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【小説】レディ・アイデス・ブラック・ダリアは人魚姫です(2) ~少女と怪物~

第二章 少女たち

1
しばらくして、アイデスは船を降り、僕のいる川辺へとやってきました。昨日と同じ黒いシャツに黒いズボンという、黒ずくめの出で立ちです。
「じゃあ、怪物退治に行くか」
ケロッと言うと、さっさと歩きだします。僕は慌ててその背を追いました。
「ど、どこに行くの?」
「海に決まっているだろう。小冬さんの話に矛盾は多いが、海辺で何かに遭遇した、というのは一貫しているからね。君の夢でも確認できたし。あ、星真珠は今も持ってるね?」
僕は首元からそれを引っ張り出しました。アイデスは満足げに頷きました。
「お、オレ、武器を何も、も、持ってないよ」
「大丈夫、大丈夫。君は星真珠だけ持ってれば問題ない」
「こ、これって武器になるの?」
「ああ。海の魔女の力が籠った、この世に唯一の魔法の真珠だからね」
「海の魔女の?」
「そうだよ」
アイデスは何てことないような口調で言いました。僕は立て続けに聞きました。
「海の魔女のこと、よく知ってるの?」
「……まあまあかな」
「じゃあ魔女が、どうして『怪物』を産むかも知ってる?」
「だから『怪物』じゃあな……って、そういうことにしたんだっけ。うーんと、まあ、そういう生き物だからだ」
海の香のする風が、アイデスの切り揃った白髪を揺らしました。
「自分でもどうしようもないんだ。彼女は、さみしいと『怪物』を生む。それはあの子自身にも止めようがないんだ」
あの子。その呼び方に、僕は不思議と引っかかりました。そこに、甘くて苦い、哀憐の気配を感じたのです。
僕はそれまで、海の魔女はとにかく悪い奴で、アイデスはそれを追い払って人を助けている人魚だと、ずっと思ってきました。関係図としては、単純な正義と悪です。しかしアイデスと実際に話してみれば、彼女が単純な正義感で動いているタイプでないことや、案外享楽的であることは明らかです。ということは、海の魔女も、彼女とアイデスの関係も、僕が思っている以上に複雑なのではないか。僕はこの時初めて、そう思い至りました。
「君らにも、そういうのがあるだろう。食べなければおなかが空く。眠くなると寝る。人を愛す気持ちを、止められるか? 悲しみで涙があふれるのを、止められないだろう。それと同じなんだよ」
「……だったら、さみしくなくしてあげたらいいじゃん」
僕が言うと、アイデスは優しい目で僕を見つめました。そして微かに微笑みました。それは今まで彼女が見せてきた明るい笑みとは違う、ため息まじりの、青ざめた笑みでした。
「彼女のさみしさは誰にも埋められない。唯一埋められるやつに、その気がないからな」
「なんだよそれ。そいつ、ひどい奴だな」
僕は思わず言っていました。アイデスの突き放した言い方も相まって、その誰かが、よほど残酷な人物に感じられたのです。
「そうだな。本当に、そうだ」
そう言ったアイデスは、もういつもの笑い方に戻っていました。
「だから、君はそんな奴に絶対なるなよ。救える相手は、救ってあげな」

2
アイデスの船から海まではそれほど距離はありません。その為、僕らはまだ陽の沈まないうちに、海岸へ着いてしまいました。
小高い位置にある歩道からは、海景が望めました。美しい景色です。地平線に陽が落ちていく瞬間を見るのは、久しぶりでした。
まばらではありますが、海岸にも歩道にも、まだ人がおりました。サーフィンを終えた若者たちが荷物をまとめています。歩道を犬と散歩する人に、犬を少しだけ触らせてもらったりして、時間を潰しました。
アイデスは時折立ち止まり、何かを探すように視線を走らせていました。けれど、星真珠で見たような怪物はどこにもおりません。美しい景色と人々の楽し気な笑い声を聞いていると、本当にここに現れたのか、改めて不安になったほどです。
僕たちは、海岸に降りてみることにしました。
階段を下っていきます。小冬の話の通り、階段以外の場所には、長い草が生えておりました。所々、なぎ倒されています。元気のいいサーファーたちが、階段を使う手間を省くために駆け下りるのかもしれないと、その時の僕は思いました。
階段を下りた先には、掲示板がありました。海で遊ぶ際の注意点や、禁止事項が書かれております。
「煙草は禁止されています。ゴミは持ち帰ってください。バーベキューはしないでください。過度な飲酒はご遠慮ください」
僕はなんとなく読み上げはじめました。
「海に入る前には準備運動をしましょう。小さなお子さんは救命具をつけましょう。この人を探しています……」
僕は口ごもりました。それは一見、古いポスターに見えました。しかし掲載日時を見ると、比較的新しいことがわかりました。海風による劣化が酷かっただけでした。
写真の女の子はふっくらとした頬を持ち、親し気な笑みが愛らしい人でした。
「白海大学一年生……六月十八日から行方が分からなくなる……見かけたら下記電話番号へ……。個人で作ったポスターだな」
アイデスが呟いた、その時でした。

