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アタシ問答

はじめに

 ようこそ、はじめまして、この世界へ。これは、野村浩平という人の記録です。2011年の秋頃から翌年6月の誕生日前日までの数ヶ月間、ほとんど毎日、多くは起床してすぐに、パソコンをひらき、その瞬間に頭に浮かんだ言葉をひたすらタイプしたものです。無心を努め、文章として成立させようとする習慣をできる限り手放し、野村浩平の書記のような気分で打ち込みました。故、なかなかに読みにくいかと思いますが、慣れてきたら慣れてくるかと思いますので、どうぞよろしくお願いします。

人間に興味があるのかもしれない

 昨日のこと。きのうは6時半ごろ目が覚めた。夢はおぼえていない。起きたときはおぼえていた気もするけど。そして、日課のようになっているパソコンをひらき、メールなどを確認。インターネットへの欲求はこのごろとても低い。低いというのか薄いというのかわからないけど、あまり熱心ではない。人の発信していることをあまり読む気がしない。親しい友だちの書いているものはときどきおもしろい。おもしろくないものは流し読み。おもしろいとおもしろくないものの境目はいったいどこだろう? 正直か正直でないか、というのがひとつ。あとはテーマが重要。いや、テーマというか切り口だろうか。「料理」がテーマとして、レシピの詳細がのっていて、つくる際の注意点などが丁寧に書かれていたらぼくは流し読みをするだろう。「料理」とは自分にとってなんだ、どういう存在なのか、どうしてそう思ったのか、などが書かれていたら、じっくり読むような気がする。けっきょく、なんだろう、結論をだすには早すぎるけれど、今、どこかにうかんだのは、「ぼくは人間という生き物に興味があるのかもしれない」ということ。そして、このごろは、こんな人もいる、こんな考え方もある、あんな人もいる、というバリエーションのようなものをたのしむ心から、ひとりの人をじっくり本格的にしろうと思う、そんな楽しみ方に変わった気がする。その最高の観察相手がぼくこと私。わたしというのはおもしろい。いつもいっしょではないし、変化していないように思う部分もある。変化は、時間をおいてから振り返るとわかったりする。

起きるとは生きること

 しかし、ミッチー(5年下の恋人男子兼、やさしい友)はよく寝る。0時頃に寝ても10時頃まで寝ている。ときどき起こしたい衝動にかられる。そんなときは、その昔、学生のころに、いつまでも寝ていたぼくをものすごく怒りながら起こしてきた母親のことを思い出し、衝動をおさえる。ぼくがやろうとしていることは自分がされて本当に嫌だったあれだ、と。ぼくはとにかく眠ることが大好きだった。今でもとても大好きだけど、目が覚める、起きることもたのしい。とくに朝の早い時間は空気が新鮮に思えるし、朝にしかない、存在しない時間がとても気持ち良い。ずっと寝ていたい気持ちはなんだろうか、と、ミッチーをみていると考えたくなる。ずっと寝ていたかったぼくは、起きていたくなかったのかもしれない。起きて、生きていたくなかったのかも。起きることは生きることだ。起きなければ生きていても死んでいるようなもの。または夢の世界に生きている。夢の世界が「夢」で、現実ではなくて、幻想というか、実態のない、意味のない世界だ、と思う根拠はいったいどこにあるのだろう。夢こそがほんとうで、現実とよんでいる世界が夢のような幻想の世界かもしれない、と思うことはなにかが間違っているのだろうか。現実とは、なんだろうか。触れる、痛み、匂い、感触、寒い、苦しい、エトセトラ。なにかを肉体をとおして感じること、感じられる場所、瞬間が現実世界なのか。夢で痛みを感じたことはなかったっけ? 夢のなかでも「気持ちいい」は感じられると思う。おそらくそうしたときは夢精しているときであるように思う。いつか青柳(かつては同一人物に間違えられることもあるほど似ていた13歳からの友。今は声と話し方が似ているよう)が、ぼくがよく夢精することをとても驚いたことに驚いたことがあった。みんながみんな夢精をするわけではないのだろうか。ぼくは、よくとはいわないけれど、この人生で15回以上は間違いなくある、と思う。そのどの夢も今はおぼえていないけれど、とにかく気持ち良さをものすごく感じる、セックス的な、性の夢が多い気がする。ほかはジェットコースターみたいな乗り物の夢か、あとは飛んだりしていることもあったような。わからない。おぼえていない。けれど、このおぼえていなさは、夢だから、ではない。現実だったこともいろいろとおぼえていない。思い出せることも、その感触のようなものは夢を思い出すときとたいして変わらない。すぎてしまえば、実際にあったことも夢のなかでのことも、自分が想像、妄想したことも大差がないような気がする。だとしたら、現実というのはなんだろうか、と、やっぱり思う。夢を自在に見られる道具がドラえもんにあったような気がするけど、そうしたものが手に入ったら、夢と現実を逆転させて生きることもできるかもしれない。自由に、思いどおりになる夢の世界。思いどおりにならない不自由な現実の世界。けれど、実際は、逆。そう、逆なのだろう。夢の世界は意識でコントロールできない不可解な場所であり、現実の世界は自由自在、思うことを叶えられる場所。夢を思いどおりにコントロールできる方法を考えるように、現実を思いどおりにコントロールできる方法を、「発明」するみたいに真剣に考えてみよう。思いどおりに、望む人生を生きたいのなら。

早く集荷にきて欲しい

 16時54分。夕方。55分になった。さっき髪をきってもらいさっぱり。こざっぱりして、という注文をいう前に、バリカンで後ろやら横やらを少し刈られた。刈り上げになっているよう。終わったあとしばしぼくをみて「若くなった」とミッチー。若くなりました。そして、今は風呂に入る順番待ち。日が高いうちに湯船につかるのは贅沢な感じがして好き。だけど、なんだかもったいないような気がしてあまりやらない。今日は朝に身体が冷えたのでもともと湯船につかりたかった。いや、温泉にいこうと思っていた。だけど、やめた。そんな午後。本の寄付をすべく、ダンボールをクリエイト(ドラッグストア)からもらってきて、梱包。20冊弱を手放す。わくわく。早く集荷にきてほしい。いつからか、手に入れることよりも手放すことに快感をおぼえる。作用、反作用、みたいなことか? たくさん本を手放したくていろいろ手にとってみたものの、目下、これ以上は無理。未練のあるものは無理に手放さないのが今の気分。拾い読みしていた本のなかにあった「未来も現在も過去も同時に存在している」という一文が、発想が気になっている。髪をきられながら、ミッチーにこの話を長々としたけれど聞いていないことは分かっていた。だけど話した。話す、ということには案外聞き手を必要としないのかもしれない。どうだろうか。ただ、そこに人がいてくれていると話しやすい。ミッチーはほとんど聞いていないけれど、実は聞いていたりすることもあり、ときどき鋭い質問をされることがある。だからこそ聞いていない気もしたが真剣に話した。過去、現在、未来がなぜ同時に存在するのかの仮説を。さあ、お風呂の番だ。5時のチャイムが鳴り終わった。いってきます。

 散髪、掃除、風呂。この三点セットはかなり良い。かなり好き。生まれ変わった気持ちになる、身も心も、そして部屋も。そんな夕暮れ、おなかがすいた。今晩は寿司を食べようか、と言い合っている。今夜も一致した。ほとんど毎日同じようなものを食べていると、食べたいものが似てくる気がする。ミッチーが何も言わずに買いものしてきたものがぼくも食べたいものだった、ということはざらにある。人間って不思議だ。生活って不思議。

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