RingNe解題、のようなもの【後篇】
前篇では、
RingNeが「ソーシャルフェス®︎」という社会課題×フェスティバルの新しい形態を同時生成する「体験小説」というこれまでにないジャンルの小説形態に属することの紹介した
RingNeの世界(そしてまた地続きに接続されているKaMiNGとACの世界)においては、とっくにシンギュラリティに達したAIと、BMI(ShifT)が開くDream Hack 3.0とでも呼ぶべき無意識=機械へのハッキングの成功によって、AIが集合的無意識そのものとなって人類の命運を握ってしまっている世界なのではないかという考察をした
中篇では、
三田春の夢やAIの「人間病」において、計算機的集合無意識と超意識的集合無意識が重なり合っている様を描写し、そのようになっている世界における「私」という主語をめぐる問題、並びに生/死の偶然性(accident)について考察した
「人はNeHaNに留まり続けることができるだろうか?」という問いを立て、PEやエミュレーションといった技術により到来するであろう「答えありき」の世界における反出生主義を取り上げつつ、持続が「不確実」であることに生きる希望を託すことについて論じてきた
いよいよ、この解題めいた文章も最後になる。
後篇では「堆肥葬」について論じ、RingNeでは描かれることのなかったもう一つの「人が死んだら植物になる世界」の可能性について考察してみようと思う。
散逸・忘却・不確実性
堆肥葬について、RingNeで語られる箇所は多くない。
だが、私としては、堆肥葬そのものは人類の葬送儀式の行き着く先として最も理にかなっており、かつまた人類の編み出しうる宗教的儀礼の中で最も荘厳と呼ぶに相応しい儀式だと考えている。
三田春、渦位瞬、葵田葵それぞれの「終わり方」も胸に迫るものがあるが、私だったらRingNeの世界でどのような「終わり方」を迎えたいか、と問われれば、「ローズマリーになりたいが、まぁ何に成ってもいい」と望む老女のように堆肥葬で送られたいと望むだろう。
人間の死後や人類の持続可能性に対する、「人は死んだら植物になる」という答えや、あるいは「人類の持続可能性と不老不死を実現するにはエミュレーションしかない」という答えは、どこか人を窮屈にさせる。そのような世界において人生はあたかも、いかにして素晴らしいゴールに向かって最短最速で行くことができるかを考え続けるだけの人生になってしまうことだろう。そのような人生を歩みたい人間にとって、AIとの共存、いやAIによるハッキング・支配は都合がいい。AIは常に人生における最適解を私たちに教えてくれる。だから、AIの指示に従って自分は生きさえすれば良い、と。
いずれ個人情報含めあらゆる人間の情報がブロックチェーンもしくはブロックチェーンを超える技術により台帳として記録され、データベースとしてサーバー上に保存されて、必要に応じて自由に閲覧が可能になる社会が訪れるであろう。RingNeデバイスはそれを既に可能にしている。
このようにある特定の個人の生死が情報として凝集され、記録され、確定したものとして人々に共有されている社会において、何かが散逸したり、何かが忘却されたり、何かが不確実なこととして現象するということは、気持ち悪がられるか、嫌われるか、駆逐されるかの、いずれかになるだろう。
堆肥葬における散逸と忘却