3
「お姉さん、いかしてるね~その白髪。ブリーチかけてんの?」
突然の大声に驚いて振り向くと、ビキニを着た二人組がおりました。一人の髪はピンク色で、もう一人は真っ青です。呂律が回っていません。酔っているようでした。僕は先ほど読み上げた注意事項を思い出しました。過度な飲酒は禁止……。
アイデスは自分の髪をひと房掴み、言いました。
「いや?これ地毛。いいだろ」
「えーすっごー! あ、もしかして外国人? 目もめっちゃきれーじゃん!」
「どうも。君らの目もすごいよ。瞳孔がでかくて」
「あっははは、ウケるー! これカラコンだよー!」
アイデスはさっそく二人と打ち解けはじめました。本当に、人の懐に入り込むのが得意な人魚です。人見知りの性格の僕にとっては、彼女が人魚である以前に、その性格のほうが異次元の生き物に思えてなりません。
白髪は目立つから一回黒く染めてみたいと思っていること、それならいい髪染めを知っている、などなどと世間話をしてから、二人に尋ねます。
「君らは学生かな? もしかして白海大学?」
「そーだよ!ピッチピチのいっちねんえーい!」
「えーい!」
「じゃあこの子は知ってるかな」
アイデスがポスターを指さします。ふらふらしながらもそれを読んだ女学生たちは、ああ~と声を上げました。
「知ってる~。けど、友達じゃないよ~。このポスター見て知ってる~って意味」
「親がね、すっげーのよ~。これ作ったのも親だよ、この子の」
「親?」
「そーそ、親あー。この子ーこの辺が地元じゃなかったみたいでー、大学はいって一人暮らしはじめたんだってー。四月からねー。で、六月にしっそー。いなかの親たちが大学乗り込んできてさー、マジ切れよー、勝手にこんなのも張るしさー」
「失踪なんて、この辺じゃ別に珍しくもないのにねー」
ぎゃあっはははと、ピンクと青は、ひときわ大声で笑いました。。
ひとしきり笑うと、急にピンク髪が顔をしかめました。
「ここってほら、ちょっと電車使えば都心にも出られるじゃん。だから大学一か月目で友達出来なかった子とか、勉強やる気なくなったようなやつらが、こっそり大学やめてそっちに働きに行くなんてのは、女の子にはそんな珍しくないの」
「やばーいお店に勝手に紹介するような、こわーい先輩もいるっぽいし」
青髪がピンク髪の主張を補強するよう言い添えます。
アイデスは掲示板からポスターを引っぺがし、二人にあらためて顔写真を示しました。
「この子もそういうタイプの子だったのかな?」
「さあね。でも、夜の海で失踪ってくらいだから、見た目に寄らず、軽かったんじゃね」
「そーそ、人は見かけじゃないんだよねー。あたしらのほうがまじめかもよ。夜の海なんか絶対行かないし」
「そんなにやばいのかな? 最近の夜の海は」
「そうだよ。話の通じない本気で頭おかしいやばい連中がうろうろしてんだから。入学式で、女の子にわざわざ注意するくらいだもん」
二人はあらためてアイデスを、そして僕を見つめました。
「だーら、もうあたしらも帰るのー」
「あんたらもさっさと帰ったほういいよ。七時にはもー、ここらはやっべーモンスターたちの世界だから」
ピンク髪が、わざわざ腕時計を突きつけて見せてくれました。
時刻は、六時半を少し過ぎたところでした。

4
ピンク髪と青髪のいう通り、七時を過ぎると海はまるで別世界に変貌しました。
まず人影が一気に失せました。ついさっきまでが賑やかだっただけに、その静寂はより重苦しく感じられます。
地平線に太陽が飲み込まれると、光源はたまに雲間から覗く月の光くらいしかありません。少し見上げた先の歩道に、ほつほつと街灯が見えますが、弱弱しいものです。
僕はアイデスから借りたあのポスターをあらためて読んでみようと思ったのですが、暗すぎて何も読み取れませんでした。
「星真珠を使うといい」
言われて初めて、僕は胸元が淡く光っていることに気づきました。服から星真珠を引っ張り出すと、やはり仄かな光ではありましたが、ぐっと近づければ物を読むくらいはできました。
「こんな使い方もあるんだ」
「そ。万能なんだ」
アイデスが得意げに言いました。
写真の女の子は、高校か中学の時に撮ったのか、セーラー服姿でした。歯を見せて笑っているのが、彼女の屈託のない性格を思わせました。失踪からすでに数か月。どこで何をしているのでしょう。派手な髪の二人組が多少の軽蔑を含めながら言っていたように、本当に、都会で、派手に暮らしているのでしょうか。こんなポスターを作るくらい、必死に自分を探してくれるような親に黙って……。
ぼろろろろっ。
突然の大きな音に、僕はぎょっとして顔を上げました。
巨大な何かが、草を踏み倒して海岸に降りてきます。暗闇の中で、それは物凄い勢いで砂を巻き上げ、海岸を走ってきます。
かすかに雲が晴れました。
雲間から差した月光のおかげで、やかましい音を吐くものの正体が、大きな白い車だと気づきました。大家族が乗るようなバンです。
それは僕と、いつの間にか僕の前に立ちふさがったアイデスの、ほとんど目の前で止まりました。巻き上げられた砂がアイデスの足に吹き付けました。
あ、ふたりじゃん。
そういう言葉が聞こえた気がしました。
バンのドアが乱暴な音を立てて開き、若い男の人が二人、出てきました。出てきた二人は細身で、小ざっぱりした服装をしていたので、僕は少し、意外だ、と感じました。
「こんばんは」
アイデスは静かに言いました。珍しく、その顔に笑みはありません。
「こんばんは」
相手は微笑んで、挨拶を返しました。

