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「悲哀の月」 第40話

 その夜。
 時刻が七時を回ったところで里奈は携帯を手に取り、電話を掛け始めた。
相手はすぐに出た。
「ごめんなさい。もう仕事は終わったかしら」
 周囲が賑やかだったため、里奈は聞いた。電話の向こうからは、人の話し声や車の走る音が聞こえてくる。
「あぁ、ちょっと待ってくれるかな」
 相手が妻だったため、雨宮は固い声を出した。カサカサ音がしているため、移動しているようだ。やがて、周囲の喧噪は消えた。
「ごめん。大丈夫だよ。今駅へと歩いていたんだけどさ。脇道に入ったから」
 しばらくすると雨宮はそう説明した。
「ありがとう」
 彼の気遣いに里奈は感謝した。今の時間であれば、駅へ向かう道は帰途につく人で溢れているはずだ。そこにいては大事な話に集中できるはずもない。
「おそらく見当は付いていると思うんだけどね」
 彼の配慮に感謝しながら里奈は本題に入った。
「私ね。コロナに感染しちゃったの」
「えっ、嘘だろ」
 電話の向こうで雨宮は大きな声を上げた。
「それが嘘じゃないの。本当なの。昨日から何を食べても味がしなくて匂いもわからなかったのよ。熱も三十八度あってね。そこで、PCR検査は受けに行ったんだけどね。その結果が今日出てさ。陽性だったの」
「なら、これからはどうなるんだ。病院で隔離生活を送ることになるのか」
 雨宮は不安そうに聞いてきた。
「そうはならないわ。私はまだ軽症だから。今のところは自宅で経過観察になったの」
「それで平気なのか。コロナなのに。悪化したりしないのか。進行が早いって聞くけど」
 多少は知識があるらしく、雨宮は聞いてきた。
「大丈夫だと思うわ。若い人はあまり重症化しないというデータが出ているから」
「でも、万が一ってこともあるだろ。世の中に絶対なんてないんだから」
 雨宮は食い下がってくる。
「うん、確かにその危険はあるかもしれないけど、コロナ病棟はベッド数が足りていないからね。軽症者はどうしても経過観察になるのよ。悪化した場合はすぐに連絡を入れることになっているから」
「そうなのか」
 説明を受けたが、雨宮は不満そうだ。電話の向こうで唸っている。
「そこでなんだけどね。私はコロナに感染しているから、外出や人との接触は避けないといけないの。だからさ。経過観察中の二週間は会えないの」
「あぁ、それはしょうがないよ。でもさ。ご飯や買い物はどうするんだ。外出を避けなきゃいけないのなら、買いに行くことも出来ないわけだろ」
 何か力になりたいらしく雨宮は聞いてきた。
「デリバリーを頼むわよ。外に置いていってもらえばいいわけだし」
「それじゃ、体に良くないだろ。なら、こうしよう。俺が、仕事が終わった後に何か買って届けるよ。ドアノブに掛けておくから。そうしたら離れたところでLINEで教えるよ。里奈はその後でドアノブから取ればいいだろ」
「いいの」
 願ってもいない展開だが、里奈は念のため聞いた。だが、途中で咳が出た。
「いいよ。俺達は夫婦なんだからさ。どっちかが困った時は助け合うのが当たり前だよ」
 どうやらその咳は聞こえなかったらしく、雨宮は優しさを口にした。実際、雨宮の住む街と里奈の住む街は、沿線で二駅しか離れていない。仕事帰りに寄ったとしても、苦痛を感じる距離ではない。
「ありがとう。でも、私の部屋に来る時は気を付けてね。いくら軽症者とは言え感染しているわけだから。来る時は必ずマスクと手袋を付けてきてね。そして、ドアノブも消毒してから袋を掛けるのよ。マンションから離れた後は手袋をビニール袋に入れて口をきつく結んで捨ててね。これだけは約束してね。それが出来ないのなら、私はご飯はいらないわ」
「わかったよ。約束するよ。俺は万全の体制を取るよ」
「絶対だよ」
「あぁ」
「それじゃあ、お願いします」
 里奈は電話越しに頭を下げた。
(やっぱり健介と結婚して良かったわ。こんなに優しい旦那なんてそういないだろうから)
 電話を切った後で里奈は幸せを噛みしめていた。


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