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「悲哀の月」 第48話

 気丈にもホテルへの受け入れを拒否し、自室へと帰ってきた里奈だったが、症状は悪化の一途を辿っていた。咳は止まることなく、息苦しさを覚えることが増えている。倦怠感も強く、横になっていてもまるで溺れているようだ。
(苦しいわ。一体、どうなっているの。本当にこんなに早く悪化するのね。コロナは。信じられないわ)
 里奈は、体内に入ったコロナウィルスを呪った。彼女も医療に関わっていた人間だ。コロナの怖さは知っているつもりだった。だが、今肺の中で増殖し続けているコロナウィルスは、彼女の持つデータを遙かに上回る威力を見せていた。着実に里奈の命を奪おうとしている。
(冗談じゃないわよ。私は負けないからね。コロナになんて。今だけよ。優位に立てるのは)
 一瞬、負けそうになったが里奈は気持ちを強く持った。もしもここでコロナに倒れれば、悲しむ人はたくさんいるだろう。何より、雨宮に申し訳なかった。婚姻届を出したにも拘わらず、夫婦らしい生活はほとんど送っていない。両親に対してもそうだ。親孝行は何一つしていないし、孫の顔も見せていない。娘として、このまま死ぬわけにはいかなかった。
(頑張らないと。こんなことに負けないように。周りの人に迷惑を掛けるからね。絶対にコロナの犠牲になんてなれないわよ)
 里奈は改めて気持ちを強くしたが、咳の方は止まらない。まるで気持ちを削ごうとするかのように息苦しさも襲い掛かってくる。
(そのためにも、このままじゃ駄目ね。病院に行かないと。ベッドが空いたかもしれないし。そこでちゃんとした治療を受けないと。手遅れになってしまうわ)
 大切な人の顔を思い浮かべたことで里奈の中で生に対する執着心が生まれてきた。今はまだ意識ははっきりしているものの、いつ混濁するかわからない。病棟で働いていた頃には、何人もそういう患者を診てきた。頭の中で一瞬、その患者と自分の姿が重なったため、さすがにじっとしているわけにはいかなかった。
(急がないと)
 彼女は動き出した。
 だが、倦怠感が邪魔をする。
 携帯は、部屋の脇に置かれたチェストの上にある。起き上がって手を伸ばせば届く距離だ。
 しかし、今の里奈にとってはそれだけの動きを取ることも億劫だった。全身を支配する倦怠感に何度も心が折れそうになった。
 里奈は肩を上下させながら何とか起き上がると、チェストの上にあった携帯を手にした。
 そして、緊急通報した。
 電話はすぐに繋がった。
 交換手が問い掛けてくる。
 しかし、里奈は咳き込むばかりだ。胸を押さえ苦しんでいる。それでも何とか、自分の住むマンション名と部屋番号を告げた。
「わかりました。すぐに救急車を依頼します」
 苦し紛れの声だったが、交換手には伝わったようだ。話を進めてくれた。
 里奈はその声を聞くと、一気に張り詰めていたものが切れた。携帯を手から離すと、布団に倒れ込んだ。全身は鉛のように重く、これ以上はもう何もしたくなかった。本能的に空気を求めるだけだ。
 そうしていると、やがて救急隊がやって来た。交換手がしっかりと電話のやりとりを伝えてくれたようだ。隊員は皆、フェイスシールドにマスクをし、防護服に手袋を装着している。
(何日か前までは私もこんな格好をしていたのよね)
 隊員を見た里奈は、ふとそんなことを思った。
 だが、すぐに苦しみが襲い掛かってくる。何かを問い掛けられたものの、苦しみが増すばかりで答えることは出来ない。
 隊員は、そんな彼女を見て症状は重いと判断したようだ。担架で救急車へと運ぶと、すぐに酸素マスクを装着された。里奈は、その状態で病院へ搬送されることとなった。


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