そもそも堆肥葬は、情報が散逸すること、忘却に還ることを肯定し、人生が不確実性と偶然性(accident)に彩られたものでしかないことを積極的に肯定する儀式たり得たのではないかと考えられる。
特定の植物に施肥、もしくは追肥し続けることにより、特定の植物=その人の墓標とすることもできるが、基本的には施肥後の遺伝子情報の行方は誰が決めるということはできない。つまり、量子情報の散逸は避けることができない必然なのだ。指定された植物以外の雑草に吸収されることで、あるいは植物自ら種を蒔くという形で、あるいは収穫されて誰かの口に運ばれ、あるいは野の獣によって食べられ、あるいは耕うんされ、あるいは微生物や風の作用によって……。我々が自然と呼んでいるものの生態系の成り立ちは、基本的に個体として凝集されながら系を成し、それでいて常に既に流動的なフローとして散逸を絶えず繰り返す機械であると捉えることができる。個体の死は凝集された系、またはある種の機械が運動を停止することではあるが、その一方で形を変えて新しい系に情報を譲渡し、別種の機械を稼働させることでもある。死体から蛆が湧くこと、微生物による分解、キノコが生えること、獣や魚による捕食、風化……。堆肥葬は「人が死んだら植物になる」ことを「人→堆肥→植物」という形で系の遷移をシンプルにすることで実現した技術ではあるが、量子情報の散逸を完全に食い止めるような技術ではない。植物として輪廻した後も、やはり植物である以上は生育し、花を咲かせ、その蜜を昆虫たちに譲り渡しながら受粉し、やがて種を、あるいは落ち葉を撒きながら、いずれは朽ちて枯れ、他の植物や菌類に養分やら量子情報やらを譲り渡すことだろう。
散逸はまた、元の個体がなんであったのかを不確定性の内に忘却することでもある。植物にRingNeした故人を踏んではいけない、傷つけてはいけない、といった倫理観は、おそらくRingNeデバイスが登場して以降、元の個体がなんであったのかを特定できるようになってしまった、つまり忘却できなくなってしまって以降の倫理観であると思われる。RingNeデバイス以前の堆肥葬においてはむしろ、故人を堆肥化することはすなわち個人を大自然に還元し、大自然と一体化させることであり、あるいはローズマリーとして採集され食卓に上がることを積極的に肯定することであったはずで、つまりは無制限でカオス的な散逸によって、人という個体であったことそのものさえもが忘却されることであったはずなのだ。RingNeデバイスは機能として神花と無神花を区別する機能を有するが、そのことによって神花=故人情報を半永久的に忘れさせることがない。「人が植物にRingNeする世界」の正体とは結局、人々が故人の存在を片時も忘却できなくなった世界であると言える。死者は常に植物としてそこに咲いている。故人の量子情報は、常に既に植物が生えるところそこらじゅうに偏在し、なおも散逸と拡散を繰り返し続けている。「神花」を守れ! と主張するダイアンサスのデモ隊は、結局のところ、あらゆる地上の植物は死者の量子情報に「汚染」され尽くしていることを追認するものである。死者の量子情報に汚染されていない植物=無神花だけを育て、食べるということが一体人類にとってどこまで健康で健全なことなのか。むしろ、死者の量子情報が半永久的に記録され、死者の存在を常に忘れることのないよう人々に記憶し続けることを「神花/無神花」という形で強いている社会において、果たして「弔い」という概念は成り立つであろうか。
弔いとは何であり、何であるべきなのか?
