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2018年卒業制作/パッケージされた地面

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パッケージされた地面

どうして自分の周りを抑圧して、痛々しく力任せに変形させているのだろうか。
いつもと同じ地面を歩いているはずなのに、歩くとかかとが痛いことに旅にでたら気がついた。美しく、歴史情緒ある街だと思って思っていたのに、何日も前の食べかけのおにぎりがコンクリートの上に落ちていた。
もっと”地面”を近くに感じた方がいいと思う。例えば、そこを覆わなければ存在していたはずの植物を見つめてみた。

1400×1400×350mm
アクリル板、土、映像 


学生時代に作り手として意識していたことは、
アートとは、みた時に何かがわかるものではない。
作り手が何かをパッと伝えるものでもない。
なんだかよくわからないそこにあるものを、何かとわかろうとする人たちがいてくれて、その心に波紋を起こすかもしれないくらいのものがちょうどいいと思っていました。

実際に何を作ったの?と聞かれてもあまり答えたくなかったし、自分でも伝えられない気がして喋りませんでした。
今思えばかなり無理やりなものだったし規模も小さかったので、なんだかなぁという感じです。ですが、学生時代の中で一番作るのは最高に楽しかったです。
何をやらかすのかを近すぎず、遠すぎない距離で見守っていただいた教授には感謝してもしきれないです。

現在の話 デザインとアートの狭間で


卒業制作を通して考えたことが少し今の自分につながっているなぁと思います。今の世の中に溢れているサービスは、なるべくストレスのないように、頭で考える時間を減らすようなものばかりですが、それに少し逆らうように。

グラフィックアニメーションを作っている時に、
音声を聞いただけだと頭の中で想像しきれない場面をグラフィックにすることで少しヒント、力添えをする気持ちで書いています。
決して何も考えずに観るだけでは済ませない、考えるを手助けするだけ。

UIデザインを作っている時は、
単純にストレスなく使えるだけではなく、
自分で意思決定している自覚を持って、操作できるように一緒に並走するデザインをする。

考えるのは誰でもないあなた自身で、それは自由意志だ。そんな思いを大切に今も仕事をしています。

その見守っていただいた教授からメールで総評として届きました。

野田さんは、アートというものに常に懐疑的で、そのスタンスを私はとても羨ましく思いました。
それはアート表現の拡張にも繋がるからです。デザイン系のサークルの影響は計りしれませんが、
双方関わりを持ったことも、とても意識の成長に拍車をかけました。
卒業制作は、その集大成が形となり、動機の達成度がとてもよく伝わってきました。
私とは何か、共同体、歴史、制度、自然環境から離れられない自分、それらを考えるきっかけとなった移動と歩行(歩くこと)。
二次元、三次元にも張り巡らされたレイヤーの一つ、自分の足で感じる表面と表裏のレイヤー感覚。
面白いのは、視覚でない触覚というべき感覚を研ぎ澄ませたレイヤーであることです。
私は掛け値無しに素晴らしいと感じたし、刺激を受けました。
絵画や彫刻といった静止した時間に対して、野田さんの選んだ素材は全てが動的な素材です。
おそらくその素材は、実感として素直に自分の感性にリンクしたものなのでしょう。
アートは装飾品ではなく、感性と直結した知的ジャンルであり、とても真摯な活動のルーティンで、
大きくいうと人間とは何かを問い続ける結果のない工程です。
明晰で手先がとても器用(これが意外でした)で、現代のアーティストの素養を持っていると思いますよ。
直接的、間接的どちらでも構わないので、ずっとアートに関わっていてください。
会場に設置してみての感想として、スケール感がもう少し欲しい!!



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