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K-POP,もう体験してしまった共感! 言語を学ぶことは,誰にも止められない 『韓国語をいかに学ぶか』から

野間秀樹著『韓国語をいかに学ぶか』(平凡社新書)の第1章「韓国語=朝鮮語は学びたくなる言語である」その第1節「韓国語を学ぶと、3つ嬉しい」からの抜粋です。

 K-POPそして韓国ドラマ--
 どこかで誰かがどんなに排外主義やナショナリズムをかきたてようと、共に泣き、共に笑った心は、もう崩せない。この人たちと戦争やれって? ありえないよ。今後、世の中にいかなる変化があろうとも、人々はもう体験してしまった。共感は既に体験されてしまったのである。

 少年少女のK-POPへの熱狂を、ひと時の熱病のように思っていたら、それは誤りである。(中略)それは人生の終焉に至るまで、心の深いところに大切な位置を占めている。(中略)自分たちがそこに生き、歓び、共にし、あるいは涙する、形造られる青春そのものである。それらは老いゆくまで、心のどこかで記憶され続ける歌である。韓国語で歌われ奏でられる世界が、10年後には、20年後には、胸一杯に思い出される自分自身の姿そのものである。そうした人々にとって韓国語の歌は、日本語の歌と心深きところで重奏される、青春の旋律である。(中略)

 歴史や文化にあっては、そして知にあっては、古(いにしえ)の記憶から同時代の息吹にまで、日本の中に朝鮮が、韓国がある。(先に挙げた)隣近所性とは、境界づけられた他者と接している排他性を意味しない。つまり、境界線を引いて、ここからあっちは韓国語、などとはなっていない。日本語の深いところで、日本語のあちらこちらで、韓国語が共に息づいている。まさに隣近所に一緒に暮らしているように、日本語の中にも韓国語が生きている。隣近所性とは、しばしばどこかで自らに重なる重層性でもある。韓国語の世界は、単に自らの中の他者として存在するのではない。自らの中の異物なのではない。単に吸収するとか、影響を受けると言うに留まらない。それは自らの内にまさに自らを形造るものとしても在る。自らの中の境界づけられた一部としてではなく、まさにDNAや血脈のごとくに在るのである。そうした性格においては、韓国語は単なる他者ではない。
 そして逆に、韓国語の中にも日本がある。韓国語圏の人々はもちろん、日本の人々までその肺腑(はいふ)を抉(えぐ)るような、日本の植民地支配という形で。

 韓国語の世界を、より深く、近しく知るとは、他者としての韓国語の世界を知るだけではなく、正の歓びも負の傷みも含め、日本語という自己自身を形造っている、共に在る韓国語の世界を知ることでもある。

 ーー野間秀樹著『韓国語をいかに学ぶか』(平凡社新書)pp.19-21より「スキ」などいただければ、大変励みになります!

●『韓国語をいかに学ぶか』の「はじめに」と目次を読む:

●言語を学ぶ「目的」など一般化できない。目的論的言語観ではだめだ。

●言語=民族=国家という幻想の等式.「ここは日本だから日本語を」は危険な誤り.言語≠民族≠国家が原理.そして文字も≠


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