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【心機一体】パタンジャリのヨーガ・スートラ

COBRAの2023年7月24日の記事「Planetary Situation Update and Kyoto Ascension Conference Report」で紹介された記事「Clif’s Yoga Sutras - Part 1」を翻訳しました。
※翻訳がお気に召しましたら、記事下部からサポートをお願い致します。

”4世紀後半のアルコン侵攻の際、闇の勢力は宇宙の闇が浄化されるのを防ぐため、その知識の痕跡をすべて消そうとしました。彼らがアレクサンドリア図書館を焼き払い、グノーシス主義やマニ教のテキストを破壊したのはこのためです。インドでは、この時代はグプタ王朝の時代でアルコンの侵略の手が届かなかったため、多くの重要な古代インドの文献が存続できました。”

元記事

by CLIF HIGH
2023/07/23

世の中に、「ヨガ」と名前がついている本ならいくらでもあるし、どんどん新しいのが出版されている。ヨガの起源は古く、大昔にサンスクリット語で書かれたのもある。ヨーガ学派の経典『ヨーガ・スートラ』といえば、編纂者のパタンジャリのことが思い浮かぶが、そのうちの『パタンジャリのヨーガ』という一冊の本に、古今東西のどのヨーガの本とも違う、不思議なことが書かれているのだ。

というのは、他の経典のように呼吸法やアーサナなどの身体操作法について、一言も書かれていないのである。『パタンジャリのヨーガ』と書かれているのに、現代人が連想するようなヨガ技術集では全くないのだ。どちらかというと、旧約聖書(トーラー)に近いと私は思う。ユダヤ教の教本なのに、旧約聖書には「神」という言葉は一度も出てこない。語られるのは、「エロヒム」と呼ばれる宇宙人が人間社会を侵略する様だけだ。旧約聖書では、その宇宙人の侵略者からどうやって人間が生き延びてきたかが語られている。

『パタンジャリのヨーガ』が旧約聖書と似ているのは、宇宙人の先進技術について語られている点だけでなく、「心と機械(体)」の関係性についてが語られているところだと、私は考える。

これこそ本当のヨーガ、つまり「融合」の本なのだと思う。1800年代になってようやく西洋にもたらされたヨーガの技術と実践法。しかし、そこから学んできた現代の我々のヨガへの理解には、大きな欠点がある。まず、ヨガは単なる健康法ではない。実際にはこれは、超古代の知識体系の名残りなのである。

一応、旧約聖書と同じく、『パタンジャリのヨガ』のスートラもヨーガ行者に認知されている。だが、ユダヤ人の多分99%が旧約聖書を完読したことがないのと同じく、世のヨガ・インストラクターたちのほぼ全員が、パタンジャリのヨーガを未読だと思われる。9割以上のユダヤ人がヘブライ語を読めないのと同じく、ヨガ行者のほとんどがサンスクリット語を読めないので、その正しい文脈を訳せないからだ。

ただし『パタンジャリのヨーガ経典』の翻訳は探せばいくらでもある。大体が、パタンジャリが収集したとされる195のスートラ(格言)をサンスクリット語から訳したものだ。著者たちは往々にして、スートラが何を意味しているのかという「解説」に力を入れている。だが、解説を読んだだけでは真の悟りを得られないのも、また事実。それに、旧約聖書では「ユダヤ教」や「キリスト教」などの「宗教」という言葉が出てこないように、元々の原典には「ヨーガ」という言葉が出てこない。つまりは、現代人のセンスで訳しても理解できるかというのは、甚だ疑問なのである。

率直に言おう。旧約聖書は宇宙人の征服者たちと人間との関わりを記した書物である。そして私が思うに、このヨーガスートラもまた、古代人が書いた異星文明のテクノロジーを人間に対して使用した場合の、いわば指南書なのである。だからそのまま読んだだけでは意味がわからないし、宗教家から見たら如何様にも都合よく解釈されてしまう、誤解まみれの作品になってしまうのである。

『パタンジャリのヨガ』を自分たちの流派の始祖として祀りあげるヨガ行者は多い。パタンジャリを理解しているかしていないかに関わらず、である。

そこで研究がされた。「このヨーガ・スートラは、パタンジャリが一人で書いたのか?」答えは「NO」である。パタンジャリは、これらの教えを収集し、伝達した人物であり、彼本人が書き残したものではないと明らかになったのだ。また、その人物は「パタンジャリ」として知られる名前の人物ではなかった可能性が非常に高い。「パタンジャリの」とついているのに、この人物が関わっていないというのは、「パタンジャリの」を直訳すると「パタン地方出身の誉高い人」という意味になるのだ。

伝説的人物であるパタンジャリ。何千年も昔に書かれた書物や原典を収集し、解説をしていた偉大な人として知られている。現代のように古代の文書が抹消されるようになった5,000年も昔のことだ。古さは問題ではない。大事なのは、それら古代文書に残る「旧時代の智慧の名残」だ。

