話す。思い出す。嬉しい。

ヨノナカの色々なことで、ちょっと精神的に参っていたのですが。

Webのとあるところでね、もう何年も話をする人が居まして。
だいたいいつもバカ話なんですけども。

で、偶々。
本当に薄いけどもそれ以前に、とある人物とのお仕事でつながっていたことが先程わかりまして。
その中心の人、今はもうどう足掻いたって、いくらお金を積んだってもう合うことが叶わない人なんですけども、その人の苗字が出てきまして。

ああ、そう言えばあの会社の人だよな。
お仕事を間接的にお願いしたよな。
一度だけ小一時間会ってお話したよな。
俺の記憶には全然ないけども、そのバカ話友達もその場に居たかもしれない、時期的に会ってるかもしれないと吃驚仰天しまして。

まあその中心の人は女性なんですが、すごく「カッコいい」方でして。
41年8ヶ月の人生の内、たった60分にも満たないくらいの対面だったんですが、そのカッコいい印象は少しのキッカケでブワッと記憶が掘り起こされて。

その人の話になったら、なんかいつものバカ話じゃなくて。
楽しかったよね、良かったねと、カッコよかったよねと。
なんかお互いにいつもの調子じゃなくてしんみりしちゃって。
湿っぽくはならなかったけど。

その中心の人には、決してもう会って話すことはできない。
例えどんなに技術が進歩しても無理なんです。
なのですごく寂しい、はずなんだけど。
話して思い出して、その中には確かに生きているんですよ。
忘れていない。
覚えている。
間違いなく、同じ人を見ていた。
そして、その人について話せる。

それって、実はすごく嬉しいってことに気が付きまして。

あの…
最近のヨノナカと僕はすごくナーバスになっていて。
これをnoteに書いていいかどうかわからないのですが。
公開設定のボタンを押すまで迷うのでしょうが。

また、いのちの話です。

僕は中心の人にもう会えないと知ったのはここ数年の話。
でも、バカ話友達はそれよりずっと前に知っていた。
そして中心の人に大きな敬意を持っていた。
僕も中心の人には溢れる才能とカッコよさと強い芯を見い出していた。

普通、悲しむよね。

でも、確かに存在していたんだと言うことのほうが嬉しくて。
本当に嬉しくて。
嬉しくて。

ここ1週間、日本では色んなことが起こりすぎて。
ちょっとみんな疲れちゃったりナーバスになっちゃってたり。
いくら耳を塞いでも聞こえてきちゃうし、気になっちゃう。
それは仕方ないことだと思うんです。

それでも、それでもね。
僕らは生きていれば眠くもなるし、お腹も空く。
トイレにも行きたくなる。
それを繰り返し繰り返し。
地球の上で回って回って。
またそれを繰り返し繰り返し。

そうするとね、記憶はやっぱり薄れていくんだ。
日常生活に於いて思い出すことはどうしても少なくなるんだ。
やっぱり忘れていくんだ。

で、ふと思い出す。
その事一つを切り出したら本当は悲しいんだけど、でも、確かにその人は居たという事実も確かに存在していて。
その存在していたこと、それ自体が嬉しいということに気づきまして。

もう会えない人がいる。
もう話せない人がいる。

だから。
今は難しいかもしれないけれども。
ずっと覚えているのも辛い。
そこで足を止めたら、その人は悲しむだろう。
それでも歩いて、日常に生きて。
悲しみを薄れさせて、消化させて。
地球の上で回り続けて。
いっぱい眠って、いっぱい食って、いっぱい屁をこいて。

それでもきっと完全に忘れていないのだろう。

普段は忘れちゃってもいい。
ふと思い出せばいい。

辛すぎることは横に置いて、今を生きて行って。
僕らは僕らの時間をそれぞれ生きて、それぞれ暮らして。

でも、ふと思い出して。

そのことを喜ぼう。

悲しいことは自分の意志と関係なく起きていて。
それに対して為す術は本当に数少なくて。
だから無力を感じちゃったり。
必要以上に悲しくなっちゃったり。
怒りでいっぱいになっちゃったり。
それはそれで仕方ない。
それが人間だもん。

でも、ちょっとでいいから歩いて。
回って。
自分の人生を進めて。

あの人、いい仕事したよね。
ああ、そうだよね。
懐かしいな。
懐かしいね。

あの仕事、良い思い出だよね。
絶対にね、そういう時間は訪れてきてね。

今すぐになんて言えないけども。
心の整理がついてからでいいんだから。
ナーバスを乗り越えて、少しづつ歩いていって。

未来に、そう言う人が居た事実を喜ぼう。