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3. #夜行列車、星空、夜明け

雨宿りしてけば?という誘いに頷いたのは、雨の止む気配がなかったのと、家に帰りたくなかったから。この状況で夏希が家にいるとは思わないけれど、夏希の気配が残る家に戻りたくなかった。今は、何も、嫌なこと、感じたくなかった。

 春川の部屋はマンションの4階、角部屋だった。お邪魔しまーす、と小さく呟きながら家に上がる。玄関からのびる廊下の先に、一人暮らしにしては広めのリビングがあって全体的に黒と白で統一されている。

「適当に好きにしてて」と言った春川は奥の部屋に消えていき、すぐに戻ってきた。手にしているタオルを私の頭に乗せ、パーカーとスウェットを私に押しつけた。

「風邪、引くから。とりあえず着替えろ」

 そう言いながら私を奥の部屋に押し込み、私が何か言う隙も与えないままばたんと扉を閉められてしまった。やたら強引だなぁと思いつつ、濡れた服が冷えて肌に触れる気持ち悪さを思いだしてありがたく着替えさせてもらう。

 渡された服が黒いせいか、着替えても全く変わらない雰囲気に思わず自分で笑ってしまった。さらりとした感触の生地が気持ちよく、不思議と感じる温かさ。心が温まることなんて最近なかったなと一瞬気持ちが沈みかけた。

 リビングに戻ると、ふわりとコーヒーの香りが漂っていた。春川も着替えを済ましたらしく、ラフな格好でコーヒー豆を挽いている。暖色の灯りに照らされた彼の表情は穏やかで静かで、目を瞑り豆の音に耳を傾けている彼をぼんやりと眺める。時間はゆったりと、濃密な一瞬で構成された空間に時計の針の音は存在しない。あぁ、今なら死ねるかもしれない。ふいに感じたそれはあまりに自然で負の感情は一ミリもいなかった。

「あー、悪い。座って待ってて。コーヒー淹れるから」

 豆を挽き終わって私に気づいた春川は私が抱えていた濡れた服を勝手に奪って洗濯機に放り込んだ。

 リビングの真ん中にある黒いソファーに座って軽く部屋を見渡す。テレビ、ソファー、テーブル、本棚と大きい家具はそれくらいで、物はほとんどない。殺風景といえばそうだけれど、なんとなく落ちつく空間。

 コーヒーを淹れる音が静かに響いて、雨音に溶けていく。長めの前髪で隠れた春川の横顔が綺麗だった。

 熱いよ、と渡された白いマグカップにはたっぷりのコーヒーが湯気を立てている。湿度に包まれた香りが私を満たして包み、熱々のそれが冷えた体に瞬時に沁み渡っていく。すっきりと雑味のないクリアな舌触りでいて、濃厚で苦みを含んだ味と甘い香り。コーヒーを愛してる人にしか出せない味だ。

「これ……すごくおいしい」

 呟いて、隣に座る春川のほうを向くと、すぐに彼と目が合った。

何を考えているのかよくわからない表情で私の目をじっと見つめ、それから視線を漂わせていく仕草をして、かすかに口角が上がって軽く微笑んだ気がしたけれど、すぐに目を逸らした彼はどこか隠すようにコーヒーを啜る。

 ほぼ初対面の人の家でほぼ初対面の人が淹れたコーヒーを飲んでるなんて、はたから見たらおかしな状況なんだろうけど、なにかが共鳴している感覚が私を安心させていた。

 特に話すこともなく、洗濯機が一生懸命仕事をしている音と雨音だけが響いている。ふと視界の端に映る壁際にある本棚に違和感を覚えて目をやると、棚には本とCDが混在して並べられていた。左から順に入れられた本とCDは一列すべて埋まっていないのに次の段にも並べられていて、それぞれの段に入っている量もバラバラで不規則。整頓された部屋の中でそこだけちぐはぐで完全に浮いていた。

