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「規則」について

こんにちは。
最近、気になっていた神社に参拝に行きました。写真をスマホのカメラで撮っていたのですが、本宮の近く「撮影者は神社の許可を取ってください」という標識が建てられていました。「あ、ここは写真の許可が必要だったんだ。」と思って、社務所で神社の方に、「すみません、写真を撮るのに許可が必要だったと表でみたのですが、境内の写真撮っても大丈夫でしょうか。」と撮った後を謝罪して改めて願い出てみました。すると、神社の方曰く「撮影者は、ここを撮影してそれを販売する人や七五三で記念撮影する人のことであって、一般の方は全然大丈夫ですよ。」と言ってくださいました。どんな例があったか詳しく聞いたところによると、撮影者の中には、
撮影の為に参道のど真ん中に座り込んだり、
参拝者を押しのけて撮影したり、
特に桜の時期には一番いい場所を陣取ったり、
賽銭箱の裏側に入って写真を撮ったりしていたそうです。
中でもその賽銭箱の裏側に入った時に、話してくれた方が注意したと聞きました。相手は態度を改めるどころか注意したその人に対して、「別にええやろうが!」と怒鳴り返したそうです。神社の方も「これはあかん!」と思って対応を決めて許可や予約を設けたようです。話を聞いていて、驚愕の次にとても悲しい気持ちになりました。全部が同じ人による行動ではないにしろ、身の危険が差し迫ってしまうかもしれないという事になれば、確かに何かしらの対策を講じざるを得ないでしょう。これを聞いたときはちょっと倒れるかと思いました。暑さでではなく。

撮影者云々というよりも、当人の「良識」の問題に思われました。
全ての撮影者と言っているのではない事をどうか知っておいて頂きたいです。きちんとした方であれば、事前に予約や許可を申請して受諾されてからするでしょう。ダメならダメで潔く身を引くか、どの程度の範囲であれば許可が下りるかを確認したりと念入りに準備すると思います。規則を尊重するはずと考えています。

神社が特別に感じるとよく聞きます。それは、私が思うにこれまでの人々が感謝と良識とその土地に住まう神様を大事にする信仰心を持っている事、それを礼儀によって表してきたのを脈々と続けてきたからだと思います。日本の独特の宗教観でもあるかもしれません。
今でも、そういう敬意を持って倣うから、素敵な所は一層素敵になのでしょう。参拝の仕方をどうだっけって確認することも立派な信仰心の一つだと思います。知らない事を知ろうとする姿も、良い日々をありがとうと祈る姿も美しいものだと私は思います。だから、それを自分本位で、これまでの事を蔑ろにされるようなことが起こったのがとても悲しかったです。

先日書いた、小泉八雲の随筆でも少々触れましたので重複で恐縮なのですが、技術などが発達する一方で、昔からある道徳や倫理観は失われつつあるとされています。それがまるで今目の前でじわじわと起こってるような気がしました。小泉八雲は、観察からそれを予期していたのかもしれないと思わされました。

良い物を作り、販売するのはそれ自体は悪とは思っていません。ただ、その売る為、収益の為に周囲を傷つけたり、無関係の規則や礼儀を守っている人たちを自分を優先して、罵声を浴びせる、怒鳴る、自分が正しいと主張して妨害したり不快な想いをさせるのは、お門違いではないだろうかと思うのです。これに限った話ではないですが。

その地に根付いた大切な文化を保護しようと懸命に動かれているのを見て、どうか神様がお守りくださいますようにと、あと「畏れ、敬うの心」が乏しい人には分かり易く何かのサインが下りますようにと。



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