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【民俗学漫談】うなっぽ

鰻の特性

江戸の三味、と言えば、蕎麦に鮨に天ぷらですが、鰻も江戸っ子の好物でして、今回は、鰻について漫談をいたします。

鰻もまた不思議な生き物でして、鰓も鱗もある立派な魚類なんですが、なんだかぬめぬめしていて鱗(うろこ)はどこだってことですよね。

鰻の鱗なんですが、小さな鱗が皮膚の下に隠れています。

鰻というものは大変古い生き物で、だからこそ栄養があるのですけれども、古い種は鱗が細かくなっていたり、隠れていたりします。

鰻はまた回遊する生き物でして、例えば、ニホンウナギの場合、河川や湖沼などの淡水域で成長した後、川を下って海に出るのですが、マリアナ海溝まで行くのだそうです。
日本からマリアナ海溝までは、2000キロ以上もありますから、大変な距離です。
しかも、鰻はマグロなどと違って、泳ぎは得意ではなく、遅いのですが。

何でそんなとこまで行くのかと言いますと、はっきりしたことは分かっていないのですが、どうも鰻の祖先が誕生した時代、白亜紀(約1億年前)の頃、今とは地形が違っていたんですね。その時は狭い海域で暮らしていたのですが、その後の大陸移動によって海が広がった。
広がった後も、淡水で暮らして、成長後に海へ向かう、しかも深海へ向かうという習性が変わらなかったために、今でもそのような大回遊をしているようです。

そうして、マリアナ海溝で誕生し、レプトケファルスというシラスの化け物のような形になり、黒潮に乗って浮遊したまま、日本沿岸にたどりつき、シラスウナギになり、鰻になるという成長過程を経(へ)ます。

鰻は、夜行性でして、昼間は岩陰などに潜み、夜になると遊泳して小魚や甲殻類・貝類・節足動物を取って食います。

鰻は、帰巣能力が高くて、ねぐらと定めた場所から大きく離れず、数十km離れた場所に放流されてもちゃんと戻ってくるそうです。

夜行性、帰巣性の高さは、鼻がいいということが大きく作用していると思われます。

鰻は、鼻がいいんですよ。
どれくらいいいかと言いますと、犬に匹敵するほど鼻が利きます。

動物界でもトップクラスの鼻のよさですね。

鰻は魚類の中では、寿命が長く、22歳のメスが発見されています。

鰻の食文化

鰻は高タンパク、ビタミン、ミネラル共に豊富で消化も良く、日本における鰻の食用は、縄文時代の遺跡からも鰻の骨が出土しているほど古くから食用とされてきました。

日本における鰻の歴史は、人類が日本列島に住み始めたと同時に始まったと言っても過言ではありません。

日本列島が今の形に近くなるのは、2万年ほど昔なのですが、鰻はもっと前から来ていたかもしれません。

日本列島が大陸とつながっていた時代に、すでに人類も住んでいたと思われますが、武蔵野台地や千葉の方の遺跡から斧形石器が出土したことから、少なくとも、4万から3万年前くらいには旧石器人類が住み着いてたと思われます。

その旧石器人も鰻を食用としていたに違いありません。

鰻が誕生したのは1億年ほど昔、現在の赤道上にあるボルネオ島近辺でした。

そこで生まれた鰻が黒潮に乗って北上し、今の日本列島にまで来ていたわけですから、日本は地形的に、石器時代からすでに鰻の名産地だったんですね。

天然鰻ですよ。

鰻は、河川や沼など、漁をしやすい所に棲息(せいそく)していますし、昼間、鰻は物陰に隠れる習性がありますから、夕方に仕掛けをしておけば、朝には、鰻が入っているという寸法です。

文献に最初に出てくるのは、万葉集ですかね。
例の有名な歌です。
いずれも、大伴家持(おおとものやかもち)によるものです。

石麻呂(いはまろ)に われ物(もの)申(まを)す
夏痩(やせ)に良(よ)しといふ物そ 鰻(むなぎ)取り食(め)せ 
巻十六 3853番歌

痩(や)す痩(や)すも 生(い)けらばあらむを はたやはた
鰻(むなぎ)を取ると 川に流るな
巻十六 3854番歌

親友の石麻呂君に、夏バテに効くから、鰻を召し上がってはどうか。
と言っているわけです。
次のは、痩せているから、鰻を取ろうとして、川の流れに流されるなよ。
ということです。

