

お金を使うわけですから。

お金こそが、労働者や年金生活者にとっては、最大の自由を発揮できる行為なんですよ。

今や、こどもさえ、同じでしょう。というか、むしろこどものころから大人と同じ消費活動をしているわけですよ。脳の形成期に。

そのお金を使うにあたって、自分に官能を与えてくれるものを呼び起こすものを求める。

これは、ホモ・サピエンスの脳からしたら、当たり前のことなんですよ。

快楽を与えてくれるものが、自分の存在、と言うより、存続に有利だったからなんですよ。

自分の存続に有利なものに快楽を感じるようにホモ・サピエンスの脳はできています。

もちろん、打ち克ってこその人間ということも無きにしも非ずですが。

音楽の発生

現代美術は、批評という仕事があるからいいんですよ。

人の心をはっとさせる、という仕事がね。

それは純文学と同じです。

ただ、現代音楽は何をしたいのか。

したいことは当然、あるんでしょうが、視覚表現じゃない分、解説が難しいんですよ。

ふつうのクラシック音楽って、解説がなくても聞けるじゃないですか。解説はあるにしろ。

聞きに行かないのは、聞くときの構造の問題で、音楽の問題じゃないとは思います。

私が好きだから、バイアスがかかっているんでしょうか。

音楽は、古いものです。

ことばとどっちが古いんでしょうか。

まあ、言葉の方が古いと思いますが、文字や文法よりは、音楽の方がはるかに古い。何万年も古いはずです。

狩猟からホモ・サピエンスが帰って来た時に、悦びのあまり、動物の骨だの木だのを使って、リズムを取りだすんですよ。

喋っていくうちに体がのっていく、みたいな。

なんなら、坐りながら、地面をたたいて、拍子をとったに違いない。

で、まわりのかみさんや、こどもたちもつられて、リズムをとったり、踊ったり、歌ったりした。

音楽の発生は、これですよ。感情の昂ぶりのあまり、じっとしていられなくなった。

日常をノリで越えてゆく

人間にとっての音楽は、感情を昂(たか)ぶらせる。感情を昂ぶらせたい。昂ぶらせて、のっていきたい。ノリで日常を乗り越えるみたいな。

音楽は、ノリですよね。

ノリたいから、わざわざ出かける。

日常のノリが気に入らないから、音楽を用いて、日常から、別の場にトリップするわけですよ。

ドーパミンに誘導されて、コンサートに行くんでしょう。

阿波踊りありますよね。

阿波の躍りですから、今の徳島県あたりの踊りです。

「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ、踊る阿呆(あほう)に見る阿呆」ですか。これを江戸では「馬鹿踊り」と呼んでいました。

