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玉手箱を受け取っている

おつかいに沢山行ってる。

肉が安いスーパーが少し遠いのと、祖母がこのご時世むやみに外に出るのもアレなので外に行かないといけない用事は大体私が代わってやっている。

昨日も犬の薬を取りに行くための病院と、郵便局と、少し遠いスーパーに行った。
晴れていたけど、冬はそれでも寒いから、フリースを羽織る。
服は部屋では着古したトレーナーか、大好きなコウイチTVのパーカーを着ている。下はジャージ。外に出る時だけジーンズに着替える。
山形でも私はおしゃれじゃないので、こんな格好をしている。まあトレーナーってことはあんまないけど、コンビニバイトくらいならそんな感じで行く。

外に出たら、思ったより暖かかった。桜も全部葉桜となっていた。
病院まで500メートルくらいか、歩いてたら
「いや、今日あっついじゃん」って思った。
「あーもっと今日は薄着で来たらよかったなあ」
と思った。

今日も振り込みがあったので出かけた。同じようにいつものフリースを羽織った。
今日は曇ってるので絶対寒いよねって思った。
全然暑かった。
川に亀いた。

てか、もう冬じゃないじゃん。春すら終わろうとしてることに気がついた。
4月も実は下旬。だけど私はいまだに山形に帰ることができず実家東京にいる。2月20日からここにいる。学校ははじまらず、ずっと同じ生活をもう2か月くらいしている。
今日は薄着、じゃなくて、今日も薄着でいいんだわ。

例年この時期の、「いつもの恰好」は、三月終わりくらいから更新された春服で構成されるのに、2月20日に山形から一緒に来た服たちでいまだに過ごしている。もこもこのコートではないけど、コロナが流行ってなくて、山形で生活してたら、たぶん今この服は着てないと思う。

春には春らしい服が、おしゃれじゃない私にも一応ある。
けど今年は春服を買おうと思うタイミングすらなかったし、必要とも思わなかった。私は今日もすごく濃い暗い色の割と厚めのものを身に着けて、
「今日外暑い」と思った。厚いのは私。
急に恥ずかしくなったので、買い物の途中だったのに、いったん戻って春に羽織るものを羽織った。

でも周りの人も、そんなに春らしい格好をしてるわけでもなかった。
みんなもう春すら終わろうとしていることに気が付いていないかもしれない。

桜が咲くころいつも寒かったりもするからという可能性もあるけど、案外季節は社会で感じているのかもしれないと思った。季節をより敏感に感じているのは社会かもしれない。

いつもなら、例えば学校で、おしゃれな女の子たちが軽いかわいいコートを羽織り始める。そしたら私も、いつまでも暗い色のものじゃなくて、ベージュとかましなものにする。
集団に溶け込んだ時に、「あ、わたしだけ分厚いの着てる、恥ずかしい」
みたいなものがある。ので、衣替える。
あとファッションにはトレンドみたいなものがあるので、結構無理しても、周りが春になることがある。「さきどり」みたいな概念。
いや、それはまだ寒いでしょ?暑いでしょ?みたいな瞬間がある。
気温とかじゃなく、時期っていうか、4月という名前に踊らされたファッションみたいなものがある。11月とかもそうだけど。

温度や洋服を選択する必要性は社会に属さないと外に出ないので、いらないなあと思う。それに生活がこうも変わらないと、桜が散ろうと何だろうと、本当の意味で春が終わることを理解できなかったんだなと思った。

季節なんて生活の中にあるもので、日常がない今、そもそもあったものがないんだから、そこに含まれていた春は感受できないから当然だな。
新学期も春、身体測定も春、桜を見たら、おきまりのように「春だなあ、綺麗だなあ」と思っているようで、思わないといけないテンプレみたいなところがあるので本当はそこまで思ってないかも。桜だけじゃ春は足りない。

季節は自然なものなのに、その自然を感受してやっていた様々な人工的なものが私たちの春の概念を作っていて、結果的にそれ自体も春だった。

突然コロナが収束したら、玉手箱みたいな感じになると思う。
そうならないためにも、とりあえず衣替えをしよう。
たぶんもっと忘れてることあるけど、とりあえず春が終わることを思い出せた。
玉手箱も面白いし珍しいからいいけど。
これが今後も珍事であるならなんでもいい。








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