第九回: 人はスーパーマンになるために生まれてきたのではない

第七回ではじめてMPという概念が登場し、第八回では厳密な定義を避けつつ倉下さんが、MPを「体力」のような大ざっぱな概念としてとらえようということを提案されました。

体力に限りがあるように、MPにも限りがあります

したがって第七回で強調したとおり、MPを使い込むと疲労感が増し、脳は限りなく「システム1」だけでやり過ごすようになっていきます。なぜならそうすればMPを節約できるからです。

しかしながら思春期を迎えたころから人は時にこう思います。自意識があり、知識は習得できる以上、自分には、やろうと思えば何でもやれる!

たとえば車の運転ができなくても、それを覚えることに熱中して、運転できるようになります。英語を勉強して、英語が読めるようになります。すると英書も読めるようになります。

だから足りないのは時間だ、と強く感じるようにもなるわけです。
しかし時間以上に足りないのがMPです。なぜなら、システム2を使いこなさないかぎり、自由に何でもはやれないからです。

たとえば車の運転も、最初はシステム1ではなくシステム2の仕事です。幅寄せや車線変更などは、免許を取ってしばらくしても「2」の仕事であるということもあります。

とは言え、技術を獲得すればするほど、「2」の仕事は減っていって、最終的には「1」に大半をまかせてしまうことができるようになります。

ならば「あらゆる技術・知識」をそのようにして獲得すればいい、と思う人もあるわけですが、実際にそうできることは希です。

どうしてかというと、そうしなければならない理由がないからです。

そもそも「システム2」と「1」の仕事は、生存に問題があるかないかという基準によって、ほぼ自動的にふりわけられているのです。

「2」は「1任せ」だと命に関わる場合において、積極的に仕事をします。MPは体力と似て、「生きるためのリソース」であり「格好つけるためのリソース」ではないのです。

つまり、MPを節約することなく、「2」を絶え間なく活用してどんどん「1任せ」にするようにできるなら、理論的には人間は何でもできるようになります。現代人はしばしばこうなりたいと思っています。「歯を磨くように」(これを習慣化といいますが)英語の勉強もプログラミングの勉強もできるようになったら無敵だろうというのです。

ですがそうなるのには理由が要ります。死なないために「2」にMPを使わせるのは立派な理由になりますが、英語の勉強に「2」を投入する立派な理由はなんでしょう?

それは絶対に必要な技術でしょうか?

車の運転だってそこまで必要じゃないけどできるようになった、という人もあるでしょうが、その人にとって車の運転は、少なくとも英語ほど難しくなかっ点を忘れてはいけません。

「2」に投入するMPの総量は、少なければ少ないほど、良いのです。

多ければ多いほど、「理由」はもっともらしくある必要があります。