とまあ、ヨーガ行者でも実際に読んだ人は少ないこの『パタンジャリのヨガ』であるが、実は私は53年前から所持している。当時も高価だったが、この上なく興味を惹かれた20世紀の私はこれをなんとかして手に入れて、読んでみた。その時私を襲ったのは、まず「落胆」だった。「究極のヨガ本」と謳われたこの本、「ヨガ」という言葉が一個も出てこない。これはもう、ヨガの本じゃない。解説が頭に入らなかったくらい、とにかく失望したのを覚えている。だがよくよく読んでみると、とても重要なことが書かれていることがわかる。「完成」という言葉が頭をよぎった。悟りの感覚は、理解できないものなのかもしれないが、それに近づいたような感覚を味わったのだ。人間という生き物にとって、非常に意義深い教えが書かれている。昔の人はそれを知っていた。だからこそ、この書物は慎重に取り扱われて、今の時代にまで保存されてきたのだろう、きっと。

教えが世代を経て伝わっていく中で、大きな誤解が生まれていった。まず、これは現代人が心で形式化した「ヨーガ」とは別物である。これは、人間の心そのものを描いているのだ。さらには、過12,000年の間に、地球人の文明を侵略してきた異世界からの征服者たちが使っている「知能と機械」の関係性、「マインド・トゥ・マシン・インターフェース技術」について書かれた指南書なのである。

翻訳という作業は、正確に行えば著者の実際の意図を理解できる。私はChatGPTを用いて原語のサンスクリット語を逐語訳することで、現代的な訳との違いを見つけていくことにした。それに私の解説を加えて紹介していこうと思う。。

パタンジャリのヨガスートラ 1.1

पतञ्जलि योगसूत्राणि १ १:

अथ योगानुशासनम्॥१॥

अथ(アタ) - 今すぐ

योगानुशासनम्(ヨーガヌシャーナム) - ヨーガの教え


これを今風に訳すなら「今、ヨガの教え」である。

AIは基本的に単語やフレーズの「人気度」を基準に翻訳を行う。そのため、全体の文脈の優位性を前後させる「任意翻訳」は困難となる。ChatGPTでは現代人の「ヨガ」に対する認識がどうしても優先されてしまい、これでは経典の翻訳に向いていないと判断せざるを得ない。

このスートラひとつ見ても、AIに修正命令を送り続けてもこの有様である。例えば、「今」と訳されている「अथ」という単語は、この文脈では「重要」と訳すべきなのだ。「योगानुशासनम्」という単語は「ヨガの教え」ではなくて、「融合の教え」と訳すべきだ。以上を踏まえ、経典1.1は以下の新訳となる。

「融合のための重要指示」


パタンジャリのヨガスートラ 1.2

पतञ्जलि योगसूत्राणि १.२

योगश्चित्तवृत्तिनिरोधः॥२॥

योगः(ヨーガハ) - ヨーガ

चित्त (チッタ) - 意識または心-物質

वृत्ति(ヴリッティ) - 修正または変動

निरो (ニロダ) - 抑制または制御

したがって機械翻訳すると
「ヨーガとは意識の変化を抑制することである」となる

いよいよ本筋だ。おそらくはヨガの本質である、体術や宗教的実践についてを語り始めているのだろう。これ以降は「ヨガ」ときたら「融合」と理解して構わないだろう。何と結合するのかというと、簡潔に述べるのなら、自分の「知性」を異星人の「技術」と合わせるということだ。そう見ると、全体の意味合いが大きく変わる。例えば「チッタ」の正体を単に「意識」と訳すのではなく、もっと奥行きあるものと捉えることができる。

チッタには非常に洗練された意味がある。それは、一連の精神(心)状態の「帰結」するところであり、それに対応する「身体(脳)」との状態についても言及されるのである。思考、感情、知覚、記憶、印象など、「精神」を総合的に表す言葉なのだ。さらには「チッタ」とは、微細・霊的な物質のことをも表す。つまり、人間の精神活動が発生するための媒体のことなのだ。そのため、単に意識や物質と訳すのでは足らず、精神全体性の最終性というべき言葉である。

「チッタ」には超自然的な意味合いを付与されることが往々にしてある。しかし、思考プロセスにおける「最終的な(能動的な)段階」と訳されることは極めて少ないのではないだろうか。「心機一体」という文脈でいくと、この 「能動的」という要素は非常に重要になってくる。

「ヴリティ」は通常、「ゆらぎ」や「乱れ」と訳される。しかし、実はそれは後付けなのだ。本来の意味は古代の天文学にまで遡ることができ、正しくは、空間における物体の「正確な位置」を指す。元々は「軌道」「軌道面」または「軌道内の特定の位置」を意味する言葉として使われていたのだ。

古代の数学でも「ヴリティ」は円周または円の周囲に関連する文脈で使用されていた。三角法においては、角速度や角度の時間変化率を指す。時空間の中での「座標・位置」を表すのにも使われる。よって、「時間的シーケンス」や「時間的配置」という文脈でも「ヴリティ」が使われている。