憑(と)りついているとしか思えなかったんでしょう。

私も、高円寺や初台で見たことがありますが、トランス状態です。

みなさん、入り込んでいます。

日常ではないですよね。

あの踊り方は。非日常をかましています。

日常から、非日常へ。

音楽と踊りを用いて入り込むわけですよ。真夏の夜に。

あの踊りはなんなのか、と言う話ですが、当然、楽器には太鼓と鉦(しょう)がある以上、鎮魂舞踏であることは間違いがない。

しかし、それが「馬鹿踊り」になってゆくにつれ、そうした本質は忘れられてゆきます。

しかし、またしかしですが、どうも真夏の夜に太鼓や鉦に合わせて踊りたくなる。踊らずにはすまない。

その感覚だけは、消え去らない。

そこで、鎮魂舞踏はより激しさを増し、奇抜な踊りになっていったわけです。

ま、それだけハードに踊らなければ、あの辺の霊を鎮めるのは、難しかったのかもしれません。

でも、あれが、ホモ・サピエンスの古い脳ですよ。

たまには、踊らないといけないんですよ。リズムに合わせて、夜に。

若者だけじゃありません。

クラシック音楽はメインカルチャー

クラッシック音楽は、宮廷音楽ですからね。もともと。

違うんですよ。サブカルチャーじゃないんですよ。

教会で民衆が歌っていたにしろ、場が教会ですから。メインです。

で、サントリーホールでもオペラシティコンサートホールでも、凸版ホールでも、その貴族がしていた音楽を聞くという経験を模倣しているわけです。

本来、あの場は、皆で歌うべき場であるはずが、お客さん、たいていは民衆ですからね。それが、場は民集用で、コンテンツが貴族なんですよ。

貴族は音楽を聴いて踊るか、ご飯を食べるか、お休み前のひとときを楽しんでいたか。

ですからね。

現代、音楽堂で踊りの時はまねしていない。あとは、食事のときや、寝る時ですよね。

食事はしませんね。演奏中に。

あとは、寝る時に聞いていた形式が残る。

じゃあ、眠くなりますね。

眠気を我慢して、貴族と違って自由ではない。

それで、第一楽章の終わった途端に、咳をするわけですよ。

ああ、自由だと。


楽章と楽章の間くらいでしょう、観客に与えられて自由は。咳をする自由が。

自由になりたい。解放したい。狩猟や農業の労働から解放された、今、自分のリミッターを解除したい。時間も動きもあるものか。

と言う感じで音楽があって、踊りがある。

クラッシック音楽だって、宮廷の舞踏の時に流していたわけですよ。

じっとしていられないわけですよ。もともとの音楽性が。

音楽は同じで、形式を変えてしまったから、ホモ・サピエンスの脳がついていかないんですよ。

オーケストラの形式

宮廷で音楽を奏でていたのは、少人数だとして、オーケストラはなんなのかと言えば、あれは、演劇や祭典の際の効果音だったはずです。

電気がない時代の音の大きさは、数で勝負です。

それが、演劇や国家行事で用いられた。

両方とも、祭儀の形式を利用しています。

ほんまもんの供犠を用いた祭儀から、形式だけ残して演劇や国家行事に移行してゆくわけです。

移行じゃないですね。利用されていくわけです。

祭儀だけじゃすまなくなりますから。回数から言って。

人間の生活が複雑になり、寿命が延びるにつれて、難しくなります。

より刺激性の強いものを求め、回数も必要になってゆくんですよ。

こどもと違って、その辺の物で勝手に遊びを作り出したりしませんから。

実験しなくなるんですよ。大人は。

試みなくなりますね。失敗した時に引き返す力が弱まってゆきますからね。

答が分かっているものしかしようとしません。

快楽原則に従うだけ、ドーパミンに従うだけです。

自分の頭で答が分かっていることしかしようとしない。

作曲家の発生

音楽は、祭儀や演劇や舞踏、まあ、舞踏も祭儀の一種なんですが、そういったものとセットでした。

もちろん、個人的に演奏はされていましたよ。楽器がある以上は。

ただ、公式の場で音楽が独立して演奏されたのは、ルネサンス以降だと思います。

「作曲家」という職業ができて以降の話のはずです。

自分の感覚を音楽によって表現したい。他の物事の効果を上げるためではなく、音楽そのものの表現を追求したい、と、考え始めた人間がいて、成立したものです。

だから、「作曲家」はクラッシック音楽にしかいないんですよ。

今は違いますよ。昔の話です。

私は、ピアノが強力だと思いますね。その前のオルガンも含めて。ピアノがあって、作曲家が生まれたんじゃないかとさえも思っています。

そうして、作曲家が発生したならば、どんどん音楽性を追求してゆくわけですよ。楽器も改良してゆくわけですよ。

頭に浮かんだ表現をどうにかして、現実に降ろさなければならない。芸術家ですね。

オーケストラが先にあって、作曲家が生まれたというより、作曲家がオーケストラを作り、拡大発展させて行ったんですよ。

箱としての音楽堂

箱の問題が出てきます。

王侯貴族は自分の家で演奏させればいいんですが、民衆は聞けない。あい変らず祭りや酒場で素朴な音楽を聴いていた。

19世紀に入って、初めは、倉庫を用いて、ようやく音楽堂という箱ができて、王侯貴族の音楽が降りてきたんですね。

音楽堂はなんですかね。舞台があって、客席がある。音響は効果的にしているんでしょうが、あの構造は、祭典を行う場ですね。

他には何もない。プロテスタントの教会か、倉庫のようです。

音楽堂は、プロテスタントの教会の形を模倣して作られたものかもしれません。

民衆が聞く場は、教会だったわけですからね。

て、ことは、みんなで歌ったらいいんじゃないでしょうか。

教会は、讃美歌を唄う場でもあったわけです。

美しい音楽に合わせて自然とイエスの受難や神への賛美が口に出る。

歌は、自然と口から出るものですよ。こらえきれなくなった感情の迸(ほとばし)りですよ。

