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恋人に私の写真を撮ってほしい。

写真を撮られるのは嫌い。
でも、恋人には私の写真を撮って欲しい。

🌼

「はい、撮るよー!」
その声が耳に入ると、私の頭の中にポンッと、あるメモが登場する。


『  口角は真上にあげる。
   上唇は少し内側に巻いて。
   下の歯は見せないように。
   目は、しっかりと開く。  』


私は、頭のメモに書かれた内容を丁寧に確認し、忠実に守りながら笑顔を作っていく。何度も鏡の前で練習した、自然な笑顔。

「ハイ、チーズ!」
「どう? 撮れた?」
「うん、ちゃんとキレイに写ってる!」
「よかった〜見せて見せて!」

あれだけ練習したんだ、さぞかし可愛い笑顔になってるはず。と考えながら、私は頭の中にガッキーのような愛らしい笑顔の自分を思い浮かべる。そして、ムフフとニヤけながら、先ほど撮った写真を確認する。

ところがどっこい、なんということ。確認した液晶画面には、ガッキーが見当たらない。そこにいるのは、半目だったり、ぎこちなく左右の口角がずれていたり、パンッパンに頬が盛り上がっていたりしている、残念な顔の自分である。

なーにが「キレイに写ったよ。」だ!
画質の話をしてるんじゃないやい!

写真というものは、私に容赦ない。どうしてなんだ。なにか写真に悪いことでもしたのだろうか。そんな記憶はないんだけどなぁ。

写真は事実を写し出す。
写真は決して、私の思っている通りの私を写してくれない。

だから、私は写真がすっごく嫌い!!


偽物でもなく、これっぽっちの淀みもない私を見て

恋人から貰うのは、物より手紙がいい。

プレゼントを選ぶときって、こんなの似合いそうだとか、渡したら喜んでくれるかなとか、そういうことを考えながら選ぶんだと思う。

きっと恋人は、頭の中で擬似私を作って、着せ替え人形のようにあれやこれをって手渡して、着替えさせ、リアクションさせる。

でもそれって、一見私のことを考えているように見えるけれど、正確には、その私は恋人の頭の中にいる「きっとこうなるはずの未来の私」でしかないんじゃないのかな。

「未来の私」は、私のようで私じゃない。それは、恋人が作り上げた頭の中でしか生きられない「妄想上の私」だ。今、ここで息をして、生活をしている私じゃない。


だから、物より手紙を頂戴。


須磨の海を凧揚げしながら走り回ったあとの息遣いや、「ゲーム合宿だ!」と言って、夜遅くまでゲームコントローラーを握り続けたときの手のひらの湿気とか、夜中のSAで小型のガスコンロを使って湯を沸かし、作ったコーンポタージュの味とか。

恋人には、そんな記憶の中にいる「過去の私」を手繰り寄せて、たまにクスッと笑ってほしい。「過去の私」は、妄想でできた都合の良い偽物なんかじゃない、紛れもない"私"だったものたちだ。恋人には、そんな私のカケラを愛おしそうに眺めていてほしい。

手紙を書くとき、それはきっと私のことだけを考えているとき。

手紙に思い出を連ねるとき、それは「過去の私」を見ているとき。

その時間を薄い紙の上にしたためて、私に頂戴。
内容なんて、大したことなくていいから。

もちろん、プレゼントが添えられるともっと嬉しい。
たくさんの私を考えてくれたんだって思うから。

🌼

でもね、本当に嬉しいのは、
恋人に私の写真を撮ってもらうことかもしれない。

レンズ越しに私を見るとき、一瞬の私を切り取ろうとする君の目は確実に"私"をフォーカスする。そのときだけは、なんとなくの目でなんて私を眺めてない。

過去でもなく、未来でもなく、今、ここに確かに存在する私を。

妄想や思い出による美化がされていない、生々しいリアルな私を。

限りなく不純物を取り除いた、氷のように純粋で清潔な私を。

そんな私を恋人には見ていてほしい。

🌼

だからさ、ねぇ、私を撮って。

できれば、不意打ちの写真がいい。
まがい物の笑顔をする時間を私に与えないで。

ねぇ、「今の私」をまっすぐ見てよ。

一瞬も逃さないように真剣な眼差しで私を捉えて離さないでよ。

そうやって、私を愛してほしいの

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