Fランク大学に進学した者の現在について

皆さんこんにちは。
のどかです。今回のブログでは、自分の過去を振り返りつつ、「Fランク大学」に進学した現在を書いていこうと思います。身バレ防止のため、ところどころフェイクも入れて書きますが、どうぞお付き合いください。

1.「中学受験」という選択肢
小学5年の頃、人生を変える出来事がありました。しかし、今思えば後悔と大きな過ちの始まりだったのです。
小学5年の暮れに、母親に「中学受験」の道はどうかという提案をされました。当時の自分は、公立小学校に通う普通の男子小学生でした。ただ、漢字の記憶や国語の読解力には相当自信があり、漢字テストの点数掲示があって、90-100点の児童は廊下に名前が貼り出されていました。自分は毎回96点は取れていて、○○君(自分)のテストは良い出来だという事を言われて育ちました。他の教科も多少自信があったので、中学受験のルートに進むことにしました。

6年になって、中学受験を目指す塾に入りました。
ちなみに、現在自分の通っていた塾は潰れて無くなっていました。あの地を何度踏んだか分かりませんが、テナント募集の紙が貼ってあるのは時代の流れを感じます。
週に3回程度、放課後の時間を使って最初は個別指導を受けていました。塾の先生曰く、中学受験をする子供は早い人だと小学3-4年からスタートしていて、君の場合は早めの完成が肝になる… みたいな事を言われました。確か国語、算数、社会、理科、英語がありましたが、当時の自分は既に算数でつまづいていました。小数や分数の理解が明らかに出来ていませんでした。思えば足し算引き算の繰り上がりのところですら疑問を抱いており、個別指導は苦手な算数をみっちりやりました。今では内容をほぼ忘れていますが、「つるかめ算」とかいう独特の計算があったことは何となく覚えています。塾は夜の11時頃まで居たこともありました。

6年の夏には、集団クラスに入れられました。
といっても小学校のクラスのそれより全然小規模で、全部で6人だった気がします。学校のそれよりは全然少ない人数で、自分含めた男子3人・あとは女子3人でした。多分、ずっと前から受験指導を受けていたのだろうという人たちでした。ちなみにこの夏はほぼ毎日のように塾に通っていて、合宿もありました。塾は1駅隣にあったので、さほど遠くはありませんでしたが近い分だけもう帰りたい、こんな事をする意味はあるのだろうかと考えるようになりました。リュックには膨大な量の教科書が入っており、いつしか物理的な重さが心理的な重さにも繋がっていました。
冬は、冬期講習がぎっしりでした。次第に小学校の友達とも疎遠になり、塾に通いつつ小学校にも通うつまらない日々が続きました。今考えると、小学生の少年にあの選択は重すぎました。
年始には2校の私立中学を受けることになりました。結論から言うと、1校目は受かりました。自宅から自転車で15分ほどの学校で、家からは近かったのですが公立中学とは学区が違いました。高校・中学併設型です。2校目は電車で1時間ほどで、補欠合格でした。ここの学校は本当にレベルが高く、補欠でも受かったのが不思議なくらいでした。大学・高校・中学併設型です。ともあれ、私立中学に進むことになりました。

2.進学校の中学生活
自分が進学した中学校は、高校は歴史があるものの、中学を作ったのはつい最近という学校でした。そのため設備も真新しく、自宅からも近く、良いところばかりでした。しかし、受験までの1年間こってり勉強をしたという事で、それに満足したせいか、入学してから勉強の意欲を完全に失ってしまいました。自宅が近く・登校は自転車で10分程度というアドバンテージを以てしても自習室にはほとんど行かず、ペンを持っても、やる気も出ないまま時間は過ぎてゆきました。1年のころ、一学年60人のテストで当初は35位でした。次第に順位は下がり、3年には50位台を記録し校内の模試でも散々な結果でしたが、もはや悔しさも何の感情も湧きませんでした。学校では最難関国立大、いわゆる東大などの旧帝国大や早慶などの上位私立大を目指そうと進路指導も中学から活発でした。しかし自分は、どこも受かれる自信も精神力も学力もありませんでした。その予感は実際当たっていましたし、補講やゼミもとにかく鬱陶しく思っていました。

