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美と整形と死

YouTuberのひなしゃん5さい(五彩緋夏)さんが亡くなってしまった。

わたしはチャンネル登録こそしていなかったものの、生前の彼女の動画を何本か観たことがあったので、亡くなったと知ったときは本当に衝撃だった。

整形をして、美しくなっても死ぬのか。だとしたら整形ってなんなんだろう?これが彼女の悲報をうけて感じた率直な感想だった。

彼女は動画の中で、自身の容姿に囚われていた過去を赤裸々に話しては、それをどう乗り越えてきたかを視聴者に伝授していた。だけど結局死んでしまった。もちろんわたしは五彩緋夏さん本人ではないから、死の本当の原因はわからない。もしかしたら容姿とはぜんぜん関係のないことなのかもしれない。だけど、彼女と整形、ないしは容姿コンプレックスのイメージはやはり強固に結びついていて、そこを抜きには自殺のは原因も考えられないというのもまた事実である。

最近、村上春樹の短編小説『一人称単数』を読んだ。その中に『謝肉祭』という話があるのだが、これがとても面白かった。


かいつまんでいうと、主人公がとんでもない醜女と知り合い、彼女と共通の趣味(クラシック音楽)を共有し、親しくなっていく過程を描いているのだが、ある日突然、思いがけないかたちでそのふたりの交流(男女の、ではない)が終了する、という話だ。


物語のはじめ、主人公は彼女の容姿に対して、その内面の魅力に比して格段に劣っていることを落ち度のように感じている。「せめて、顔がもう少しましだったら」と思う。


だけど、そのうちに気づく。ちがう、彼女を彼女たらしめているのは、その魅力の根源になっているのは、容姿と内面の差なのだと。主人公は醜女の女と趣味を語らい、ある意味でとても濃密な時間を過ごしていくが、最後まで彼女と男女の関係になることはない。しかし、そうしなかったのは彼女の容姿の優れていないことが理由ではなく、彼女の内面の奥に隠された二面性(本文では仮面といっている)に触れることを主人公が本能的に回避したためである。

そして主人公の勘は当たり、物語は衝撃のラストを迎える。彼女は詐欺の疑いで逮捕され、それが夕方のニュースで流れる。しかし、主人公にとっての本当の衝撃は彼女が逮捕されたことではない。主犯格であるとされた、彼女の旦那がとんでもなく端麗な容姿であったことだ。



とまあ、こんな話である。

わたしはこれを読み、まず、単純に良い話だと思った。村上春樹の小説はわたしの知る限りでは『スプートニクの恋人』を除いて、ヒロインは美少女と相場が決まっている。しかしこの話では「主人公がこれまで出逢った中ではもっとも醜い女」がヒロインである。主人公は彼女の知的さに惹かれて、交流を深めていく。また、服装の趣味の良さを認める描写もある。この筋書きだけでもこの小説は十分読む価値がある。天下の村上春樹がブスに居場所を与えてくれている。たとえフィクションと分かっていても、ラストで歳下イケメン旦那をものにした女として明かされるのも良い。


ことわっておくが、上記のポイントは物語の構成要素のすべてではない。むしろ、このストーリーでは、容姿とはべつのことに主題があって、その主題を伝えるために容姿というフックを使っているに過ぎない。


だけど、「まあ容姿がすべてじゃないよなあ」と改めて思った。

話は元に戻るが、どんなに整形しても、どんなにダイエットをしても、私たちは他の誰かになんてなることは出来ないのだ。これはもう、絶対にそうなのだ。

いま、関西コレクション(というなんだか実態の分からない謎イベント)のランウェイを歩くインフルエンサーたちの動画がYouTubeショートで出回っていて、その中に「ゆりにゃ」という子がいる。彼女が歩くと凄まじい歓声が上がり、若い女の子たちがこれでもかというくらいの羨望の眼差しを向けるわけだが、私にはいったいこの子の何がそんなに魅力なのかが分からない。たしかに人形のように小顔、細く、長い脚で闊歩する姿をみれば、スタイルの良さは一目瞭然だ。だけど、顔だちのほうはすごく美人というわけでない。もちろんブスではないが。なにか芸能を披露するわけでもない。ダンスはやっているようだが、それが平均と比べてどうなのかは分からない。

要するに何が言いたいかというと、ゆりにゃという子は、「韓流アイドルに憧れる子たち」の中で、上の存在なのだ。韓流アイドルの下、ではなく、それに憧れる一般人集団において上、なのだ。だから、ダイエットのカリスマ、スタイル維持のカリスマ、みたいなポジションなんだと思う。 

しかし、おそらく彼女は今後もTWICEの誰かになれることはないだろう。

容姿に関して、たしかに努力である程度は追いつけることもある。だけど、自分以外のべつの誰かには決してなれない。その差は永遠に埋まることはない。北川景子にはなれない。上戸彩にはなれない。たとえ、どんなに努力してもだ。そしてこの努力の中に美容整形を含めても、だ。


私は、10キロ痩せて体脂肪を10数%まで下げてた時期があった。だけど、私は相変わらずわたしだった。急にモテることもなかったし、優しくされることもなかった。有村架純にも上戸彩にもなれなかった。(世代と好みが出てます)もちろん、多少は自信もついたし、着れる服も広がってオシャレになった。だけど、ただそれだけのことだった。世界に影響を与えるほどの美はついぞ得られなかった。(もちろん鼻からそんな気はないが)   

 

結局のところ、私はわたしにしかなれないのだ。マックス頑張っても、私はわたしだった。わたしの顔はわたししか持っていないもので、わたしの内面はその外面に沿うようにできている。私は美人ではない。だけど、目を背けたなくなるほどの醜女でもない。ならばこれでいいではないか。たとえば誰かが整形したいと思う時、わたしの写真を持っていくことはまずない。だからいい。目指されない顔は、ひとつきりの顔になる。


整形をしても、満たさない。乾いた砂漠のようにいつまでもいつまでも水を求め続けるだけだ。なぜなら、いつまでたってもこれで良い、と思える正解にたどり着けないからだ。


まだちがう、まだダメだ、まだブスだ、

そういう強迫観念はますます増して女の子たちを苦しめるだろう。

いまある素材、いまあるものを磨く。そして、諦める。


わたしという器とわたしという溶液が染むように暮らしていきたい。



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