というわけでして、奈良時代には、すでに、鰻を夏バテ予防に食べるという習慣があったことを示しています。

16世紀後半の『包丁聞書(ほうちょうききがき)』という料理の解説書に「宇治丸といふはうなぎのすし也」とあります。
宇治丸というのは、京都の宇治川で捕れた鰻のことをそう呼んでいたものです。
江戸っ子が鰻のことを江戸前と呼んでいたのと通ずるものがありますね。

すしは、握りずしではなく、熟鮨(なれずし)でして、塩漬けにした魚介類と飯などを発酵させて、自然の酸味で食べるものです。

蒲焼は室町時代辺りに成立した料理法ですが、塩焼きでしたし、まだ、現在のような開いたものではありませんでした。

蒲焼という名の由来は、鰻をぶつ切りにして、串に刺して焼く。
それが蒲の穂に似ていたからなんですね。
蒲の穂は見た目、きりたんぽみたいなものですよ。

今で言う、ファストフードですから、値段も蕎麦と変わりはありませんでした。

昨今、蕎麦も高くなりましたが。
30年前は、昔は立ち食いではない蕎麦屋でも、もりは400円だったのですが。

大もりが500円でしたか。

鰻が今のような蒲焼として食べられるようになったのは、江戸の初期に、今の濃口醤油が作られるようになってからですね。

関東の東部は、塩と穀物という醤油の生産に適していましたし、また利根川水運の発達により、江戸の都市部にも運搬がしやすくなっていました。

そこで、それまでの醤油よりも安価な濃口醤油の生産が始まり、またみりんの生産も増大し、それらを以て蒲焼のたれが開発されまして、江戸っ子がこれに食いついたわけですよ。

『浄る理町繁花の図』』歌川広重 1852年 (嘉永5年)

真ん中の団、左に、鰻屋が『瀬田前 かばやき』と看板を出しています。
瀬田前といのは、琵琶湖の南端の瀬田でしょうか。

春情妓談水揚帳 歌川国貞 天保7年(1836年)

現在のような形の蒲焼になったのは、上方、江戸とも享保年間(1716-1736年)とされています。

次の絵では、店先で鰻をさばいていますね。
右の方に『御ぞんじ 山くじら』と出していますが、山くじらとは猪のことです。
江戸自体、冬になると鰻はほとんど取れなくなりますから、鰻を取る漁師も冬になると、猪や鹿、または鴨など冬でも水辺にいるような鳥を捕って鰻屋に売っていました。
この絵が刷られたのは、ちょうど11月、鰻の漁獲量が減り、そろそろ鴨や猪の肉屋に変貌する時期の店の様子が描かれています。

歌川国芳『御ぞんじ 山くじら かばやき』天保2年(1831年)

蒲焼は、江戸っ子に大いに歓迎されたようでして、江戸湾の干拓に伴い、鰻が良く取れ、鰻のことを『江戸前』と呼んだり、『鰻屋でせかすのは野暮』ですとか、『蒲焼が出てくるまでは新香で酒を飲む』などと、鰻にまつわる格言じみたものさえ出回りました。

次の絵巻物にも、『江戸前 蒲焼き』と書いてありますね。

真ん中のは酒屋で左の紺の暖簾が鰻屋です。
表に出した看板に『江戸まへ かばやき』、『江戸前 大蒲焼』と書いてあります。
おかみさんがお客さんに、うちの鰻は江戸前であることを宣伝しています。

鍬形蕙斎 職人盡繪詞(しょくにんづくしえことば) 第3軸 19世紀初頭

江戸時代の後期の国学者、斎藤 彦麿(さいとう ひこまろ)の『傍廂(かたびさし)』という随筆などによりますと、蒲焼というものも、竹輪と同様に、鰻の口から尾まで串を通して、塩焼きにして食べていたとありますね。