「ねぇ、あの本棚、どういう風に分けてるの?」

 私の問いかけに少し驚いたように黙り込む春川に首を傾げる。

「あー、あれは……色分けしてある」

 マグカップをテーブルに置いて彼は本棚を指さす。

「一段目は赤、二段目は黄、三段目は黒。みたいな感じ」

 色分けと言われて改めて見てみても、本の表紙もジャケット写真も色の統一性はない。見た目のことじゃないのかと考えていたら、急に春川が小さく笑いだした。

「悪い。この本棚みて、どういう風に分けてるか聞かれたの初めてでさ。規則性がない前提の言葉しか口にされたことなくて、だから、こうやってまともに答えたのも初めてだ」

 無表情に加わる小さな笑顔が彼にとてもよく似合っているのに、やっぱりすぐにその表情を消してしまう。

 名残惜しさを追いかけるように春川の頬に手を伸ばす。そこに私の意識はあまりなくて、考えるよりも先に体が勝手に動いていた。

「春川は、消えそうに笑うね」

 掴み切れない笑顔とともに消えてしまいそうな雰囲気が春川を包んでいるように思えて少し不安になる。屋根を打ちつける雨音が繋いでいく、間。

「お前の紡ぐ言葉はさ」微動だにしない春川がじっと私の目を捉えたけれど、迷うように数秒置いて続けて言った。

「声の色に嘘がなくて聞きやすい」

 囁くように、少しざらついた低めの声が耳から脳に流れていく気がした。

「愛してるって音の色が青色だった、みたいな?」

「お前の声は鮮やかな水色って感じかな」

「ふぅん」

 春川の頬を軽く撫でてから、冷めてきたコーヒーを一気に飲み干した。よくわからないけれど、なんとなくわかる気がする感覚が久々に心地いい。

 雨はまだ降り続けている。激しさを増しながら。リビングを囲うようにある大きい窓の向こうでは雨のカーテンが暴れていて、空の色さえわからない。見えずとも確かにそこに存在しているはずの星空を見つめた。

 ふと、雨が止んでここを出たら私はどこに行けばいいのだろうと漠然とした不安が溢れて、どこにも帰る場所なんてない事実が私を包んでいた。

 遅れてコーヒーを飲み終えた春川がマグカップを流しに運んで行く。ふわりと消えた温かみにつられて私は窓を開けてそっとベランダに出た。一気に冷たい空気がぶつかって鼻の奥がつんとして痛い。吹き込む雨が少しずつ確実に私を濡らしていく。冷たさが、思考をクリアにしてくれる気がするのはなぜだろう。4階から眼下を見下ろすと、案外大した高さじゃないなと思うと同時に意外と足が竦む高さだなぁとも思う。アスファルトを激しく叩く雨が飛沫をあげていて、その中を歩く人は誰もいなかった。

 まるで世界に私たちしかいないみたいな錯覚。

「風邪引くぞ」

 キッチンから戻った春川が後ろに立っていた。

夜行列車に乗ってどこか、どこでもない場所に行きたくない?」

 春川は黙って私の腕を掴んだ。

「あの雲の向こうの星空行きとかあったらいいのに」

 星空行きは冗談でも、ただ適当に知らない街を旅したい気持ちだけがあった。

「銀河鉄道にでも乗るか?」

 真顔でそう言いながら私の腕を軽く引っ張って部屋に入るのを促す。

「愛なんて、言葉にしないと伝わらないなんて、そんな愛なんて愛じゃないよね」

 俺はさ、愛してるって言ってんじゃん。と叫ぶ夏希の声が脳内に何度も響いていた。ひたすら響く声が私を支配して、ぐるぐると回って、よろめきかけて我に返る。

「銀河鉄道に乗ったら、俺かお前か、どっちか帰って来られないわけだけど、どうするよ」

 部屋の中に立っている春川と、部屋の外に立っている私。唯一のつながりは私の腕を掴む春川の手だけ。風が、春川の前髪を持ち上げて、露になる瞳を捉える。

 いい加減濡れるだろ、といら立ったように声を少し荒げながら私を部屋に引っ張り上げ、窓を閉めた。かじかむ指先から冷たさが身に沁みるように小さく震えた。

 またソファーに二人並んで座った。じんわりと伝わる彼の体温が私を温めていた。窓の外をぼんやりと眺めながら流れていく時間を遮るように私の携帯が鳴った。画面に浮かぶ夏希の文字に一瞬息が止まる。触れることもできずに鳴り響く着信音が消えるのをじっと待つ。ほどなくして止んだ音にほっとしたのも束の間、すぐにまた鳴りだした。何回かそれを繰り返し諦めて電話に出る。

