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戦争はお前らのポルノじゃねーんだ。

戦争が起こったら、反対する。

ただそれだけでいい。

「その戦争の意義を考える」「その戦争の真の原因を考える」「その戦争の黒幕を考える」「その戦争が自分に与える影響について考える」なんてことは必要ない。ただ、反対すればいい。シンプルでしょ?

この辺りの僕の考え方をYouTubeで喋ったところ、僕の拙い喋りを綺麗に編集してくれた人がいました。(ありがとうございます)

永六輔は昭和8年生まれ。ということは敗戦時、12歳です。ど真ん中の「戦争経験者」、しかも子供ですから厳密には「戦災経験者」ですね。我々がいまニュース動画で目にするウクライナの市民と同じ立場に彼はいたわけです。その永六輔が、「戦争なんて伝えられるもんじゃない」と言っています。おそらく「伝えることの難しさ」ではなく「伝えることの辛さ」を言っているのでしょう。

昭和49年生まれの僕の周りにも、子供の頃は、「従軍経験者」「戦災経験者」が沢山いました。そりゃそうですよね。昭和49年生まれが10歳の頃、つまり昭和58年=1983年=といえば、敗戦から38年しか経っていません。敗戦時30歳だった人は68歳、20歳だった人は58歳という年回りです。まだまだみなさん、お元気だった。僕の子供の頃を思い返しても見ても、「戦争経験や戦災経験を饒舌に語り”たがる”人」は、実際あんまり戦地や戦災地での経験がなかったりします。一方、「死ぬまで戦争を語らなかった人」は、死後に来歴を調べてみると、(当時の言葉で言うところの)南支戦線に従軍していたり、広島で被爆していたりと、想像するだに凄惨な経験をされておられる方々ばかりです。やはり実際に経験する戦争は、人をして口をつぐませるほどに、陰惨なものなのでしょう。

その戦争が、いま、我々の知るところとなりました。

いま、我々は、戦争そのものを見ています。

そして、我々が見ている戦争では、かつてのあらゆる戦争がそうであったように、「戦争なんて語れない」とまで人を追い込むであろう凄惨な出来事が起こり続けています。

そうした戦争の持つ、悲惨さ、陰惨さ、卑劣さ、醜さ、残酷さに想いを馳せて、「誰であろうと、どんな理由であろうと、どんな立場であろうと、戦争を体験させてはいけない」と、ただただシンプルに、「戦争反対」と叫ぶ必要があるのだろうと思います。

「アメリカが起こした戦争には反対しなかったくせに」
「中国の戦争にも同じことが言えんのか?」

などなど、アホリベラルとバカネトウヨが、チャチャを入れている光景が目につきますが、正直、ノイズでしかない。そしてこうした主張は、ノイズであるばかりではなく、戦争という災禍を利用し他者を攻撃し悦に入るという「惨劇のポルノ化」であって、人間として最も醜い行為だとさえ言えましょう。

いまこの、「惨劇のポルノ化」が横行しています。

日頃の反米感情をここぞとばかりに発揮しロシア擁護に走るアホリベラル。
この機に乗じて軍拡だの、核武装だの、憲法改正だなどと口走るバカネトウヨ。
「果たして、我々に戦争を反対する資格があるのだろうか」などと悩んでいる自分を見せつける、スピリチャルバカ。

両極端に見えるこれらの人々は、僕からみると、「戦争をポルノとして消費している」という意味で一緒です。同じ穴の狢です。

「ドネツク共和国でのウクライナによる虐殺がぁ」とのたまう鳩山由紀夫も
「ロシアは危ない。今こそ核武装だ。軍備拡大だ」とヘラヘラ語る安倍晋三も

頭の悪さ、知識のなさ、胆力のなさ、そして、このタイミングで自己の快楽に走り戦争をポルノとして利用している心のさもしさにおいて、同類です。

今、我々がなすべきことは、目の前の戦争を止めることです。
戦争を始めた、プーチンを非難することです。
そして傷ついた人々のそばに立ちつづけることです。

その声は小さくか細いかもしれません。しかし少なくとも、戦渦から逃れようとするウクライナの市民、侵略者と戦うウクライナの兵士、そして果敢にもロシア国内で反戦を叫ぶ良識ある市民の各位に、「あなた方は一人ではない」「ここにも、あなた方に連帯する者がいる」と示すことになるはずです。

まずは戦争を止めましょう。そして傷ついた人々を助けましょう。

あらゆる議論もあらゆる自己顕示も、その後で、いいはずです。

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