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ひとりは好きだが孤独は嫌い

血液型はABだが性格診断みたいなのはどうでもいい。

休みの日には家から一歩も出ないこともあるが、顔は日に焼けている。

読書は好きだが、仕事関係や小説、漫画を何冊も同時に読むので時間の消費。

アマプラで映画も、何度も観たことのある作品をナガラで視聴する。

ノスタルジーに堕すのも嫌いではないがイけてないのも理解している。

若い頃も良かったが、現在の方がもっと良い。

誰かとの出会いと別れ

先日15:30からの打ち合わせの際、声がかすれてうまく声がでなかったが、朝から誰とも会話をしていないからだ。電話は苦手。

また、朝から講義や打ち合わせや会議が詰まっていると、夕方寝込むほどに疲れる。

ゆっくり一人の食事も好きだが、誰かと一緒の食事も好きだ。

友達の数というものに全く無頓着だったが、誰もいないと寂しい。

試しに最近使っていなかったfacebookの友達の数を見た。

781人だった。

一週間ほどかけて79人に減らした。

削除の基準は「現在も使っているか」「連絡するかしないか」「だれ?」「他のSNSなどで繋がってる」など。

残せた人たちへの基準は「繋がっていたい」というもの。
そんな人が79人もいたことに喜びと恐怖があった。
私は誰かに依存して生きている。

削除するか否かで特に迷ったのは「亡くなった人」。

お互い生きてさえいれば、facebookを削除しても、縁があれば再度繋がれる。

だが、亡くなった方とは二度と繋がることはできない

その方々(5名)のアカウントを見た。

どこかの市議会議員が「お誕生日おめでとうございます・・・」などの定型分で毎年その方の誕生日にメッセージが送られている。

かと思えば

「お元気ですか?もう一度会いたいです」と亡くなったことを知って尚、メッセージを送られている方もある。

そして私は
ありがとうございました、と心で呟き削除した。

一人だけ「三回忌まで待とう」と思った方がある。
理由を考えてみた。

「あー、私はこの人にもう一度会いたいと思ってるのか」

そんなことをいろいろ考える作業も必要な時期が来る。
その時期が今の私の今、だったのだろう。

誰かの記憶の中での「私の寿命」を想像した。

野田?誰だっけ?という人もいる。
あー、いたね、知り合いだよっていう人もいる。
最近どーしてるんだろうねと思い出してくれる人もいる。
メシ行こうぜと連絡をくれる人もいる。

10年ほど前、あるプロジェクトの成功のために一年間で名刺を1000枚配ったことがあった。1,000枚の名刺も集まった。それをぼんやり眺めてみた。

”2/5 Tさん紹介@どこそこ”と書いているがさっぱり記憶にない。
なんならTさんも覚えていない。
資源も時間も交友関係も無駄だったのかもしれない。
たった10年ではその判断は難しいのかもしれない。
名刺は捨てられなかった。

だがそれでも

生きていればまた会える。会いたいならば会いにいけばいい。

私は誰かに会いたい。相手がそう思っていないとしても。

「あいつに会いたいな」と思ってもらえるような経験体験に
これからの時間を使っていきたい。

一人の時間は好きだけれども、単なる娯楽や休息でなく、それを自分の経験体験知識見識、人としての成長のために使う。

そのくらいのワガママはお許し願いたい。





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