最後に「ニロダ」だが、通常は「制御」を意味する言葉として認識される。しかし、ただ受け身になって抑制するか、「能動的に」制御するのかで、大きく意味が異なってくる。手に入る限りの資料を見比べてみると、やはりこの言葉は「能動的」というニュアンスを持っていることが判った。活発な力、動的なエネルギーを「抑制」するということだ。ここまで理解した翻訳者の中には、「ニロダ」という言葉を「死あるいは損失」と関連付け、それにまつわる情念をコントロールできるようになると考える者もいる。以上を踏まえ、新訳は次のようになる。

「融合とは、正確な位置に達するために心を操縦することである」

直訳しただけでは本来の意味は損なわれてしまう。真の翻訳とは、それぞれの言葉の持つ真意にまで意識を拡げ、慎重に今の言葉に直すことである。

私はこのように訳す。「融合する間、知性を上手く制御できれば、もっと先の先にまで行けるようになる」

パタンジャリのヨガ・スートラ1.3

पतञ्जलि योगसूत्राणि १.३

तदा द्रष्टुः स्वरूपेऽवस्थानम्॥३॥

तदा (タダ) - それから

द्रष्टुः (ドラスタ) - 見者の

स्वरूपेऽवस्थानम्(スヴァルペ アヴァタナム) - 本性に留まる

直訳すると、「そして、見者はその本性に留まる」

単に「そして」と訳されている「タダ」は、実は天文学や数学でも使われる学術語であり、「時間関数」を表している。よく誤解されるような「タイムトラベル」的なSF要素も無いし、スピリチュアルな意味合いでもなく、先述した「ヴリティ」に言及した意味になっていると考えられる。すなわち、「時空間」という言葉を使って、自分たちが今いる場所ではない「どこか遠くの世界」を表していると考えられるのだ。現代人の考える時間とは、過去と現在と未来が一本の線の上に続いているような「時間軸」的な考えだが、ここではそうはならない。これを記した古代人は、時間というものを一時的な、あくまで物理的な「刹那の顕れ」と捉えていた。

「ドラスタ」は「dṛś (दृश्)」という語源があり、これは「見る」「知覚する」の意味がある。よってこれまでも、「ドラスタ」は自分自身が外側で経験していること、思考、感情、感覚を静かに目撃する「内なる観察者」であると主張した者もいる。

哲学的な文脈で言うと「超越自我」や「本当の自分」と言い表せる。普段の自分が感じている、外的状況に応じて揺らぐ心を、ひたすら観察している超越意識のことである。無常とは切り離されて常住する自分の存在の本質である。この世は全て「自分の体」という名の「外界と内界を統合するための機械」が示している変化の連続である。

ここまでを踏まえると、「ドラスタ」をそのまま「見る」と訳すのはもったいない。自分の中にある見る目、心の目を持つ「視る者」「目撃者」まで認識を伸ばさなければ。この理解は記事の最後の部分で重要になってくるので、覚えておいていただきたい。

「स्वरूपेऽवस्थानम्」(スヴァルペ アヴァタナム)はこう訳すべきである。

「スヴァ」(स्व)- 自分の

「ルペ」(रूपे)-形、性質

「アヴァタナム」(अवस्थानम्)- 留まる、住む

言葉の持つ深みを感じながら訳すと、
「自分の体の形が(生活している)空間」と翻訳ができる。

よって経典1.3は次のように訳される。
「静寂の観測者の肉体は、知覚された場所に、時の移りゆきと共に在る」

「心機一体」の考えで読む限り、『パタンジャリの融合指南書』は非常に理にかなっている。これ以上の追加説明も、解説も必要ない完成度なのだ。現代の解説書はどれも、自分の信念や主張を押し通すことを優先してしまっている。

この本は明らかに「人体という名の機械」の操作方法が書かれた説明書である。まるで数世紀ぶりに隠しDOSコマンドが発見されたかのようだ。古代には人間の心の操縦法が確立されていて、数世紀の間にその技術が失われ、しかしその間も説明書は保存されていて、現代になってようやく発見されたマニュアルが現代人の宗教的、スピリチュアル教義に侵されているような感じだ。現代人はどうしてもこれを宗教という枠組みで捉えてしまいがちだが、人体は元々テクノロジーで解釈できる代物である。

「パタンジャリのヨガ」は全部で195のスートラで成り立ち、後になっていくほど複雑さを増していく。したがって私の見せたような手法で訳していったら非常に時間がかかる。後半はもっと言葉の意味や概念が拡張していく傾向にあるわけだから。それは現代のマニュアル本も同じではあるが。要するに私が言いたいのは、現代の発展したAI翻訳ソフトを使っても、現代の技術書それ自体を模倣し続けるだけの無限ループにハマっているだけなのであり、真の経典の理解には決して至ることはできないであろう、ということだ。

一応、私はこれからも翻訳を試みるであろうが、待っているだけよりも実際に自分自身で書物や関連資料を手に入れて、自分で調べてみていただきたい。必要な情報はなんでもインターネット上で手に入るはず。どうしてもChatGPTを使いたかったら止めはしないが、「チャット」GPTよりも自分の「チッタ」の導きに従った方がいいかもしれない。

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