私が思うに、弔いとは、緩慢な忘却である。大切な人を喪ったショックから立ち直るためには、故人が「大切な人」であったこと、その存在の「大切」さを段階的に手放す必要がある。彼/彼女が後世に残した遺産を凝集的に整理し、いつまでも忘れないでおくようにしておくことはもちろん大事なことだ。だが一方では、最も倫理的に問題のない形で彼/彼女を忘却に還していく作業も、つまり日常の99%の時間死者を意識しなくて済む時間として過ごすことができるようになることも、必要だ。私たちの文明はあらゆる死者の屍の上に成り立っているのではあるが、一方で、自らが踏みしめている大地がどんな屍によって構成されているかということまでは、常日頃は全く意識しない。これは倫理的に大変重要なことである。なぜなら、あらゆるものが故人の魂が宿った「大切な存在」として扱うよう強いられることは、やがて人々の「大切」であるという観念そのものを窒息状態に追いやるからである。葵田葵は堆肥葬管理センターの職員という職業柄、野に咲く花を踏むことが出来なくなったのだろうが、「野草の中には死者の魂が宿っているかもしれないから、踏んではいけない」という倫理観は、安心して踏みしめられる大地の面積を明らかに奪っている。「大切」なもの、忘れてはいけないものは、手で数えられる程度のほんの一握りあるからこそ、大切にできるし、忘れないでいられるのである。そこらじゅう大切なもの、大切にすべきもので溢れてしまっては、困るのだ。その意味で、春の父である老人が「RingNe以降のこの植物主義とも言える社会はやや行き過ぎだ。何千年も続いてきた農作や製紙すらままならねぇ倫理規範は、明らかに文化を息苦しくさせている」と語り、「神も食わなきゃ腐っちまう」と諭していることは、正鵠を得たものと言えるだろう。
弔いはまた、不確実性を愛することでもある。故人の死後の行方は不確実であり、翻って故人の生前の人生そのものも不確定要素・偶然によって彩られたものでしかなかったことを肯定するところに、弔いという儀式が初めて成り立つのだ。人は不確実なものをこそ、つまり儚いものをこそ、「大切」に思い、時には命がけで守ろうとすることができる。そうでなければ、何であろう。RingNe以降、死者は植物という形で偏在し、いわばどこにでもありふれた存在となった。それどころか、量子情報としてStableな座を与えられ、RingNeでシーケンスを読み取ればいつでも故人情報を参照することができる。生前に罪状がある人間が転生した植物は容易に特定することができるし、後世の人間によって半永久的に攻撃にさらされてしまう。
ブナを傷つけるダイアンサスのメンバーはおそらく、人間の一生における不確実性を愛してなどいないだろう。人は、縁さえ整えばどんな罪でも犯しうる。だが、どんな縁に人が結ばれるかどうかは、結局のところ不確実であるという他ないのだ。罪を憎むあまり、その人に罪を犯すよう仕組んだ縁までをも憎むことは、人情としてあり得ない話ではない。だが、その人に罪を犯すよう仕組むような縁が整っていたとしてもなお、その人が罪を犯さないままでいることもできたはずだということを信じること、つまり罪を犯すか犯さないかは不確定の内にあったはずだと考えることは、「罪」という概念を成り立たせる根本的な部分であったはずだ。ブナを傷つけるダイアンサスにはそう信じることができない。
「罪を犯した人間がRingNeした植物は、植物になってもなお人間社会に危害を加えようとする」という思想はなぜ暴論なのか。人間の、いやこの宇宙の不確実性を全く無視しているからだ。人間が生前どう振る舞うかによって死後植物としてどう振る舞うかもまた確定しているなどと人々が考える世界で、「死後の安寧を祈る」という弔いにおける大事な側面が正常に機能しているとは到底思えない。
「死後の安寧」と言うと、例えば天国に行くだとか、浄土に行くだとか、そういう善き世界に向かうことが故人の死後において確定しているという信仰のことだと一般的にはみなされやすい。確かにそれも大切なことだが、それ以上に大事なことがある。天国に行けるかどうか、浄土に行けるかどうかは、神や仏が決めることであって、自分たち人間が決めることではない、という信仰である。自分たちが決めることではないがゆえに、遺された人間にとって故人の死後のことは不確定である。神や仏のみが唯一故人の死後が安寧かどうかを確定させることができる以上、遺された人間には死後の安寧を祈りとして神仏に捧げるしかない。祈りは決して故人の死後が100%天国あるいは浄土往きであるかどうかを約束しない。だが、99%近くまで確率を上げることは、できるかもしれない。
