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震災後文学としての葛西善蔵「椎の若葉」

 東日本大震災の後、数年経って感じたのは、災害によって受けた心の傷は、そんなに簡単に癒えるものではないということでした。

 一見、無関係に思えるものにも、震災の傷が影を落としていることに気づき、心を痛めることもありました。

 そういう経験を踏まえて、近代文学を読み直した時に、芥川龍之介や横光利一、川端康成、梶井基次郎といった作家たちが1920年代に発表した作品群が、にわかに「震災後文学」として眼の前に浮上してきました。

 まだ原稿にはしていませんが、葛西善蔵の「椎の若葉」も、そのような「震災後文学」のうちの1つです。

 「私小説の神様」とも称される葛西善蔵は、借金と家庭崩壊、肺病と酒など、人生の否定的な側面に焦点を当てた作品で知られる「破滅型の作家」です。代表作に「哀しき父」(1912)、「子をつれて」(1918)などがあります。

 関東大震災が起こった1923年9月1日、葛西善蔵は、神奈川県鎌倉市の建長寺の宝珠院で被災します。4年以上を過ごした庫裏は大きな被害を受け、葛西善蔵は東京に転居します。

 葛西善蔵が鎌倉で、また鎌倉から東京へ移動する中で目にした惨状がどのようなものであったのか、関東大震災100年の今年、目にする機会が増えた当時の写真や動画で、容易に想像することができます。

 そのような体験を経た震災後の1924年5月に発表されたのが、葛西善蔵の代表作の1つ「椎の若葉」です。

 「破滅型の私小説作家による佳品」というようなイメージで語られることの多い「椎の若葉」ですが、「震災」「震災後」という言葉が何度か使われています。鎌倉市内の「バラック飲食店」などという点景も、震災後ならではのものです。

 以下のような「椎の若葉」の結びに、トラウマを抱えながら震災後を生きる者のまなざしを感じるのは、私だけではないはずです。

ぽつねんと机の前にすわり、あれやこれやと考えて、思いのふさぐ時、自分を慰めてくれ、思いを引立ててくれるものは、ザラな顔見知合いの人間よりか、窓の外の樹木――ことにこのごろの椎の木の日を浴び、光りに戯れているような若葉ほど、自分の胸に安らかさと力を与えてくれるものはない。鎌倉行き、売る、売り物、三題話のようなおのおのの生活――土地を売った以上は郷里の妻子のところに帰るほかない。人間墳墓の地を忘れてはならない。椎の若葉に光りあれ、僕はどこに光りと熱とを求めてさまようべきなんだろうか。我輩の葉は最早朽ちかけているのだが、親愛なる椎の若葉よ、君の光りの幾部分かを僕に恵め。

葛西善蔵「椎の若葉」


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