それが今は、背開きにして、竹串を差して焼くようになったから、蒲の穂とは似ても似つかぬようになった、元の意味は失ったけれども、かえって『味は無双の美味となれり』と、最上級で褒めており、なかでも江戸前鰻を賞賛しています。

歌川国芳「春の虹蜺(こうげい)」

虹蜺と言うのは、虹のことです。古くは竜の一種と考えられ、雄を虹、雌を蜺と言い習わしたことによります。
鰻を食べていたら、春の虹がかかったという、そういう風情のある絵です。

守貞謾稿(もりさだまんこう)という、江戸時代後期の三都(京都・大阪・江戸)の風俗、事物を説明した一種の百科事典にも、鰻の項目があります。

守貞謾稿より 鰻の項

古くは、鰻を筒状に輪切りして、串にさして焼いたから、その形が蒲の穂に似ているから、蒲焼となったとありますね。

また、この時代から、すでに鰻の蒲焼には、山椒がつけられていたようです。

江戸では、蒲焼き一皿200文だったそうです。
1文15円として3千円くらいでしょうか。

守貞謾稿の著者、喜田川守貞(きたがわ もりさだ)という人は絵心もあったようで、図版も描いています。

鰻を運ぶ際には、桶に紙を挟んで運んだ

鰻丼のことを、京阪、京都大阪では、『まぶし』と言い、江戸では『どんぶり』と言っていました。

もともと蒲焼は、飯屋、当時の飯屋は酒も出しまして、居酒屋みたいなものだったのですが、そこで酒のさかなとして出されていましたが、蒲焼に『つけめし』と言って、鰻定食のようなものが出されるようになりました。

鰻をご飯の上に乗せるようになったのは、江戸も後期に入ってからのようです。

一説によると、蒲焼は出前もされていたのですが、特に芝居小屋に持っていく場合、途中で冷めてしまう。
そこで考えて、ご飯の間に挟んで出前したところ、これが評判となり、鰻丼が世に出るようになったのでした。

この、ご飯に、たれのしみ込んだ味があってこその鰻丼ですから。
今に至るまで、このスタイルが続くわけです。

天保の飢饉(1844年)に、天保通宝一枚で売り出したらしいですが、だいたい千円ですかね。
鰻丼は、蕎麦の10倍程度の値段だったそうです。

鰻丼から鰻重になったのは、重箱に入れた方がものがよさそうに見えるため、ということです。

パッケージだけの違いです。

江戸では、鰻丼のことを『どんぶり』と呼んでいた。
今は丼物と言えば様々ありますが、丼物の始まりは、鰻丼だったようです。

天丼とどちらが早いかという感じで、ほとんど同時期だと思いますが、天丼の発祥が、1831(天保2)年創業の『橋善』という飯屋だった説がありまして鰻丼が天保期にすでに売り出されていたことを考えますと、鰻丼の方が少しばかり早かったのではないでしょうか。

天丼が、文化文政期に出来上がっていたという説もありますが、当時は未だまかない飯に過ぎなかったという話もあります。

私としましては、鰻丼が最初という説を推しますが、ほぼ同時期に出来上がっていたものと思われます。

おそらく日本最古の鰻丼の図

鰻飯は、100文から200文、文久の頃からの諸物価の高騰により、おおよそ200文になったともあります。

丼鉢に『熱飯』を洩り、その上に小鰻を六、七置く、とあります。

鰻飯には、必ず、杉の引裂箸(割りばし)を用いて、再利用せず、ということでして、飯屋で初めて割りばしを用いたのが鰻飯の為だったということになります。

鰻は当時、脂が多い食べ物でしたから、通常の箸ですと、脂が取れなかったんですね。当時は今のような合成洗剤もありませんから。

土用の丑の日

普段、鰻を食べない人でも、土用の丑の日には、召し上がるのではないでしょうか。

当たり前のように、土用の丑の日に鰻を食べる習慣が根付いていますが、元々、夏バテのために鰻を食べる習慣があったものが、どうして、土用の丑の日に集約されてしまったのでしょうか。

