見出し画像

国語教育の改革―4年前の講演メモから

野田洋次郎の「大丈夫」

 2019年11月20日、都留文科大学国語国文学会秋季講演会に登壇した紅野謙介氏の講演は「国語教育―混迷する改革」と名付けられていた。

 大学入試改革に焦点をあてながら、文部科学省による国語教育の「改悪」を強く批判するもので、翌年にちくま新書から刊行された『国語教育 混迷する改革』(2020年1月)の内容を先取りしたものだった。

 紅野謙介氏が講演の最後に「日本語の複雑さや奥行き」を学ぶための教材のサンプルとして紹介したのは、RADWIMPSの楽曲「大丈夫」の歌詞の一節である。

 語られたのは、新海誠監督による映画「天気の子」のために野田洋次郎が書いた「大丈夫」という楽曲の歌詞の中に、どのような会話のダイナミズムが読み取れるのかということだった。
 また、そこに秘められている「僕」と「君」のジェンダーをめぐる方略がいかに絶妙なものであるのかということでもあった。

 「大丈夫?」「大丈夫だよ」という単純すぎる会話を見事に読み解く講義は、日本近代文学研究の世界を代表するスター研究者としての面目躍如たるものがあった。

 次いで、自身の愛読書だという和田誠の『お楽しみはこれからだ』という本に言及した。
 映画に出てくるセリフを取り上げ、言葉の背景や厚みを解きほぐし、意味の広がりと文脈の豊かさを味わい尽くす名著である。

 そのあとさらに、夏目漱石の「こころ」に出てくるKのセリフや、中島敦の「山月記」における李徴と袁傪の対話、芥川龍之介の「羅生門」に登場する老婆の発話など、「日本語の複雑さと奥行き」を学ぶことが出来る教材が列挙されていく。

 興味深いと感じたのは、「大丈夫」の例を含め、これらがすべて対話(ダイアローグ)であったという点だ。

 また、野田洋次郎の歌詞や和田誠が取り上げた映画のセリフのように、従来の国語科の教科書において教材化されてこなかったタイプの言葉が取り上げられているという点である。

 そのような意図があったのかどうかはわからないが、国語科の教科書や授業のあり方を変えていくことの必要性、あるいは必然性が示唆されていると感じた。

 紅野謙介氏は、「べつに『これは文学だ』っていうつもりはありません。」と言っていたが、2018年の全国大学国語教育学会に登壇してアニメやラノベなどのサブカルチャーに言及した千田洋幸氏が語った「文学概念の拡張」という話に通じるものがあった。

国語教育の危機はどこにあるのか?

 「国語教育の危機」に警鐘をならす紅野謙介氏は、大学入学共通テストの改革をチャラにして、混迷する改革が落ち着いたあとに、どのような国語教育の改革を思い描いているのだろうか。

 注目しておきたいのは、「大丈夫」の歌詞をはじめとする文学的な対話(ダイアローグ)の文脈依存度の高さである。

 別の言い方をすれば、ハイコンテクストな言語運用を読み解くところに、「日本語の複雑さと奥行き」についての学びが成立しているということだ。

 しかし、文脈依存度の高い、ハイコンテクストな言語運用が、「学校教育」という枠組みの中で、教師と生徒という権力関係を背景に、「正解」の存在する授業の中で読み解かれていった場合、現実社会における言語運用をきわめて劣悪なものにしてしまう恐れがある。

 私にとって「国語教育の危機」は、そういうものとしてあった。

 中高一貫校で教員をしていた頃に考えていたのは、国会答弁のような言語運用をこの世界からなくすには、どうしたらよいかということだった。

 質問に対してまともに答えていないのに(…としか思えないのに)、なぜか質疑が成立したかのように進んでいく。

 言語明瞭、意味不明と揶揄されてきた閣僚の答弁。

 理路整然としているかのようで、じつは支離滅裂でしかない官僚の答弁。

 国会における言語運用をになうのは、日本の国語教育において相対的には高得点の答案を量産し続けてきたエリートたちである

 つまり、国会におけるハイコンテクスト過ぎて意味がわからない言語運用を、事もなげに遂行していく人たちのスキルは、日本の国語教育の成果であるかもしれないのだ。

 「先生の正解当てゲーム」(≒先生が所持している教師用指導書の正解当てゲーム)が教室で繰り返されていけば、「偉い人(先生や政治家)が言っていることは、意味はよくわからないけど正解なのだ」という価値観の刷り込みがおこなわれかねない。

 そういうことが、文脈依存度の高い「文学」を「教育」することによって繰り返されているのだとすれば、そんな「国語教育」とは決別すべきだろう。

 一方で、「文学の論理」ではない論理。ていねいに理路をたどれば(あるいは「ふつうに理路をたどれば」)、誰もが無理なく「正解」や「納得解」にたどり着けるような言語運用のレッスンを重ねることが、「普通教育」という枠組みの中で行われる国語科教育において、重要性を増している。

 入学試験問題の作問やその検討・検証、模擬試験問題の検討や検証という場において、設問や模範解答、選択肢や解説のあり方に私がこだわり続けたのも、そのためだった。

 教科書編集の現場において、学習の手引や教師用指導書の言葉に私がこだわり続けたのも、そのためだった。

 そういう取り組みを多くの関係者が地道に続けない限り、テレビ中継される国会において詭弁を弄しても、まったく恥ずかしいと思わずに世の中をわたっていけるような国会答弁を根絶やしにすることはできないだろう。

 「差がつかない問題」は、選抜や選別をするためのテストとしては不適当なのかもしれない。

 ただ、誰もが無理なく「正解」や「納得解」にたどり着くべき言語運用の成否を測る「テスト」を実施するのだとすれば、「差がつかない問題」であることは、むしろ当然である。

 もちろん、そういうテストにどれだけのリソースを割き得るのかということを考えると、数十万人規模のテストとして実施するのはあまりにも現実的ではないのかもしれない。

 そもそも大学入試は、選抜や選別の時代から、マッチングの時代に移行しつつある。

 だとすれば、これからの時代、そういうレッスンを重ねる時間を、日常的な「国語教育」の中に作り出す必要がある。

 こうしたところに、「国語教育の危機」はある。

 大丈夫だよ。大丈夫?



             未


※アーカイブされているFacebookのノート「国語教育の改革をめぐるメモ―紅野謙介さんの講演をめぐって」をリライト


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?