RingNe以降、量子情報にまで生前の罪状の情報が引き継がれるようになってしまうと、人間社会における善悪まで、植物になった後も100%引き継がれてしまうということが起こってしまう。これでは、「死後の安寧」などどこにもない。死後を委ねる神も仏も、この世界にはないのかもしれない。死後の故人の行方は量子情報としてAI=人類によって記録され、保存され、管理され、シーケンスされる。燃やされない限り、半永久的に。
そう考えると、RingNe以降を生きる仏教徒がこのような思想に辿り着くのも、ツッコミどころは多いにしろ、分からないではない気がしてくる。神花となった人の魂が、人の手から離れ、人間社会の掟から解脱して、神や仏の采配に委ねられるには、燃やすしかもはや方法が無くなってしまっているのだ。燃やすより他に弔う術が無いのだ。RingNe以前であれば、堆肥葬だって十分に弔いとしての機能は果たせたはずであっただろうに。量子サイクルという現象の発見とRingNeデバイスの発明によって、堆肥葬後の死者の行方に人間社会が干渉できるようになってしまった。人々は散逸した故人の量子情報を必死でかき集めるかのようにRingNeデバイスでシーケンスを行い、無神花認証されたものだけが安心して食べられる世の中になってしまった。このような時代が到来したことで、人々は却って火葬の中にこれまでの世界が保ってきた散逸と忘却が齎してきた豊かさを見出し、不確実性と偶然性によって彩られた世界が改めて豊かであったと再認識し直さなければならなくなった。
散逸と、忘却と、不確実性を人類に回復しつつ、なお「人が死んだら植物になる」ことを肯定するために、私は堆肥葬という葬送儀礼はもっと素朴な弔いとして営まれるものであるべきだと考える。
そのために、私はあえて「植物主義批判」を試みたい。
植物主義批判
RingNeデバイスはただの玩具でしかない
「だから、何?」
という風に私は言いたくなってしまうのだが、決してRingNeデバイスを悪く言いたくてそう思うのではなくて、そもそもそんなニッチな商品がどうして売れるのか、渦位瞬も持っているくらいにどうして人口に膾炙しているのか、謎だからだ。
もちろん、ダイアンサスの暗躍無くしてRingNeは広まりようがないことは想像に難くない。価値観や倫理観を変えるのはデバイスそのものではなく、あくまでデバイスを開発する人間の集団である。
それにしたって、そんなおもちゃ、何でみんな欲しがるのか……一体RingNeを持っていることでどう日常生活が豊かになるのか、広告を聞いただけではにわかには想像し難い。RingNeが人間社会になくてはならないものとなるためには、おそらく次のような社会の変化が必要だったはずだ。
「神花/無神花」という概念の発明
量子サイクルの発見により葬送儀礼のもつ意味が大きく変化したこと=「死後計画」
環境保全主義の過激化
まず、「神花/無神花」という概念の発明によって、魂を「量子情報」という実体に無理やり単純化させた。RingNe時代におけるアニミズムとは、結局のところ唯物論的アニミズムと呼ぶことができる。
そして、唯物論的アニミズムに従って、葬送儀式の中に元々関与していた超意識的な存在・スピリチュアル的なものは排除されて、「死後計画」の名の下にいかに特定の植物に量子サイクルさせるかという別生命への移行「作業」となった。
そこに、過激な環境保全主義による「神花を守れ!」という大号令のもと、RingNeなしには倫理的に安全な食生活を送れなくさせると同時に、死後の計画にも支障が出るように世の中を変えたのだ。自分の死後が誰かの胃に入って消滅してしまうのは嫌ですよね? 神である植物を着たり食べたり飾ったりするのは何とも烏滸がましいことではありませんか? と言った具合に。
以上のような運動が「植物主義」の名の下に行われているのだとしたら、私はあえてこう批判したい。
RingNeデバイスは、ただの玩具でしかない、と。