商業音楽は、それを代弁するわけです。

今、スマートフォンで文字を入力すると、検索候補が、どんと出てきますよね。

そこから、自分が入力したかった単語を選ぶ。

快楽を求めている

人間は便利なものを求めますよ。

何に便利か。

自分の感情を便利によくしてくれるものですよ。

貨幣制度が長年使われてきたのは、経済を発展させるだの、公正性をもたらせるだのではなくて、便利だからですよ。快楽に便利だからですよ。

クラッシック音楽、特に現代音楽を聴きに行かないのは、ドーパミンが出ないから。その音楽に官能性がないのと、場に行っても快感を得られにくいからです。

もちろん、恋人がクラッシック好きなら喜んで行くでしょう。トーパミンが出ますからね。

ホルストの惑星シリーズ。

最も聞かれているのは、「木星」ですが、副題は「快楽をもたらす者」ですからね。

クラッシック音楽の演奏される場をひろげてみる

森の中でも夜の高層ビルでも、そういう所でやったらいいんじゃないかと思います。

日曜の昼間ではなく、金曜とか土曜の夜とか、そういう、現代人がもっとも解放的になり、官能的になり、明日の事を考えない時間に。

交響楽団は、現代には少し重い気がしますが、その荘厳さを生かせる場でのパフォーマンスのしようはあるんじゃないでしょうか。

日本でやるなら、神社か寺でしょうね。マニアの方は音響を気にするでしょうが。

場の問題ですよ。

もともと、公式の音楽は、聖なる場、聖なる時に奏でられていたはずですからね。

禅寺の枯山水を眺めながら、月光とかじゃなくて、あえて、ショパンの幻想即興曲を聞いてもいいですし、ファリャの「スペインの庭の夜」を聞きながら、明治神宮の鳥居をくぐってみたいですよね。そこはクロスさせるわけです。バッハやヘンデルじゃなくて。

やってみたいですよね!

とても官能的です。

場と相まって、別世界にトランスしてしまいそうです。

でも、どうせなら、ボブ・ディランのOne More Cup of Coffeeを聞きながら玉砂利とか歩いてみたいよね。冬に。

このように、需要はあるんですよ。ごく個人的な需要かもしれませんが。

要は、編集しだい、組み合わせ次第ですよ。

烏もざわめくくらいの事をしたらいいんですよ。

森に隠れる楽団みたいな。

「いい音を聞きたい」という需要の他の需要があるわけです。

クラッシック音楽を聞かないのは、目新しさがないからですよ。

消費者は、目新しさを求めていますから。

感動の大部分は、目新しさでしょう。

感動させるために作られたものは、繰り返しにたえられない。

年月にたえられないんですよ。

私は、音楽は静かに聞きたい。静かな気分になりたい。

今の音楽堂は、静かに聞けるわけではない。前後左右に他人がいたら、静かに聞けません。

ある程度混んでいる電車で、誰もしゃべっていなくても、リラックスできないのと同じです。

じっとしているというのが、人間には無理なんです。

ほら、映画館で、ポケモンとか、子供たち皆で歌いだすじゃないですか。

あれが、ホモ・サピエンスですよ。

テキストの問題

もう一つ。

テキストの問題です。

音楽にテキストが関係してくるのか。

現代人、この現代人と言うのは、マスメディアを通して情報をえるようになってからの人びとの事ですが、現代人は、情報を求める癖がついています。

情報を求めるのは、人間、ホモ・なんちゃらの時代からそうなんですが、テキスト、文字情報を求めるんですよ。

雑誌を見る。

写真やイラストが目にはいる。

次にテキストを探します。

判断がつかないんですよ。写真やイラストだけでは。

映像も同じです。

映像が出る。

見る人は、次にテキストを探します。

文字でも、俳優のセリフでも。

見たものの解釈を求めているんですよ。

解釈付のデータが情報なんですよ。

ところが、クラッシック音楽には、テキストがない。

キャプションのない写真、映像を思い浮かべられない物語は何だかわからないんですよ。

クラッシック音楽は、文体だけで読ませる小説のようなものなんですよ。

文章好きの人は喜んで好むでしょうが、物語を聞かせてもらえると思っている人々には何だかわからないんですよ。

「次はどうなるのかな」と思って、ページをめくる人々は文体を味わうようなことはしないんです。

クラッシックの演奏会場で、開始前に、パンフレットの解説を読んでいますね。手持無沙汰もあるんでしょうが、意味を、情報を欲しているんですよ。

ホモ・サピエンスの習性です。

しかし、そこにあるのは、解説であって、テキストではありません。

クラッシックにテキストはない。

これが、クラッシック音楽が聞かれない最も大きな理由だと思います。

効率を、こどもの頃から教えすぎたんですよ。

意味が無いものは、無駄だと。必要がないと。

スマートフォンでも情報を求めるわけですよ。

スマートフォンが、日常を乱す可能性があるにもかかわらず、あれだけ広まったのは、情報を与えてくれるからですよ。手放しません。

情報を求めるようにできているんですよ。ホモ・サピエンスの脳は。

扁桃体でも壊れない限りは。

そうして、情報がないものには反応しなくなっちゃいましたね。

ただ、テキスト付の音楽は、けっこう精神的には危険なんですけどね。

感情を持っていきますから、考えさせずに。

クラッシックは森でやってみてはどうであろう。神社とか、霊地でやるとか。
現代のクラシックコンサートは、かしこまって聞き入らねばならぬ。それを解消するのが、森や広場でのコンサートだとしたら、一歩進めるのが霊地での演奏会。コンサートを祭祀にしてしまう。

むしろ、神社成立以前の古代の儀礼の感覚に立ち戻ってみる。


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