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発音の学び方!〈話されたことば〉を学ぶとは,ことばの音を大切に学ぶということだ 勝手に音読などしても危ない

「会話」や「話すこと」「コミュニケーション」を学ぶ。それはその言語の音(おん)を謙虚に、大切に学ぶということに他なりません。以下は、『韓国語をいかに学ぶか』(野間秀樹著、平凡社新書)「〈話されたことば〉とは何よりも〈音〉(おん)である」からの抜粋です。〈話されたことば〉と〈書かれたことば〉は異なります。〈話されたことば〉を学ぶとはまさに言語音を学ぶということ。

 念のために。〈その言語で自分が何をしたいか〉によってではなく、〈その言語の聞き手に自分が何を望むか〉によって、学習者にとっては発音の学習の位置づけを変えればいい。これは英語だけでなく、韓国語や、その他の言語にも概ね共通して言える。〈話されたことば〉にはいつも聞き手が存在する。発音の学習についての議論では、こうした観点が欠かせない。(中略)

 何よりも、発音はちょっと解っているだけで、嘘のように向上したり、少しの意識的な練習でも驚くほど向上するといったことが少なくない。最初から日本語式発音でやるという構えの発音と、ある程度努力した結果として母語話者との違いが現れる発音とでは、もうまるで違う。(中略)

 言語が実現する際には、〈話されたことば〉と〈書かれたことば〉という大きく二つの実現形態がある。〈書かれたことば〉にあっては、言語の実体的な担い手は〈文字〉である。〈話されたことば〉にあっては、言語の実体的な担い手は〈言語音〉である。発音とは、まさに音の産出に他ならない。

 言語を学ぶとは、言語音を学ぶということである。canとcan'tを区別づけるのは、〈話されたことば〉にあっては、ただただ音のみなのである。(中略)
 語彙。我、汝を愛するlove /lʌv/のか、擦る/rʌb/のかを決めるのは、〈話されたことば〉にあっては、ひたすら、音の支えである。〈単語を覚える〉とは、〈単語の音を覚える〉ということに他ならない。
 文法。love /lʌv/ 愛する、loved /lʌvd/ 愛した、今は愛していない。〈話されたことば〉にあって過去形を学ぶとは、過去形を形造っている音を学ぶということである。意味も用法も、愛も思想も歌も詩も、全てが音の上に実現する。現在も、過去も、そして私たちの未来も。

 音という実体、リアリティを抜きに、「会話」だの「話せる」だの「コミュニケーション」だの「異文化理解」だのは、皆、砂上の楼閣、いや、砂という物理的実体さえもない、言語の蜃気楼である。音を抜きに、話せるようになんか、なるわけがない。

教科書を勝手に読むな――それは韓国語ではない
 そしてここでも音の平面と文字の平面の峻別が必要である。教科書にハングルで書かれた文がある。それを学習者が読み、「発音練習」する。基本的に、そうした練習を何百回繰り返しても、それは本質的には韓国語の学習とは言えない。学習上は場合によっては百害あって、利がわずかしかないかもしれない。確認しよう:

 教科書の文字列を学習者の言語音に変換する作業は、韓国語の発音の訓練ではない

 つまり、教科書に書いてあるハングルを、学習者が自己流で読むのは、学習者の音の体系に合わせて、ハングルという文字の平面を、学習者の音の平面に勝手な仕方で置き換えているに過ぎないのである。それは韓国語ではない。韓国語の文字列を手がかりに学習者が産出した、韓国語もどきの音列である。
 では韓国語はどこにある? 韓国語はその教科書の後ろについている。CDにある。DVDにある。これが模範=モデルの本質的な意義である。音だけに心を傾けてみよう。そして次に音と文字をリンクさせながら学んでみよう。学習者は模範に限りなく近づくよう、音を産出せねばならない。模範と同じような音、音色、高さ、強さ、抑揚、律動、速度、色艶に至るまで、音の全てを我がものとせねばならない。そうした訓練を目指そう。

音を丁寧に学ぶのは、その言語に対する礼儀でもある
 音を丁寧に学ぶのは、礼儀でもある。私たちはその言語を学ぶのであるから。日本語式の発音でもいいのだと、始めから決めてかかるのは、謙虚な学びを放棄した、居直りのようなものである。対象とする言語の音が、母語の音と異なるものであればあるほど、謙虚に耳を傾け、謙虚に音の作り方を学んで、近づこうとするのが、学習というものである。そこには驚きもあり、発見もあろう。困難を知り、困難を克服し、母語話者たちと共にする歓びも知るであろう。これだけは間違いなく言える:

 発音は、理を知り、訓練を重ねれば、必ず向上する。きちんと訓練すれば、劇的に向上する

重要なことは、理を知り、肉体がそれを習熟することにある。

発音の訓練は肉体の訓練である
 発音の訓練は肉体の訓練である。頭だけで解っても、体がついていかないといけない。体が、自由に、自然にそう動かねばならない。
 ここで、もう年だからなどとおっしゃるのは、後期高齢者くらいの歳を重ねた方ならまだしも、六〇歳や六五歳でおっしゃっては、身体(しんたい)髪膚(はっぷ)、これを父母に受(う)く、生んでくださった母君に申し訳が立たない、明るく楽しく頑張ってこそ、孝の始めというものであります。

 発音の訓練は、テニスの素振りや、空手の突きや、ピアノの運指の稽古のようなものである。当然、回数を重ねた〈鍛練〉が必要である。空手の達人曰く、千を以て鍛(たん)となし、万を以て錬(れん)となす。最初は恐ろしく不自然、ちょっとやっても、ぎごちなく、しかして気づいたら後輩を教える程になっている、そういうものである。その際に、勝手に音を産出するのではなく、どこまでも模範に謙虚に忠実に、一歩も下がらず師に密着する構えが大切である。韓国語の音を丁寧に、そして理知的に観察し、ははあ、こうなっているのかと、楽しみながら、よし、これを我がものとせん、という気構えが大切である。そしてその鍛錬の時間を〈知〉が、場合によっては劇的に節約してくれる。

『韓国語をいかに学ぶか』(平凡社新書)pp.46-56から跳び跳びに抜粋したので、ちょっと読みにくいかもしれません。皆さんのご健闘を心よりお祈りします! なお「スキ」などいただければ、私も頑張れます!

●『韓国語をいかに学ぶか』の「はじめに」と目次を読む:

●以下は、著者の講座の案内です:
講座では教科書の機械的な暗記ではなく、実際に〈話すこと〉を学びます。〈言えなかったことを、言えるように!〉 文法はアイテムではなく、システムを! 1つ1つではなく、ごっそり体系的に学びましょう。 継続の講座ですが、新たな方々も大歓迎です。昔やったんだけれどもだいぶ忘れてしまって、というやり直しにもどうぞ。


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