見よ、王様は裸であるぞ。量子サイクルで自然界の循環の全てが説明できるわけではない。死後の全てをどれだけ完璧に計画しようとも、必ず散逸と忘却と不確実性からは逃れ得ない。人々の倫理は、どんな植物をも心から神と崇められるようにはできていない。
唯物論的アニミズムの唯一の弱点は、人々に植物や環境に対して倫理的であるように働きかけながらも、実のところ倫理そのものとしては窒息状態=無意味であることである。大切にすべきものがあらゆるところに偏在しすぎていて、もはや「大切にする」という概念そのものが成り立たなくなっているのだ。その為、「あらゆる植物には故人の量子情報が宿っているから大切にしなければならない」というアニミズム的な倫理観を一方では尊重しながらも、また一方では食糧や衣類や住居の安定確保のために故人の量子情報に「汚染」されていない「無神花認証」の植物を人工的に栽培しなければならないという矛盾を抱えることになる。
それよりは、「神も食わなきゃ腐っちまう」と言えた方がよっぽど健康だと私には思える。たとえ神花として認められた草花であろうとも調理し、あるいは衣服として纏い、あるいは建材にして、神花となった故人に感謝して共に生きるような、そんな在り方の方が、よっぽどカッコいい。
そして、本来の堆肥葬は、「神も食わなきゃ腐っちまう」からこそ、堆肥として発酵させることにより積極的に大自然の摂理の中に放り込んで、ある時は食糧として、ある時は衣類として、ある時は建材として、死者と人間が共存共栄するための数あるツールの一つであるはずだと考える。そうであってこそ、デスポジティブであると私は思うのであって、神花/無神花と区別してまたしても死者と生者を分断するような道は決してデスポジティブだとは思えない。
したがって考えるべきは、量子サイクルという摂理を認めながら、かつ量子情報のカオス的散逸を積極的に肯定すること、「神花/無神花」という死者/生者の分断を超えて大自然の中で渾然一体となることを良しとするような倫理観はいかにして可能かを問うことである。
それはまた、「人が死んだら植物になる」世界における魂(アニマ)とは何なのかを問うことでもある。
魂(アニマ)とは何か?
私が勝手に受け取っている「小説『RingNe』から問われていること」、つまりは宿題だと思っていることは、結局のところ
「魂(アニマ)とは何か?」
という問いに集約される気がしてならない。
大地に還るというエンディングを決断した三田春であれ、PE後佐藤に焼却されることを望んだ葵田葵であれ、そしてエミュレーションを決意した渦位瞬であれ、結局のところ私の心の中に「彼/彼女らの魂の行方は、果たしてこれで良かったのだろうか」という問いを残すばかりだった。それぞれにそれぞれの終わり方の模索があった。どのエンディングも、それぞれなりに幸福への望みがあった。ハッピーエンドといえばハッピーエンドなのだ。なのに、何か釈然としないものが残る。
私をしてこの解題めいた文章を書かせたのは、小説『RingNe』を読み終えてなお残るこの釈然としない感覚、抵抗感やら反発やらがないまぜになった感覚が、私の心を占有して落ち着かせないからであった。
唯物論的アニミズムは結局のところ、「人が死んだら植物になる」世界における魂(アニマ)を象徴しているようでいながら、その実は人々の過度な単純化による誤解や偏見、曲解に満ちたもののようにも感じる。では、一体「人が死んだら植物になる」世界において魂(アニマ)のあるべき座とは一体何なのだろうか。
結論を端的にいうと、「人が死んだら植物になる」なら、そのような世界では私たちは植物と常に既につながり合っているのであり、私たちの魂もまた、植物のそれと一体になっていると言うべきだと、私は考える。私たち人間と植物を区別すること自体、無意味なのだ。
だからこそ、人間の終わり方の数ある可能性のうちの一つとして考えるのではなく、人間という生命のハードウェア・ソフトウェアの拡張形態の数ある可能性の一つとして考える方が、より建設的なのではないかと思われるのだ。
議論の展開はこのくらいにしておこうと思う。
いずれ近いうちに小説という形でまとめようと思うので、期待していて欲しい。
以上で、解題めいたこの文章を終わりにしよう。
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