5
一人は煙草を吸って、一人は酒瓶を持っています。
「お姉さんたち、散歩ですか?」
煙草の男が言いました。まだ子どもから大人になりかけのような、少し高い声でした。くりっとした目をしており、声と相まって、可愛らしい印象です。
「ええ。家族みんなで来てるんです。みんなは向こうにいます」
わあんとアイデスの声が反響しました。僕はアイデスを見上げました。アイデスはしれっしています。男たちは「そういえば向こう、賑やかですね~」などと言って笑っています。僕の耳にはその場にいる自分たちと、潮騒の音しか聞こえないというのに。
「この辺にはよく来られるんですか?」
アイデスが尋ねると、酒瓶の男が答えました。
「そうっすね~。まあ、ホームみたいなもんっすよ。マイホームっすよ!」
何がそんなに面白いのか不思議なほど、酒瓶の男は、けたけたと笑いました。話すたびに首をひょこひょこ動かすのは、初めこそ気づきませんでしたが、どうも自分の言っていることにいちいち頷いているからのようです。
「じゃあ、この辺りで、変な人を見かけたことはありますか?」
「変? 変っていうのは、どんな変ですか?」
そう言った煙草の男の目が、一瞬、ギラッと光りました。ただ偶然に煙草の火が反射しただけかもしれませんが、僕は無意識に、アイデスの陰にさらに深く逃げ込んでいました。
「いえね。ここらで、女の子が不審者に追いかけられたって話がありましてね。それで」
「ああ~、こういう夜中に女の子が歩いてちゃだめですよねぇ!」
アイデスの言葉を、酒瓶の男が遮りました。わざと遮ったというより、アイデスの言葉に過剰反応をしているような、妙に前のめりな感じがありました。
「ここらは物騒なんですよぉ! 夜でもあったかいからか、ホームレスもいるしさあ」
「そうそう。まあそう言ってもね、相手が変とか以前にね、女の子が夜中にこんなとこ一人歩きしたらね、そりゃ事故りますよ」
「へえ。そうなんですか」
アイデスは目を細めました。
「でもそういうのって事故とは言わないでしょう。加害者がいるんだし、事件では?」
「いやいやあ。だってさあ、こんな暗いとこをっすよ。一人歩きなんて駄目でしょ。そんなの、自分から車に飛び込むようなもんっしょ」
酒瓶の男が言いながら、うんうんうんと首を前後に動かします。ふと、なぜ彼が頷く理由に察しがついて、僕はぞっとしました。彼は、自分の言っていることを全て肯定しているのです。
「その女の子って、お姉さんの同級生ですか?」
煙草の男が急にアイデスに言いました。
「いいえ。この子の同級生ですよ」
二人の男は一瞬黙りました。それから、笑いました。ざらついた笑みでした。
「その年で夜遊びするような子は、そりゃあ駄目だわ」
「君も、家族と来てるとはいえ、夜遊びはよくないよ」
急に自分に矛先が向き、僕は瞬間的にムッとしました。男たちの高圧的で、人を見下した物言いは、如何にも不愉快でした。そのうえ、小冬や僕の何を知っていて、そんな決めつけたような言い方をするのでしょう。
普段なら黙っていたかもしれませんが、気づけばアイデスの陰から一歩踏み出して、僕は言い返していました。
「ここ、小冬はそんな奴じゃねーよ。オレとは全然違って、めちゃくちゃいい子なんだから」
ふたたび、その場が静まり返りました。僕は動揺しました。何か、今度は僕の方が、失礼なことを言っただろうか。そんな不安がよぎって、自分の言ったことを反芻したりもしました。いや、やはり、間違ったことも、特に失礼なことも言っていない……。
「いま、君さあ……”オレ”って言った?」
沈黙の殻を破ったのは、酒瓶の男の笑いを含んだ声でした。凍り付いた僕に、煙草の男が、ライターを掲げ、マジマジと顔を覗き込みます。
咄嗟に、僕は、素早く一歩下がりました。光から逃れようとする惨めな虫、そのものの仕草でした。
アイデスが「星真珠の子」と僕を呼びました。しかし僕はそれすら振り払って、闇に向かって一人、走り出しました。

6
僕は階段を駆け上がり、歩道に出ました。そのまま一人で走り続け、やがて息が切れ、足が止まりました。
視界が滲んで、息がうまくできませんでした。あふれてくる涙のせいだと気づいても、どうしようもありません。悲しみであふれる涙は止められない。アイデスの言った通りです。
『”オレ”って言った?』
酒瓶の男の声が頭の中に蘇りました。それは二重の声となっていました。嘲りのイントネーションから、その文言まで、全く同じことを、僕は昔も言われたことがあったのです。
またも目から涙が溢れ、僕は拭いもせず、とぼとぼと歩き続けます。男たちとの出会いはあまりに予想外でした。こんな人気のない海で、よりによってなぜあんな、失礼な態度を取る連中に会ったのか。だんだんと悲しみが、怒りに変わっていきます。
自分がこんな夜の海にわざわざ来たのは、あんな連中に嘲られるためではありません。
僕がここに来たのは……。

『気にしないで良いからね』

不意に、優しい声音が思い出され、僕は思わず立ち止まりました。

7
小学校に入ったばかりの頃でありました。
まだ授業もまともに始まっておらず、もっぱら、生徒たちの自己紹介や交流に時間が使われておりました。
ほとんどの生徒は銀波幼稚園からそのまま上がってきており、幼なじみで親友の秋次郎含めて顔なじみでしたが、小学校入学に合わせて別のところから来た初対面同士の子どもも多かったためです。
その時の僕は、それほど不安なことや心配は抱いておりませんでした。無邪気を通り越して無知だったのかもしれません。その日に至るまでの自分を取り巻く世界が狭く、優しい人たちだけで構成されていて、あまりに幸福だったことに気づかない程度には。
『は、は、はじめ、まままして。オレ、オレの名前は、若草、で、です』
みんなの前に立ち、僕は毎回、そのように自己紹介していました。
ある休み時間のことです。先生が教室を出ていき、秋次郎が何かを質問するためかその後を追っていきました。
僕の前の席の女の子がくるりと振り返りました。
『ねえ、どうしてそういう話し方をするの?』
最初は、彼女が何を言っているのか、よくわかりませんでした。それゆえ、素直に尋ねました。
『そ、そ、そういう話し方って?』
『それ。ど、ど、どうして、そ、そ、そういう、はははなしかたするの?』
僕はぎょっとしました。僕のしゃべり方にたいして、純粋に彼女が疑問を持ち、真似ただけならばまだ受け止められたかもしれません。いいえ、やはり傷ついたかもしれません。わかりません。
彼女の問いに、意地の悪い意図が含まれているというのは、続いた言葉からも明らかでした。
『あとさ、自分のこと、”オレ”って言った? それも、変。あんたは、私、とか、あたし、って言わないとなんだよ。変だから』
立て続けに言われて、僕の頭の中は真っ白になりました。
押し黙って、彼女の、歪んだ唇を見ていました。
僕の吃音になってしまう癖は、話し始めの頃からでした。母や先生方と一緒に、ゆっくりと治している途上にありましたが、悪し様に指摘されたことは、それまで一度もありませんでした。
僕は本を読むのが好きだったので、いろいろな一人称があることは既に知っていました。その中で、自分に最もしっくりくるものを使っていただけです。漫画の中の憧れのヒーローも、秋次郎だって「オレ」と自分のことを言います。僕が使って悪い理由など、あるのでしょうか。
ないはずだ。僕は内心でははっきりと言い返していましたが、目の前でまるでそれが大罪のように振る舞われると、声にはなりませんでした。彼女が僕を見る目は、何か得体の知れないものを見るような目です。
僕は何も言えません。何かをいったら、またそれを、揶揄される気がして、恐ろしかったのです。
僕は俯き、ただ震えていました。
その時でした。
『どうしてそういう言い方するの? その子は何も悪いことしてないでしょう』
突然、怒りを孕んだ声が、教室に弾けました。
見上げた先にいたのは、これまた初めて見る女の子でした。
前の席の子の頬が、さっと赤くなりました。
『言い方って、なに? 別に、ちょっと気になったから、聞いただけじゃん』
『そう? 私には、すっごく責めてるように聞こえたけど。ていうか、人の話し方にどうこう言うくせに、そうやって自分の話し方については逃げ道を作るの、ひきょうよ。自分の話し方にも自覚がないなら、他の人の話し方に、口を出す資格なんてないと思う』
二人は睨み合いました。
最初に目をそらしたのは、僕の前の席の子でした。ぷいっと前へ向き直ってしまったので、その後、彼女がどんな顔をしていたのかはわかりません。
『気にしないで良いからね』
隣に立っている少女、小冬は、先までの怒りを孕んだ声とは裏腹の、大変優しい声で言いました。
そして僕は……僕は何も、答えませんでした。僕は、それから一日、ずっと沈黙していました。

