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京介


かつて立派なオタクだった私は、小学校高学年の時期には、クラスの友だちと交換マンガを描いたり、オリジナル小説を書いたりしていた。
その際にキャラクターの名前を考える中で、特に気に入った名前があった。それが“京介”。
なんとなく京という漢字ときょうすけという響きが好きで、その名前はやがてイベントなどで男装をした際、「双子の兄の京介です」と名乗るのに使っていた。

いつだったか、もう十年以上前のある時、おかしな夢を見たことがある。

夏の暑い日、私は海沿いの街に出掛けていた。
海の中、浅瀬に建てられたアスレチックで水飛沫を上げながら遊ぶ子どもたちを横目に、ガードレール沿いの坂を登ってゆく。やがて、左手に大きなお屋敷が現れる。そこを訪ねると、こう質問するのだ。
「京介君は居ますか?」
中に招き入れられ、その屋敷の中を探してみる。しかし彼——京介君——は居らず、なぜか私は、代わりに小さな男の子と手を繋いで屋敷を出るのだ。
元来た道を戻り海を左手に坂道を下ってゆくと、いくつか店が立ち並ぶ中にシャッターが下りた小さな電気店がある。
シャッターには、手描きの可愛らしい海の生き物がニコニコと並んでいる。
私はその店の前で立ち止まり、手を繋いでいた男の子にこう言うのだ。
「ここがね、京介君の家」
と。
すると男の子が問う。
「いいの?京介君は」
「うん」
私はそう答え、男の子の手を引いて坂道を下ってゆく。
西陽の強い夕方、坂を下りながら
「暑いね。この坂を下り切ったら、一緒にアイス食べようか」
と訊くと、男の子が
「うん」と返事をした。
そこに平沢進さんの「ロタティオン(LOTUS2)」がまるで映画のエンドロールのように流れ聞こえ、私はずっと坂を下ってゆく。そこで目が覚めた。
目が覚めた時、私はひどく泣いていた。

そんな不思議な夢の話を母にしたところ、母はとても驚きながら「そっか、話してなかったか」と初めて聞く話を聞かせてくれた。
男の子を産むかもしれなかったこと。
そして子どもの性別が男の子だった場合、京介と名付けられる予定だったこと。
それを聞いて背筋が少し薄ら寒くなった。
怖い、という感覚とは違うのだが、そんな偶然があるのだろうかと、母と暫し話し込んだのを今でも忘れない。

私が夢で“京介”を訪ねて行ったのに出会えなかったのは、生まれるはずだった彼が消えたことの暗示なのか。
小さな男の子を連れて帰ったのは、その子こそが生まれなかった京介で、今も小さく私の中に存在しているのか。
私は生まれるギリギリまで性別がわからなかったというような話は以前にも書いたが、もしかしたらそれは、バニシングツイン(生まれる前に片方が消えてしまう双子)だったりしたのだろうか。

何せ母の担当医は、帝王切開で私を取り上げる際に飲酒していて、腹の中の子ども(私)の顔にメスをブッ刺しそうになった医者である。
さらには出産直後の母に「あと数センチずれてたら顔にメスが刺さるところだったよ笑」と伝えてしまうほどのデリカシーの無さだ。
生まれる子の性別が曖昧でも、双子の可能性があったとしても何らおかしくはない(と思ってしまった)(まぁこういうのも“時代”、だな)。

こんなのは雲を掴むような話ではあるが、もしも“京介”が私に入り込んでいたとしたならあまりに心当たりがある。
私は性別上“女”に生まれてしまったから、“女”として自分が満足のいく生き物であるように努力している。可愛く在るように、好きな服が似合うように。
けれど時折それが困難になる時がある。
トランスジェンダーやXジェンダーだとは微塵も思わないのだが、不思議と、“どっちも”存在しているかのような感覚。
これは母から京介の話を聞くよりもずっと前からあったものなので、母の話を聞いた時はその感覚もスッと腑に落ちた。

あくまで私の中だけの感覚だし、誰にも真実はわからない。
ただ、兄が欲しかった私にとって、「もしかしたら」が少しの生きる希望に成ったのは、間違いないのだ。

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