無職になる

 退職まで、残り1ヶ月を切った。公立学校の養護教諭として勤務した7年間が終わる。

 社会人になって、無職になるのはこれが初めてではない。1度目の無職期間は、23歳の頃の1ヶ月。新卒で入社した服の会社でショップスタッフとして勤務していたが、仕事が合わなくて入社してから11ヶ月で辞めた。2月末に退社して、4月から高校で臨時の職員として働くまでの1ヶ月間、無職を経験した。

 あの頃の自分が抱えていた不安は、今でもありありと思い出せる。

 大学で教育実習を経験し、自分は学校の先生にはなれないだろうと思って始めた就職活動。のっぺりとした黒のリクルートスーツを着て、髪を1つに束ねて必死に就職活動をしたが思ったような結果が得られず、なんとか入社した会社が服の会社だった。数年間働けばショップスタッフからオフィス勤務になると言われていた。だから、数年後には「ふつうの会社員」になれるんだ、と考えていたが、そこまで我慢できなかった。薄給で休みが少なく、商品が山積みになった薄暗い6畳ほどのスタッフルームの中で昼食を食べるのに嫌気がした。パソコンの前で音がしないように、匂いが出るからと冷えたままで食べる昼食は、味がしなかった。数年後のオフィス勤務のことなんて、どうでもよかった。就活をせっかく頑張ったのに、と思ったけれど、過去の自分の頑張りも、どうでもよかった。

 民間の会社に転職するという手もあっただろうが、当時の私はぼんやりと、やっぱり自分は保健室の先生に向いているのかなぁなんて思っていた。子どもが好きだったし、教育実習で「学校の先生になれないだろう」と思ったのは、職員室で飛び交っていた教員の会話が不快だったというのが理由だった。「あいつがこんなこと言ってた」「またあれとあれが喧嘩した」。子どもについて交わされる言葉に愛情が伴っていないのが不思議でならなかった。だけど、それに目をつぶれば、保健室で子どもと接する時間や、仕事をする時間は、けっこう好きだった。だから、養護教諭として働くことに決めた。

 退職することを職場の人に伝えたら、大抵の人が応援してくれた。会社の社長は女性で、私にビールの美味しさを教えてくれた人だった。愛情深くて、いつも目を見て話をしてくれた人だった。だからその人に辞めると伝えるときは、ちょっと胸が痛んだ。

 ショップスタッフとして一緒に働いていた2〜3歳年上の人に退職の話をしたら、ちょっと馬鹿にしたように口の端で笑いながら、「学校の方が合っているよ」と言われた。今思い出すだけでもふつふつと怒りが沸いてくる。私は粘着質なところがある。別に恨んだり憎んだりはしないが、忘れねえからな!と思っている。ばーかばーか。

 2月末に退職してからの1ヶ月間は、自由を手に入れたかと思いきや不安との戦いだった。4月から決まっていた学校での仕事は常勤ではなく週2日の非常勤で、育児のため短時間勤務をしている人の補充だった。だから仕事が決まったと言っても、アルバイトに毛が生えたようなものだった。いつになったら常勤の仕事が来るのか、そもそも採用試験に合格しないと、とものすごい焦りの中にいた。だって周りを見渡せば友達は会社で働いていて、「同期」ってやつと仲良く旅行に行ったり酒を飲んだりしていて、そんな中で自分は無職だ。今思うと何も心配することはないよと若い自分のもとに飛んでいって抱きしめたくなるが、当時の私は暗闇の中にいるような気持ちで、休みの間は実家の自室で布団に潜って塞ぎ込んでいた。何度も言うが、何も心配することはなかったのだ。だって私、男女グループで仲良くしたり、大人数で旅行に行ったりするのがそもそも苦手なのだ。でもそれに気がつくのは数年後のこと。当時はまだまだ若くて、そういうキラキラとしたものに憧れていたのだ。