ブウン、という車のエンジン音に、僕は、今いる場所と時間へと呼び戻されました。
あの日のことを、これほどはっきりと思い出したのは初めてでした。
熱くなっていた頭を振って、僕はため息をつきました。
まだ一年生だというのに、小冬はなんとはっきりと理屈を通す子だったことか。
彼女の小気味よさを思い返して、笑いがこみ上げました。涙はまだ乾ききってはいませんでしたが、新しい雫は流れてきません。
僕は暗い海をぼんやり眺めました。 小冬も眺めたであろう景色を。
あの日の小冬は、素晴らしく格好いい人でした。
僕と同じ、六歳でした。 僕と同じ、小学校に入ったばかりで。
僕と同じ、女の子でした。
けれど小冬は、僕には無かった、勇気を持っていました。襲い来る悪意に反抗する力を持っていました。打ちのめされかけている相手に、かける言葉を持っていました。 それはまさしく、僕が憧れてきたヒーローの行為と姿です。
それなのに、なぜ今の今まで、憧れるどころか、彼女を避けてきたのでしょう。彼女のことがあれほど苦手だったのでしょう。
波の音を聞き、自らの心と向き合ううちに、その答えも見えてきました。
小冬は非常に勇敢でしたが、当時の僕はその凄さに気づけるほどの度量はありませんでした。正論を大声で主張する小冬の強さに、僕は逆に打ちのめされてしまったのです。前の席の生徒に対してよりも、小冬に対して、言いようのない悔しさを覚えました。それは憎しみにも近い感情でした。強すぎる光を嫌う、闇の怪物の持つような気持ちです。
そこまで理解したとき、僕は、はじめて、”小冬”のことを想いました。苦手な女子の一人としてではなく。好きな女の子に格好いい姿を見せたいがための、一種の舞台装置としてではなく。
小冬という一人の人間が、ここで何を思い、何を感じ、そして、どうして今、白い扉の向こうで一人蹲っているのか。 心の底から、理解したいと感じたのです。あれほど強かった人に、いったい何が起きたのかを。
僕は鼻水を拭い、大きく息をつきました。手足に感覚が戻ってきました。あたりは薄暗いのですが、ちょうど街灯の下にいたので、自分の指先くらいまでは見えました。
泣くだけ泣いた後の疲労感はありましたが、頭は妙にすっきりしています。
まずは、アイデスのところに戻ろう。
僕はそう思いました。あの二人がまだいるかもしれませんが、今の気分であれば、無視するくらいはできそうだ。そう考えて、後ろを振り向きました。
凍り付きました。何度か瞬きをしました。
しかし、後ろの街灯の下に立っているモノは、消えませんでした。

8
ソレは一見、人に見えます。手をだらりと両脇に垂らし、ただそこに立っているだけの。しかしその手指が床に擦れながら揺れているのが、あまりに異様でした。
けぇ―――――――――――ぃれ ……
ソレはか細く鳴きました。口が動いたのかは分かりません。街灯は上から光を捧げているはずなのに、首から上が闇に包まれていて、顔が見えないのです。魚が腐ったような匂いが鼻を突き、僕は思わず顔を顰めました。
僕がじりっと後ずさると、それは同じように、じりっと動きました。ボロボロではありますが、『怪物』のくせに、きちんと靴は履いている。何故かそんなどうでもいいことが気になりました。心臓が、どっどっ、と激しく脈打ちました。
僕はこの『怪物』を、確かに退治したいと願っていたはずです。そのために人魚姫まで頼ったのですから。
しかし、こんな形で、一人で向き合う事態は予測していませんでした。
アイデスはまだあの男たちと話しているのでしょうか。どこにいるのか。僕がわずかに視線を泳がせた、その時です。
けうぇー!
急に『怪物』が大声で鳴きました。僕は考える暇もなく、背を向けて逃げ出しました。
夢で見たシーンの再現のようでしたが、やはり実際の恐怖は比べられるものではありません。『怪物』の指先が時折届いてきて、僕の髪をぴしぴし叩きました。そのたびにむっとする匂いが迫ります。
走りながら、必死に考えました。自分が倒れてしまう前に。走り疲れて、立ち止まってしまう前に、立ち向かわなければ。
何か。今まで見た、聞いたことに、『怪物』を倒すヒントはないか。
『君は星真珠だけ持ってれば問題ない』
アイデスののんびりした声が頭に響きました。僕は胸元に視線を落としました。星真珠は相変わらず微かに光っています。
光……。夢で見た小冬の最後の映像が思い出されました。小冬の前方から強い光が走り、そして高い悲鳴が……。
その二つの事実が頭の中で結びつくや、僕は残った力を振り絞って、走る速度を上げました。
『怪物』はまだ追ってきます。息遣いが耳に直接吹き込まれているような近さに迫っています。『怪物』の手が、首筋に触れ……。