3.高校生活
中3で、内部進学をするか外部進学をするかという選択肢を突き付けられました。中学受験までわざわざしたという事で、内部進学を脳死で選びましたが、この選択は今でも合っていたのだろうかと思うことがあります。高校にはコースが3つあり、1が国立コース(内部進学者は確定的にここに入れられる予定でした)・2が上位私立コース・3が部活動優先コースのような位置付けでした。自分は1に付いていくことは難しいと、交渉して2に行きましたが、ここでも勉強は難しく、中学の頃にビリ近くまで落ちていた成績が本当にビリになってしまったのでした。更には数学と英語と理科を中心に赤点を連発してしまい、高1の秋ごろには「このままでは、進級は難しい」とまで言われてしまいました。この頃から、月曜には胃腸の不調があったり、吐き気や教室に入ることの難しさも出てきました。合計15日ほど休んだのですが、後にも先にも高1秋ほど荒んでいた時期はありませんでした。結局赤点を6教科抱え、追試を受け無事(無事?)2年に進学する事が出来ました。しかし、コースは3に移動する事になりました。3年の卒業まで3コースにいましたが、もうここまで来るとプライドも上位大学への進学も完全に無くなってしまい、屍のように日々を過ごしていました。
 幸いだったのは、2年から3コースに移動したことにより新たな世界が見えるようになったことでした。上位大への進学がどうのこうのと言った話はほぼされず、部活動に熱心なクラスメイトがたくさんいて、彼ら彼女らのまぶしい姿を見て、交流して多少は精神の安定が得られたように思えました。

この成績不振の間に、部活動も完全にサボっていたので除名もされています。中1から高1の文化祭頃までやっていたのですが、退部手続きも手が回りませんでした。先輩からの呼び出しも無視していましたし、完全にクズです。言い訳のしようもありません、

4.大学進学
さて、本題の大学進学ですが、結論から言うと大学は1つしか受けませんでした。それもほとんど無名の小規模な大学で、大学入学共通テスト(旧センター試験と呼ばれるものでしたが、自分らは共通テストの一期生でした)も応募はしたものの受けませんでした。
自分が入試方法で選んだのは、AO入試でした。学力がない自分は、一般入試では到底試験をパスできないと判断し、AOで受かったらそこに進学しようという算段でした。高3の担任は面接練習をしっかりしてくれて、AOも一発で受かったので10月には進路が確定しました。当然学友はこれからの一般入試に備えて猛勉強です。その姿を見て、中学の頃の最難関大を目指そうという記憶が脳裏をよぎりましたが、もう自分はその領域に踏み入れてはいけないと言い聞かせていました。
余談ではありますが、高2の2月ごろからコロナウイルスが流行り始め、3年では全行事が無くなりました。体育祭が無かったのは正直うれしかったですが、文化祭が無かったのは少し残念でしたね。

5.現在
進学した大学の偏差値は、私立文系で35-37。いわゆるFランクで間違いないと思います。せめてもう1ランク上の場所に進学しておけと言われたものの、それすらもやる気が出ませんでした。中学受験までして、10年間も私立学校に通って、この体たらくなのは本当にまずいと感じました。大学1年はフルリモートで、2.3年は対面に戻りました。現在は3年で、就職を控えていますが、就活も気が重いです。せめて、良いところに就職したいのですがどうなることか分かりません。
親からは、大学のレベルをうんと下げたんだから特待生を取って当然だろうと言われますが、もう無理です。単位は何とか取れていて、2年終了時に88単位でした。

さて、ここまで長々と書き連ねました。小学校で多少漢字と国語が出来た人間が、無理して中学受験をして、高校の頃は全く勉強をせず、Fランク大に進学した現在がこうです。自業自得だろうと思うでしょう。どこで選択を間違えたのか皆目見当もつきませんが、こうなる運命だったと思うようにし、自戒する日々です。
自分の事はもうどうでもいいのですが、せめて、これからFランク大への大学進学をする方、今一度考えてほしいです。就職などに響く可能性があります。

総括ですが、自分が思うに、大学がFランクだから…という言い訳をしています。多分、本質はそこではありません。別にFランク大だからと言って、しっかりやる事をやっている人もいますし、ここから巻き返しも出来るはずです。
しかし、ESを書く時も、授業を受ける時も、ボランティア活動をする時も、バイトをする時も、何かが胸に引っかかっているような気がします。こうしてブログに書き出しをしている時点で、何かしらの鬱憤を吐き出しているように感じます。どうもまとまりのない文章になりましたが、このような人間もいるんだと感じてもらえれば幸いです。

次回のブログ内容は未定ですが、もう少し明るい話題にしたいです。ありがとうございました。

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