始まったのは、安永・天明の頃(1772年 - 1788年)らしいですね。

一説によると、平賀源内が、鰻屋に頼まれて、『本日丑の日』と店先に張り出したところ、繁盛したということとなっています。

元々、土用の丑の日には、『う』のつく食べ物、瓜、うどん、梅干などを食べる習慣がありまして、『良く考えたら鰻も『う』がつくじゃないか』ということで、乗じたのでしょうか。

丁度その頃に、鰻丼も考案されたでしょうから、うまさと相まって広まったものと思われます。

鰻を頼むと、箸休めに奈良漬を出す店がありますが、あれは瓜ですので、『う』が付きますね。

『土用』というのはですね、暦の上での季節の変わり目に設けられた期間のことで、約18日間、まれに19日間あります。

中国から伝わった五行思想によれば、この世の万物は木火土金水の5種類の元素からなるということでありまして、季節においても、春に木気、夏に火気、秋に金気、冬に水気を割り当てました。

季節は四つで五行は五つですから、一個余ります。

余った『土』を季節の変わり目に当てまして、『土用』と呼びならわすようになりました。

四季がありますよね。
その四季は、暦の上では、四立(立春、立夏、立秋、立冬)から始まるのですが、その直前の18日間が土用です。

春が立つ、夏が立つ、秋が立つ、冬が立つ、立つは、スタートということです。

丑の日というものは、昔は、十二支に基づいて、今日は、子の日ですとか、寅の日、とか呼んでいまして、丑の日もその一つです。

十二支に基づくものですから、12種類ある。
土用は18日間くらいですから、二度あることもあるんですね。

土用は、季節の変わり目の時期のことですから、年に4回あります。
一般的には、土用と言えば夏の土用を指しますね。

土用波は、夏の終わりころ発生する大波のことです。

次の絵は歌川国芳の猫の当て字という面白い絵です。
猫で、『うなぎ』の字を作っています。
『な』は、昔の変体仮名で『奈』を崩したものです。

歌川国芳『猫の当字 うなぎ』

もう一枚、国芳です。
国芳という人は、錦絵の数だけでも、5300枚以上に及びまして、江戸後期の風俗画を探すと、大抵なんでも描いているんじゃないかというくらい、国芳画が、あります。
愉快な絵です。

歌川国芳 『金魚づくし そさのおのみこと』

こちらは北斎漫画ですね。

北斎漫画十二編内 釣の名人 鰻登り 文化11年(1814年)

物価の高騰を揶揄(やゆ)しているのでしょうか。

鰻の信仰

鰻は、蛇に似た姿、謎の生態からか、信仰の対象ともなっています。

三嶋大社

静岡県の三島大社では、鰻を神使いとし、明治初期までは氏子は鰻を食べなかったそうです。

仏教では、鰻を虚空蔵菩薩の使いとしています。

神社においても、鰻を神使いとしている神社もあります。

こちらの、平柳星宮神社では、かつて虚空菩薩を祀っていたことから、今でも鰻を神使いとして祀る信仰が残っています。

おみくじも鰻ですね。

こちらの『なでうなぎ』を撫でて、御利益を得るそうです。

京都にある三嶋神社は小さなお社なのですが、やはり鰻を神使いとしています。
絵馬にも鰻が描かれているようです。

三嶋神社では、春秋の放生会に鰻を池に放流することで鰻の供養とする祭りを執り行っています。

鰻そのものを祀った神社はなさそうなのですが、大分の由布院に、鎮座する宇奈岐日女神社(うなぎひめじんじゃ)という神社があります。

もともと『うなぎ』は、『うなぐ』であって、『うなぐ』とは、勾玉などの首飾りを指し、そのような呪具を身につけた女首長の巫女が神に転じたものとされています。

また、現在の由布院一帯が木綿(ゆふ)と呼ばれていたことから、かつては木綿の栽培地であり、ウナギヒメは綿花の栽培を司る神様として祀られていたのではないかという説もあります。

また、現在の由布院盆地がかつては湖であったとされる説もありますが、考古学的には否定されているようです。

湖だった場合に、鰻が精霊として信仰されていて、木綿の神様でもある由布岳の神様と習合して現在につながったという説もあります。

一度、参拝してみたいものです。温泉も。

今回は、鰻についての漫談でした。





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