僕はその瞬間に、反転しました。『怪物』に向かって、走り出したのです。同時に、襟元から星真珠を取り出しました。
『怪物』の胴と思しき場所へ、思いきりぶつかりました。ぐにゃりとした肉の感触。不快な匂いが僕を包みました。僕は目を瞑って、がむしゃらに星真珠を振り回します。すると、星真珠は光を増した、ように感じました。
『怪物』はたじろぎ、やがて抵抗を始めました。触れている部分が、僕をもぎ放そうとうねっているのを感じました。僕は腕に渾身の力を込めて、『怪物』を締めあげます。
効いている! 苦しんでいる! やはりこいつは光に弱いのだ。
そう自信を持ちかけた瞬間でした。激しく突き飛ばされて、僕は現実に帰りました。があんと鈍い痛みが、コンクリートに打ち付けた足から脳天に突き抜けました。
「う、うそつき……」
今でこそ笑ってしまうのですが、本格的な命の危機を感じた僕の発した第一声は、アイデスへの恨み節でした。今この場にいてくれないことと、星真珠が全く役に立たないことへの文句を凝縮した「うそつき」です。
見上げた先に、ソレが両手を大きく広げていました。まるで闇が僕を覆いつくそうとしているようです。
「誰がうそつきだって?」
くすっという含み笑いが、僕の耳をくすぐりました。
闇の背後から、高く高く跳躍した彼女は、闇を引き裂くように、星真珠よりも月光よりも強く、白く輝いておりました。その片手には鋭い短剣が握られていました。

白銀の刃が『怪物』を刺し貫きました。ぞっとするような悲鳴を上げて、それがのたうち回ります。しかしアイデスは容赦なく、柄頭にもう片手も添え、体重をかけて抉りました。
その途端、『怪物』の傷口から、パッと紅がほとばしりました。血よりももっと鮮やかで、断末魔そのもののような、悲しい手触りの紅でした。
アイデスは短剣を引き抜くと、無造作に傷口へ手を突っ込みました。しばらく中をまさぐり、やがて目当てのモノを見つけたようで、手を引き抜きました。
その指先には、黒い真珠玉らしきものが、摘ままれておりました。

9
「怪我はないかな、星真珠の子?」
アイデスが涼し気に聞くので、僕は彼女の脛に蹴りを入れました。金属と骨がぶつかった時の理不尽な痛みが、僕の足にだけ、響きました。
僕はその場に蹲りながらも、何のダメージも無い彼女を睨み上げました。
「い、今まで何してたんだよ」
「さっきの阿呆たちにいろいろ聞いてから、こう言った。今日私たちと会ったことは忘れて、家に帰りなさい。そのあとは、君をずっと探してたよ」
アイデスは僕の足に手をかざし、耳元へ囁きました。
「痛みは消え去る。あなたは普通に立って、歩くことができる」
頭の中でアイデスの声が反響します。音が水を伝うように、それは心地よい揺れを伴って、僕の身体中に染みわたりました。僕の奥底から、僕の声で、はい、と答えるのが聞こえました。
「一応、明日、医者に見せるんだよ」
立ちあがった僕にアイデスは言いました。
まるで魔法のような治療に一瞬ほだされかけましたが、すぐに僕は怒りを思い出しました。
「ほ、星真珠は、なにも役に立たなかったぞ」
「一応、星真珠の光を見て駆け付けたんだけどなあ。でもまあ、それが本領発揮するのはここからだから」
それはどういう意味か。問おうとした時、アイデスが跪いた先、倒れている『怪物』をあらためて見やり、驚きました。
どう見ても、人間です。
異様に長かった手足は、病的にやせ細ってはいますが、普通の長さです。黒い霧のかかっていた胴体や顔も、今はすっかり見えています。上下サイズがまちまちで、ボロボロの衣服。顔は薄汚れて、髭に覆われています。
「あなたはもう大丈夫。安らぎの場に戻って眠りなさい」
アイデスが耳元に囁くと、男はゆっくりと目を開けました。しかしその目は僕たちを映しておりません。どこか夢見心地の顔つきで、歩き出しました。

