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ちょっとだけ遅刻するやつはダメだね

以前、ある経営者との会話で出た至言。

「3分遅刻するやつとか、会議に遅れて顔を出すとか、待ち合わせに5分遅刻する奴いるでしょ。あれはダメだね」

その時はなるほどねって膝を打ったのだけれども、いつの間にか自分がその「ダメな奴」になっていたことに気づいた。

自分や相手に甘いから?
嫌われたいから?
だらしなく何も考えていないから?
そういう何かの病気とか?

相手を責めるよりも、まずは自分の中の原因を探ってみよう。

私の場合は仕事の時間は守るタイプだと思う。
だが、プライベートでは結構なザル。

と言うことは、相手によって時間に対する価値観を変えていると言うことか。

五十過ぎてそんな思いに至る不甲斐なさは一旦横に置く。

大学での講義中、数は少ないが遅刻はある。少し遅れる。

講師によっては最初に「10分までは遅刻、それ以降は欠席とみなす」とルールを伝える場合もある。私の講義は実習があるので準備の係や着替えなどで若干ゆるい。

それでも遅刻の学生には指導指摘する。

するとこんな一言が返ってきた。

「それでも出席したので褒めてください」

なるほどね。
したことを叱るのではなく、しなかったことを褒める、というやつか。

人のフリ見てというやつで、ならば自分がそっちにいかないように気をつければいい。

ならばここでいう問題はなんだろうか?

他人に迷惑をかけるな?
時間厳守は社会人の最低限のマナー?

ならば沖縄時間と呼ばれる時間を笑顔で認める価値観は?
日本人が時間に厳しすぎるだけ?

私たちにとって時間は「有限」であって「コスト」だ。
誰かに会う1時間、ご飯を食べる30分、ウォーキングする1時間、仕事で費やす8時間。全ては有限であって負担すべき何かだ。

2024年のアカデミー賞の視覚効果賞を日本の「ゴジラ-1,0」が受賞した。
映画館で観たが、最高の作品であった。期間は8ヶ月、VFXの予算が15億円、スタッフ35人で最高の結果を出したとニュースでは喜ぶ。
温故知新と温故創新の心意気、白組の技術、優秀なスタッフ、山﨑監督のマネジメントなど報道で知るが、これも時間=コストの最適化の賜物だった。35人の給料がいくらなのかは知らないが、結果として最高のものであってほしい。

「彼は時間を潰しているだけだ。彼には生きた時間がない。つまり彼は生きているとは言えないからである」とは黒澤明「生きる」で冒頭の主人公を説明するナレーション。一度はやる気があった主人公が、忙しさの中ですり減らしてしまった。

人が一度すり減らしてしまった心持ちの中での時間は味気ないが、すり減らす前の時間は特別なのだ。何もすることがない時間は心が死んでいく。贅沢な時間などと言ってられるのも半年くらいか。それほど生きた時間は有限でありがたいもの。

ちょっとだけ遅れる、そんな時期の人がいることを我々は知る方が幸せだ。
その人の怠惰であろうが特徴であろうが、いつかは理解することがあるかもしれないし、そうでない場合も多かろう。死ぬまで治らない場合もあるし。

どうせいつかは死ぬんだから、そんな人のほうが死ぬ時もちょっと遅れるかもしれない。そんな時に時間厳守原理主義の人は初めて草葉の陰で「ちょっと遅れるくらいが良かったかもしれんな」と思うのかもしれん。

東京03の秀逸なツッコミでこの話題を終わる。

「ちょうどよくやれよ」





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