 そんなどん底の気持ちの中、大学時代のサークルのメンバーとの飲み会に行った。人数は10人くらいで、男女混ざったグループだ。当時私はそのうちの1人と付き合っていて、だから断るのも気が引けて、その飲み会に参加することにした。

 飲み会中、仕事の話になった時にどう言葉を発していいか分からず、ずっと黙って話を聞いていた。雰囲気を壊さないよう、口角を上げてにこにことしていたつもりだ。

 会話の流れで私の話になったとき、ある一人の男が私を見て、「お前無職じゃん!」と笑いながら言った。無職という言葉に異常なほど敏感になっていた私は、その言葉を聞いて一瞬息ができなくなり、次の瞬間には号泣していた。そうしてその飲み会を飛び出した。泣きながら駅まで歩いていたら、後ろから彼氏が追いかけてきた。

 なんだこの安っぽいドラマのような展開は。私は悲劇のヒロインにでもなったつもりか。今思い返しても、ゲロが出そうだ。自分の振る舞いが死にそうなほど恥ずかしく、脳内から抹消したい記憶である。

 無職だと笑って言った彼も、私が泣いたのを見て驚いた顔をしていた。おそらく冗談を言ったつもりだろうが、当の私は全く冗談に思えなかった。笑って受け流すことは、できなかった。

 非常勤で1年間働いた翌年、常勤の仕事が見つかって2年間同じ学校で働いた。この仕事を始めて3年目で採用試験に合格し、4年目から正規職員として働いた。採用試験に合格したのは、飲み会のときに追いかけてきた人と別れた翌年だった。

 合計7年間、勤めた仕事が今月で終わる。自分で終わらせると決めたから、終わる。いろんなことがあったけれど、出会った子どもはみな可愛かった。職場で一生付き合っていきたいと思える友だちができた。だからもう、全然悔いはない。

 公務員という仕事は、安定していて社会的な保証があった。福利厚生が手厚く、大きな組織に「守られている」という感覚があった。職業を尋ねられたときに、安心して答えることができた。だって学校の先生と言えば、大抵の人は納得した顔をしてくれるのだ。だけどそれは、私の一つの側面であり、すべてではなかった。大きな組織の中で、いわゆる社内政治のようなものに振り回され、自分の意思で言葉を発することができないという経験を何度もした。組織で生きていくということの意味を知った。このままだと、私のすべてが飲み込まれてしまいそうだった。だから、離れることにした。もっと意志が強ければ、芯が通っていれば、飲み込まれずに済んだのだろうか。

 でも、違う世界も見てみたくなったのだ。まだ30歳だ。先はうんと長いけれど、自分を見失って仕事をするには、人生は短すぎる。

 今、「お前無職じゃん!」と言われたら、「無職だよ!」とピースサインを作って答えるだろう。

 あの若かった23歳の私は、自分の人生は自分で選び、自分で作っていくものだという感覚がなかった。誰かのせいにしたくて、人と比べて嫉妬していた。だから無職という言葉で号泣して飲み会を飛び出したのだろう。彼の放った言葉は確かにデリカシーがなかったが、自分の自信の無さがあの悲劇のヒロイン的展開を産んでしまったのも事実である。

 自分で、自分のことを信用してあげたかった。少しはできるように、なっただろうか。

 学校で務めるようになってからは、大好きだった春がいちばん苦手な季節だった。異動してきた職員の名前を覚え、大量の健康診断に忙殺され、息つく間もなく、桜を恨めしそうに眺めている自分がいた。

 いま、春が来るのが待ちどおしい。素っ裸の、何者でもない自分で、春の風を浴びたい。春になるとよく聞く「ピカピカの1年生」とか、「まあたらしいランドセル」とか、そんな言葉が似合う無垢な人間ではなくなってしまった。
 けれど、着古された自分のからだで、自分だけのからだで、春の風を浴びる。それだけのことが、いま、とても楽しみだ。

この記事が参加している募集

仕事について話そう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?