10
「そういえば、『怪物』について嘘……っていうか黙っていたことがあったから、うそつきって言われてもしょうがないところはあったね」
階段を下り、砂浜を歩いていく男を追いながら、アイデスが言いました。
「私は海の魔女が産む『モノ』を追ってる。けど、それは別に怪物じゃない。それは最初に言ったね。その『モノ』っていうのが、こいつさ」
アイデスは先ほど男の傷口から取り上げた黒い球体を見せました。あらためて見ても、黒い真珠玉にしか見えません。
「な、なんなの、これ」
「『魔女の卵』だよ」
「え、魔女って怪物じゃなく、卵、産むの?」
「うん。これが孵ると『本物の怪物』になるんだけど、この状態だとそれに比べれば、まだ全然無害なんだよね。さみしい心を持った人が近づいてくると、寄生してしまう癖があるくらいで」
人魚姫の“無害”の範囲はいまいちわかりませんが、とりあえず僕は、一番気になったことを聞きました。
「さ、さみしい心って?」
「悲しいとか、悔しいとか。涙が出てしまいそうになる、青い感情に染まった心だ」
アイデスは、前を一心不乱に歩いている男の背へ顎をしゃくりました。
「”魔女の卵”に寄生された人は、さっきまでの彼のように、異形の姿になってしまう。歪んだ鏡に、その心を写した姿にね。やがて卵が孵ると、『完全な怪物』の一部になり、人の姿には戻れなくなってしまう。だから私は、これが孵る前に回収してる……ってのが伝説の事実だよ」
海から外れた、草が生い茂った果てへとたどり着きました。男は草をかき分け、まだ進みます。
「な、なんで最初にそれを言わなかったんだよ」
「うーん……説明がちょっと面倒だったし、実際に見てもらってから言えばいいかなあとか思ったし……『怪しい生き物』って思えば、この時点でも『怪物』って呼べなくもないし……。それに、君が星真珠で真実の夢を見てくれるまでは、私も正体が『魔女の卵』かそれ以外か、はっきりわからなかったからね」
「それ以外?」
アイデスが立ち止まりました。彼女の脇から覗いてみると、目の前には木組みの、素朴な小屋がありました。
割れた板で不器用に組まれ、ようやくその場に立っているという印象の建物でした。
男は穴蔵に逃げ込む小動物のような仕草で、そこへ入っていきました。どれほどもしないうちに、いびきが聞こえてきました。
僕とアイデスは、そっと中を覗き込みました。
男は胎児の姿で丸まり、穏やかな表情で眠っています。その周囲には、小屋の大きさに不釣り合いなほどたくさんの物が置かれておりました。
がらくたにしか見えないモノがほとんどでしたか、その中で、僕の目は二つのモノに吸い寄せられました。
一つは少女の靴です。片方ですが、見覚えがありました。必死に走る小冬のビジョンの中で、彼女が履いていたものです。
そしてその横に置かれた、白海大学の学生証。運転免許証のようなスタイルなので、顔写真がついておりました。それは服装こそ違いましたが、歯を見せて笑う愛らしい笑顔は一緒でした。あのポスターの女性です。
狭すぎて小屋の中には入れないので、アイデスは手だけを伸ばして、星真珠を男の傍らへ置きました。
「あなたは何を望んだの?」
男は目を閉じたままでしたが、眉間に皺が寄り、苦悩しているような表情へ変わりました。
それに呼応するよう星真珠が輝き始め、その表面に像が結んでいきます。それを見つめるうち、僕の意識は、男の気持ちにずぶずぶと同化していったのです。

11
夕暮れ時、男は海岸に流れ着いたモノを拾っていました。こんな生活を続けて三年、年齢はもう五〇も過ぎ、最近、足腰が痛むようにもなりましたが、苦痛だとは思いません。
都会の公園から流れてきた男にとって、銀波町は居心地がよく、住みやすい町でした。都会ではホームレス仲間同士でも上下関係が厳しく、人付き合いが上手くないために会社にも家にも居場所を失った男が生きるには、厳しい場所でした。しかしここは違います。自分と同じような人はあまりおりませんし、海の恵みが毎日あります。素人仕事で小屋を建てても潮風にさらされてすぐ風化してしまうのだけは大変でしたが、日中にやることがあるのは有難いことでした。余計なことを考えずに済むからです。
その日拾ったのは、死んだ貝や魚、空き缶に何かの鉄の棒。今日の収穫は、まあまあです。既に死んでいる魚と貝をそのまま食べるのは危険ですが、どろどろにスープにして飲み干してしまえば大丈夫という謎の理屈を、男は信じておりました。缶や鉄は、もう少し溜まったら町の廃品回収に持っていく予定です。
機嫌よく寝床へ向かっておりました。が、男は途中で、ぎくりとしました。海岸に降りるための階段の脇、草が生い茂るところに、白いバンが止まっていたのです。
あれに乗っているのは、良くない学生たちであることを、男は知っていました。たいていは二人組です。一人でも十分すぎるほど残酷なのに、二人になるとさらに冷酷になります。
知らず、男は細い腕を摩っていました。腕の内側の柔らかい部分、そこに真っすぐ焼きいれられた煙草のあとは、あれから一週間も経つのに、まだじくじく痛み、一部からは黄色い汁が出ています。

