こだわりを持てない私。こだわりを持っておもしろさを作るためにできること
こだわれない。こだわりが持てない。
おもしろいコンテンツを作る人、世に出す人には、その制作から発表の過程で、強いこだわりを発揮する人ばかりだ。おもしろさを伝えるために邪魔になるものを排除して、よりおもしろさが伝わるにはどうすればいいかを考える人が多い。
こだわりが持てない理由
任天堂の宮本さんのように、それを具体的な動き、手順、形にまで落として説明できる人は稀だが、おもしろいものを出せる人には、こだわりを持っている人ばかりだ。
私は、ほとんどこだわりがない。
自分が書いたものに対して、他の誰かが手を入れても、あまり文句を言わない。「自分の表現のほうが適当だと思うけど、ま、どっちでもいい範疇かな…」と考えることが多い。書いたものが世に出るほうが大事だと思っているから、そこに時間をかけたくないと思ってしまう。
指摘された内容について、譲れない場合は、
「この表現だと誤解する人が出てきそう」
「読んだ人が別の解釈をするかも」
「ここだけ引用されると違った解釈になってしまう」
といった、意図通りに伝わらないことについてだけだ。自分が理解している本質の部分が正しく伝わらない表現に替えられると「それはダメです」と言えるくらい。
これは、システム開発の現場にいたせいだろう。こういう使い方を許容しちゃうと、いずれこういう問題が発生しちゃう。という思考から、それを避けるための行動だ。世に出て、それ以降に問題が発生しなければよい、という思考に留まってしまっている。
こだわりがないのは、どこをどうすれば、おもしろくなるか、そもそもわかっていないんだろう。おもしろくなる要素、おもしろさの表現の追求に必要な過程を自覚していないから、そこをいじられても気づかないし、最初から自分でおもしろさを盛り込めていない。
読まれる文章に必要な要素
最近、古賀史健さんのnoteを読んだ。
発見と発明。
私もまずは、基本的なことから始めよう。おもしろかったこと、おもしろがれたことを箇条書きに留めずにしっかり書いてみよう。
感心したことを感心したと書こう。
どう感心したのか、どこに感心したのか、それが今までの発見とどう違うことに自分が興奮したのかを書こう。その発見の驚きやおもしろさを伝えるために、比喩も考えるだろう。
もう一つ、発明のほう。
今、新たな組み合わせやおもしろさの材料を自分の中に貯めて、醸成させるために「クリエイティブになるための読書」という「毎日、物語1つ、詩を1つ、論考を1つ」を行っている。
これは、千代の富士の名言から借りると、三年後に強くなる稽古のほうだ。
その繋ぎとして、摂取した詩や物語を受けて、自分でも物語を作るようにしはじめているが、本格的に活きてくるのであれば、もっと先だろう。
おもしろさとは? を追求する
そもそも立ち返らないといけないことに、おもしろさの要素、おもしろさの追及のために、自分がおもしろいと思った作品の分析をしなくちゃいけない。何がおもしろかったのか、それをどういう文章で、どういう順番で、どういう仕組みで伝えているかを整理しなきゃ。分析ということがあまり得意じゃないけれど、そうも言ってられない。おもしろいなーと思った文章や作品を深堀りしよう。
いい歌を詠むため、歌の肥やしにいたします。 「スキ」「フォロー」「サポート」時のお礼メッセージでも一部、歌を詠んでいます。