【ライブ・レビュー】アンダーグラウンド・シーンの現場から⑫ 「若手の即興演奏と東京に住む者の精神の虚弱化について」  遠藤ふみ (ピアノ)、阿部真武 (エレクトリック・ベース)、沼尾翔子 (ヴォーカル)、sasakure. (ライヴ・ペインティング)

2023年9月30日 (土)
遠藤ふみ (ピアノ)
阿部真武 (エレクトリック・ベース)
沼尾翔子 (ヴォーカル)
sasakure. (ライヴ・ペインティング)
水道橋「Ftarri」

部分的に声のかすれるようなウィスパーやスキャット的なつぶやき、朗読などもあり、曲ごとではなくワンステージ一つながりに構成してあったが、基本的には歌の伴奏。ピアノ、ベースの精度や音の粒はそれなりにしっかりしている。同世代のサックス奏者などと比べて技術は身に着けている。彼らはリリカルな演奏も得意だが、抽象表現から逸してそこに入り込んでしまうと、本当に単なる「きれい」な演奏になってしまう。ある種のECMのピアノ物みたいな。でも本当に人の心を打つようなバラード演奏ができるかというと、大いに疑問だ。音に厳しさが足らず、単なるムード・ミュージックになってしまうのではないか。

とにかくボーカルが淡彩で、弱すぎる。「ひかりのうま」や「試聴室」で何人かの若い女性歌手を見てきたが、みんなこういう歌い方をする。のどや腹を使わず、おちょぼ口でささやくような手法。アンニュイというほど毒があるのでもないし、表現内容と向き合ってないから言葉が全然生きてこない。逆に雰囲気に逃げられない朗読が一番よかった。絵は、普通にうまい。画家の基本的なテクニックを見ることができた。作品は、歌の淡さと似通った世界ですね。グラデーションを付けた影絵みたいな、かすれ切った一瞬のファンタジー。絵本の挿絵にはなるが、自立したタブローたり得ているかは疑問。

このライブは歌手の力を引き出すわけでもなく、エモーショナルなものを解体するわけでもない。コンセプトがあいまいだ。過去に現れたピアノと声の共演でアブストラクトと「歌」を行き来するような表現、たとえばパティ・ウォーターズとバートン・グリーン、シーン・リーとラン・ブレイクのデュオとか、スティーブ・レイシーとアイリーン・アエービのシャンソンとか、日本だと工藤冬里と工藤礼子がいるが、そういうものとは関係がない。カヒミ・カリイとか、まあそっちかな・・。よくないですね。

この歌手を共演者に選んだあたりからして、これが彼らの表現の基底にある「抒情の質」だとすると、そこには未来を切り開いていくという意志の力が感じられず、諦念に流される姿勢が目立つ。こういうものを喜んでいる人たちが多くいるという現状は、東京に住む者の精神の虚弱化、衰退に他ならないのではないだろうか・・? 「抒情の反動性に気をつけろ」ということは昔、音楽評論家の平岡正明がさだまさしを例に挙げて口を酸っぱくして言っていたし、平岡と対立していたと思われる間章もそこは同じだったと思う。まあ、アヴァンギャルドな文化に関わる人間の最低限のマナーみたいなものだよね。

音数を絞るという手法は、あらゆる騒音に囲まれた東京の劣悪な住環境では一服の清涼剤として意義があるだろうし、過激なノイズ・ミュージックが無料で聴きまくれるインターネット環境に対しても一つの問題提起にはなる。しかし、耳の膨満感・消化不良みたいな現象は、集中して聴く態度を忘れたリスナーの側の責任なのであって、「過剰に音を浪費するフリージャズはもう古い」などということではまったくない。一流のプレイヤーならかすかな一つの音にも確固とした存在感を宿らせることができるが、それは目くるめく轟音の中で悪戦苦闘する経験を経てこそのものだと思う。精神論めくが、音楽に「焼き」が入っているかどうかの差だ。即興演奏の世界で若手がこのライブのように安易な路線を歩んでいることは懸念材料だ。


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