若者たちは男を見つけると、「遊んであげる」と言って近寄ってきます。男が怯えた態度で断ると「失礼だ」と言って殴り、引き攣った笑みで礼を言うと、男を「灰皿」や「サンドバック」に任命します。
いま、若者たちの姿は見当たりません。バンの中にいるのでしょうか。バンの窓は前後左右真っ黒なので、中が見えません。
男は迷った末、バンが消えるまで草陰に隠れることにしました。若者たちは夕方か夜にやってきては何時間も海で時間を潰しますが、朝になると必ず帰っていくのを知っていたのです。
男は自分からはバンが確認できて、相手からは見えなそうな位置を見つけ出して、蹲りました。
隠れてから、どれほど時間が経ったのでしょう。男は少しうとうとしていたところを、話声に揺り起こされました。
若者が二人、白いバンの傍に戻っておりました、草むらに駐車されていた車は、海岸の方に出てきていました。
男は安堵のため息をつきました。車を出したということは、もう帰るのでしょう。助かった……。
しかし次の瞬間、男の身体が硬直します。二人の若者の傍に、もう一人います。
女の子です。若者たちと同年代に見えますが、擦れた感じのない、感じのいい子でした。
気の知れた友達か恋人だろう。そうに決まっている。男は己に言い聞かせましたが、断片的な会話が耳に侵入してきます。
家、どこ? 送ってくよ。同じ大学の先輩後輩、ここで会ったのもなんかの縁じゃん。
悪いですよ、そんな。歩いて帰れる距離なんで。
ここらって危ないんだよ。頭のおかしいホームレスもいるしさ。先輩の言うことは聞いた方がいいよ。
うーん。でも……。
男は思わず口を押えて、自分の手を噛みました。前歯は若者たちに折られたのでありません。下の歯が、上の歯茎が、ぐにゃぐにゃと手の肉に食い込みます。
帰れ。それに乗っちゃいけねえ。一人で帰れ。今すぐ帰れ。
最初は心の中で、やがて男は、小声でつぶやきはじめました。前歯がないせいで、音は抜けていきます。
けえってくれ……けえるんだよお。けうぇーれ……! けうぇれ!
しかし女の子は、若者たちのしつこさに根負けしたのか、ついにバンの後部座席に乗ろうと、車体に足をかけました。
開け放されたバンの中に、女の子は何かを見たか、或いは、何かを感じたのかもしれません。
乗り込もうとした態勢のまま、ぴたりと、止まりました。
それが男にとって、女の子を助けられる、最後のチャンスだったはずです。
けれど男は、草むらから飛び出すことも、「帰れ」と叫ぶことも出来ませんでした。
若者の一人が、いつの間にか女の子の背後に折りました。
女の子の頭を殴って、バンの中へ突き飛ばしました。
扉が大きな音を立てて閉められ、白いバンは不快なエンジン音を立てて、砂場で激しい切り返しを繰り返しました。
ぐるんとこちらを見たバンが、煌々と輝くヘッドライトであたりを睥睨します。巨大な二つの光に当てられ、男は「ひいひい」いいながら身を竦めました。
太陽が地平線に顔を出す頃になって、男はようやく動き出しました。
砂場には大量のタイヤ痕が残っていました。その傍に足跡もあります。ひと際小さい足跡を眺めて、男の喉からは知らないうちにうめき声が上がっていました。
靴跡の傍らに、何かが落ちていました。砂に半ば埋もれたそれを、男は拾い上げました。
白海大学。学生証。少女が、歯を見せて笑っていました。 
それから数日後。いつものように海岸でモノを拾っていると、二人の男女が掲示板の前にいるのを見かけました。海に入る注意点くらいしか書かれていないので、ほとんど誰も見ようとしないはずの掲示板を、男女は食い入るように見つめています。
女性は分厚い紙束を抱きしめるようにしています。男性はその一枚を、掲示板に貼り付けました。二人の顔には暗い影が落ちていて、引きつった唇は真っ白です。
二人がのろのろとその場を去ってから、男は掲示板に近寄りました。
『この人を探しています。白海大学一年生』
男はぎくしゃくした動きで、その場を離れました。
不意に空から、ぼたぼたと大粒の雫が落ちてきて、男を叩きました。海に目をやると、波はいつもより穏やかなくらいでしたが、どす黒く染まっています。嵐の気配です。
男は機械的に歩き、たまに何かを拾い上げながら、じっと考えていました。
あのとき、もっとちゃんと「帰れ」と言えていたら。
勇気を出して、飛び出していたら。
頭のおかしいホームレスだと思われても、追い立てて、逃がしていれば。
くうっという、赤ん坊がむずがるような音がしました。それはいつまでも止まりません。自分の喉から鳴っている音だと気づいた途端、男は膝から崩れ落ちました。
先ほど拾ったモノたちを握りしめます。震える男の背後で、雷鳴が躍っています。
空き缶、鎖の切れたネックレス、貝殻、黒く丸い真珠。空き缶のギザギザ部分が男の手のひらを裂き、血が滴りました。
男の血を吸った黒い真珠から、闇が迸りました。
それは静かに男を包み込んだのです。

12
アイデスはその夜も、僕を家まで送ってくれました。
「 『魔女の卵』は回収できた。これで君の追っていた『怪物』はもういないわけだが……」
僕は無言で、玄関を見つめていました。帰り道の間も、ずっと無言でした。
「君が”救いたい”と言った人は、まだ扉の向こうにいる」
僕はアイデスを振り向きました。ずっと考えていたことを見透かされた心地でした。
「今日の夜、星真珠を枕元に置くかは、君自身で決めるといい」

13
アイデスの言うとおりです。一応これで、僕の当初の目的、夏乃に小冬が語った物語に登場する『怪物』は、 いなくなったことになります。しかし……。
なぜ小冬が裸足で帰ってきたのか。なぜ、大人が総出で彼女を見つけられなかったのか。彼女を救った光は何だったのか。
答えの見当がついている謎もあれば、まったくはっきりしない謎もあります。しかしその全てが、ここで終わっていいのか、と僕を責め立てます。
迷いに迷った挙句、僕はその夜も、星真珠を枕元に置いて眠りました。嫌な予感しかしません。見たいわけでもありません。しかし、見なければならないところまで、自分は来てしまったのだとも感じておりました。
ぎゅっと目を瞑り、夢を待ちました。
次に目を開いた時、僕はあの夜の小冬になっていました。
激しい息切れ。背後からは鳥のような鳴き声と、髪を叩く手が追ってきます。力強い光が、前方から迸りました。
今の僕には、それが何なのか分かりました。だめだ! と叫びました。しかし小冬となっている僕の口からは、何の言葉も出ませんでした。
車道から歩道に勢いよく乗り上げてきた白いバンは、小冬の目の前で急停止しました。
「乗れ!」
後部座席が空き、あの酒瓶の男が小冬に手を伸ばしました。小冬は考える間もなくそれを掴み、白いバンの中へ飛び込みました。
バンは激しく切り返しながら車道へ戻り、すごいスピードで走り出しました。運転手は煙草の男です。二人の男は歓声を上げて、座席やハンドルをバンバン叩きました。
小冬は息を整えるのに忙しく、その様子に何を想う余裕もありませんでした。
酒瓶の男が小冬に尋ねます。
「なにから逃げてたの? 熊?」
小冬が話すより先に、煙草の男が答えます。
「この辺に熊はいねーだろ。鹿だ、鹿」
「でも手足長かったよ。猿じゃない? うきっきー」
酒瓶の男が鼻の下を伸ばし、小冬にぐいっと顔を寄せます。小冬はなんとか愛想笑いを返しました。

そのやり取りを、煙草の男はミラー越しにじっと見ておりました。そして、唐突に大きなため息をつきました。
「でもさ、そもそもこんな時間にこんなとこ歩いてたあんたが悪いんだからね」
あんた。小冬は本能的にその呼び方へ反発しかけました。しかし実際、夜に道を歩いていたことは悪いことだと感じておりましたし、彼らに助けられたという事実もあります。
大人しく反省した態度を貫くと決めました。
「はい」
「はい、かあ。本当にわかってるの」
「はい」
煙草の男の声が高くなりました。
「わかってないんじゃない? わかってたらさあ、わかりましたって言うじゃない。わかってないから、そういう言い方するんじゃない?」
「いえ。本当にわかっています。お二人にもご迷惑おかけして、すみませんでした」
しばらく車内は静かでした。
「それってやっぱりわかってないんじゃない?」
「え?」
「自分がしたことがどれだけ馬鹿なことだったかってこと。自分が悪いんだよ。女の子のくせにさ、深夜歩いてたら危ないってことくらいわかるじゃん、考えなくても」
「……」
小冬は無言でした。言い返せないのではありません。言い返すのは、危険だ、と今や察していたのです。それは正しくはありました。しかし、だからと言って、いまさら小冬が何をしようと、これから起きる事態を、回避できるわけではなかったのです。
ぐんっと車体が偏りました。煙草の男が急ハンドルを切り、車道から歩道へ、そしてそのまま、海岸へと長い草をなぎ倒しながら、突き進みます。
小冬は思わず悲鳴を上げましたが、男二人は慣れているようで、動物的な騒がしい笑い声を上げておりました。