「おい、今どこだよ、夜も遅いのになにしてんだよ」

 もしもしと言う間さえないまま夏希の怒鳴り声が耳を突き刺す。浮かばない言葉が頭の中を空回りして結局私は何も言えなかった。まさかとは思ったけれど口ぶりから察するに私の家に行ったらしい。そして私が帰ってこないことに怒っている。

「……雪」

 夏希がため息を吐くように私の名前を呼ぶ。まるで小さい子どもを諭すかのような声音が、どろどろと私の心を沈めさせる。伝わらない感情が、伝えられない感情が、少しずつズレを広げていることに私だけが気づいている。どうにもならない感性の壁は最初からそこにあった。

「ねぇ、夏希。もし一緒に銀河鉄道に乗ったら、どうなると思う?」

 私の問いかけに「は?」といら立っているのが分かったけれど無視して「どうなると思う?」と再度問いかける。

「は?なんだよ銀河鉄道って。知らねぇよ」

 いつも通り、考えることなく乱暴に吐き捨てたその言葉を聞いて心は揺れることなく静かに落ちついた。

「ばいばい、夏希」

 唐突な私の言葉に一瞬沈黙する。

「え、何言ってんだよ」微かに震えている声に私はきっぱりと言った。

「もう会うこともないよ。ばいばい」

 電話の向こうで何かが割れる音や物が落ちる音と喚き声が聞こえていたけれど、そのまま通話を終了する。妙に穏やかな、というより、ひんやりとした心がただそこにあった。

 ふぅ、と息を吐いたところで夏希から怒涛のメールが通知欄を埋めていく。止まらないメールをぼうっと眺めていたら隣から手が伸びて、するりと携帯を持ってかれる。

「名前、雪っていうのか」春川が通知を見ながら言った。

「あ、うん」

 ふぅん、と興味なさそうに相槌を打ちながら春川は携帯の電源を勝手に切って返してきた。急に静かになる部屋。窓の外ではさっきより弱くなった雨の雫が窓を滑り落ち、遠くの高層ビルの赤いランプが淡く点滅していた。

「雨が止んで夜が明けたら、どうしよう」

 心の中で考えていたことが気づいたらぽろりと口から零れていた。自分の肩を抱いて顔を埋める。目を閉じたら、さっきまでいなかった眠気がゆっくりと意識を遠ざけていく。このままもう眠ってしまおうかと意識を手放しかけたとき、隣から小さな声が聞こえた。

「お前は、どうしたい?」

 春川が答えを待つように私の目を捉えて離さない。そういえば、たぶんこれが初めての明確な問いかけかもしれないと思った。濡れた服を着替えさせる時も、濡れた服を洗濯する時も、携帯の電源を切る時の強引な優しさはきちんと状況を見極められている。

私はどうしたいのだろうと今までに何度も自問自答していたはずなのに、何も見い出せないまま生きてしまっていてどうしようもないなぁと情けなさを感じて笑いそうになる。あぁ、でも。薄れそうになる意識の中、鮮明に浮かんだのは愛の味。

「春川の淹れたコーヒーが飲みたい」

 私の答えに不意を突かれたみたいだったけれど「わかった」と優しく笑ったその笑みを慌てて隠すそぶりはなく、私はなんとなく安心してそのまま眠りに落ちていった。

心の瞬間の共鳴にぼくは文字をそっと添える。無力な言葉に抗って、きみと、ぼくと、せかい。応援してくれる方、サポートしてくれたら嬉しいです……お願いします