その後見た夢の内容を、僕は断片的にしか覚えておりません。
確かに見たのですが、子細に記憶したくないという気持ちが強すぎて、切れ切れの事実として残っております。
小冬が裸足だった理由はわかりました。
急に海岸に降りて行ったあと、二人は小冬を砂場に突き飛ばし、靴を脱ぐよう命じました。そして、自分たちは白いバンに乗り、小冬を執拗に追い回しました。砂がこすれて足裏が血で汚れるまで、時折転んで手にまで傷を作りながら、小冬は必死に走ったのです。
ついに走れなくなった小冬を、男たちはまるで荷物を扱うように積み直して、その場を去りました。靴はそこに取り残されていました。きっと後ほど、あの男性が拾い上げたのでしょう。
白いバンは走り続け、やがて、白い大きな家の前で止まりました。家と言うより、豪邸と呼ぶべき建物です。
大きな庭がありました。小冬は、そこの水道で、手を洗われました。煙草の男が「家を汚されるのは嫌だから」と言ったのです。洗ったのは、酒瓶の男です。「おうおう」と奇妙な節をつけながら、小冬の手を物凄い強さで、ごしごし洗いました。
砂は落ちましたが、足と同様に擦り傷だらけだった手は、無慈悲に擦り合わされた為に、傷が開きました。
小冬は黙ってされるがままになっています。目はぞっとするほどうつろでした。
小冬は今、何を考えているのでしょう。咄嗟にそう思った僕の頭に、彼女の感情のない声が響きました。
ごめんなさい。
僕は飛び起きました。泣きました。

13
「ひどい夢だったね」
「ほ、本当に夢だったらよかったのに」
僕はその日の夕方に、ふたたびアイデスの船に来ておりました。船の中に入れてもらったのは初めてでした。壁には物珍しいものがたくさん飾られていて、普段の僕なら大興奮だったかもしれませんが、その時は小さな丸テーブルに突っ伏して、ふいに浮かぶ涙をのみ込むのが精一杯でした。
「誘拐された人は、自然と誘拐犯に気に入られようとするんだ。どうやって逃げようとか、まともなことも考えられなくなる。それは人の防衛本能だよ」
アイデスは慰めのつもりなのか、淡々と言いました。
僕は鼻をすすりました。
なぜこれほど涙が出るのか、実を言うと良くは分かっておりません。小冬の身に起きたことを 哀れに思っているのか。怪物さえ倒せば、何もかも解決すると思い込んでいた自分の幼稚が恥ずかしいのか。
全部か。そう気づくと、僕はもう耐えられなくなり、テーブルに強く頭を叩きつけました。
「か、『怪物』を倒しても、なんも解決しなかった。そもそも『怪物』なんていなかったんだ。みんな、人間だったし」
「そんなことはないさ」
アイデスは小さな冷蔵庫からアイスバーを二本、取り出しながら言いました。
「『魔女の卵』を放置していたら、あの男の人は本物の怪物になってしまったはずだ。君が来てくれたおかげで、私はかなり早期の卵に対処できた。あの男の人に辿り着かなければ、小冬さんが本当に怯えている、『怪物』のほうには辿りつけなかっただろう」
アイスを片手に持ったまま、アイデスは義足から短剣を取り出しました。夜闇のなかであれほど力強く輝いていた剣は、よくよく見てもやはり美しい代物です。アイデスによく似ています。
「あの時、君をおとりみたいに使ったのは、悪かったと思ってるよ。でもね、『魔女の卵』はこの短剣じゃないと取り出せないんだ。しかも、人魚族にしか使えないときてる。だから、あの怪物退治は私がやらなきゃいけなかったんだ」
「も、もういいよ。怒ってないから」
「いや、別に謝ろうとしてるわけじゃない」
「……」そこは謝ってほしいところでした。
「私はただ、私じゃないと卵を殺せなかったように、君には君にしかできないことがあるって話をしたいんだ」
「……そ、そんなことあるわけないよ」
もう僕は嫌という程、自分の平凡さに気づいておりました。物語の登場人物のようなことができるのは、やはり目の前にいる人魚姫のような存在です。
言葉で人を操り、黒い義足に短剣を忍ばせ、密かに人を救う。水の中にあっては、美しいヒレを持ち自由に泳ぎ回る。
それに比べて、僕はどうでしょう。目を閉じて、テーブルに額を押し付けます。
自分の言いたいことも、きちんと言葉にできない。気にしていることを指摘されると泣いてその場から逃げ出してしまう。人の身に起きた悲劇から、その人の気持ちをきちんと想像もできない。考えれば考えるほど自分の駄目なところが思いついて、ずぶずぶと自己嫌悪に沈みこんでいきます。ヒーローになりたいなどと、よく考えたものです。
「”悪いやつのせいで、優しいひとが悲しい顔をさせられるのは、おかしい”」
僕は、のろのろと顔を上げました。目の前に、袋入りのアイスバーが差し出されました。
「人を傷つける『怪物』は、この世界にはたくさんいる。一方で、誰かを救える人は、本当に少ない。君はすでに、英雄成りえる心を持っている。あとは、行動するかしないかだ」
アイデスの赤い瞳が、水色の氷越しに、ゆらゆらと淡く燃えています。
「誰かを救うことは、怪物を倒すよりも難しい」

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