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紅白歌合戦と黒板―文学を可能にする舞台

年越し家族がみるテレビ

 ときに平均視聴率が80%に達することもあったお化け番組NHK紅白歌合戦が、70%台の平均視聴率を最後に記録したのは1984年のことだ。

 あまりにも旧聞に属する話で恐縮だが、東京12チャンネル(現テレビ東京)の「独占!男の時間」が大晦日に特番を組んだり、日本テレビが人気絶頂期の萩本欽一を起用して「紅白歌合戦をぶっ飛ばせ!」という番組を企画したりしていたのも、紅白が「大晦日の鉄板番組」として不動の地位を築いていたからこそのことだった。
 お化け番組あったればこそ、きわ物バラエティーが一種のカウンター・カルチャーとして機能していたわけだ。
 最終的には、コロナ禍を契機に放送されなくなった「絶対に笑ってはいけないシリーズ」やいろいろ名前があって全部は思い出せない格闘技の特番などが、お化け番組をやせ細らせていき、いまに至る。
 実家にそろった家族が、お尻を叩かれるダウンタウンの姿にバカ笑いしているうちに、いつの間にやら午前零時をやり過ごしてしまうという、なんとも味気なく切ない“行く年来る年”を経験しなくて済むようになったことは、個人的には喜ばしい。
 ただ、21世紀以降の紅白歌合戦に登場するのは、その多くが見たこともない歌手と、聴いたことのないヒット曲であったりするのも、味気なく切ない。
 まるで月が二つあるパラレル・ワールドに迷い込んでしまったような不思議な気分ではある。
 21世紀の日本では、家族が歌でいっしょに振り返ることができる1年間の記憶というものは、もう手に入れることができないのだろう。

黒板のある風景

 敬愛する英文学者の倉持三郎先生に教えていただいたのだが、最後の文士とも言われた高見順は小説家としてデビューしているため、詩を書き始めた当初はあまり評判がよくなかったそうだ。
 ときに酷評されたこともあったとか。
 それでも、食道ガンに冒された最晩年の詩を収めた『死の淵より』に収録された「黒板」や「青春の健在」などを読むと、鮮やかな印象が心に残り、“ことばの力”というものを実感させられる。
 詩人の世界でいかに認められるかということばかりに腐心して作られた現代詩をうんうん唸りながら読むくらいなら、末期の眼が見すえた世界を平易に語った高見順の詩を読んだ方がずっと心豊かな時間を過ごすことができる。
 人生を去ろうとする高見順が、自分のあり得べき死にざまを語るために使うのは、次のようなことばだ。

 私の好きだった若い英語教師が
 黒板消しでチョークの字を
 きれいに消して
 リーダーを小脇に
 午後の陽を肩さきに受けて
 じゃ諸君と教室を出て行った
 ちょうどあのように
 私も人生を去りたい

 病室の窓の白いカーテンから午後の陽射しが入ってくる様子を見ていて「教室のようだ」と感じた高見順が、「中学生の時分」を思い出しながら自らの人生の幕引きをイメージするという詩である。
 なぜこの詩が私に心豊かな時間をもたらすのかと考えると、カーテンから陽射しが入ってくる“教室”という空間や、黒板を消すときの手ごたえやチョークの質感などの記憶を喚起する“黒板”という物体が、きわめて重要な役割を果たしていることに気づく。
 「黒板のある風景」の中で体験した数多くの出来事の記憶が、1960年代に没した高見順と、1960年代に生まれた私とを結びつける。
 そしておそらく、21世紀初頭に生まれた人たちの心にも響いているはずである。
 家族そろって同じドラマや歌番組を観る空間だった“お茶の間”が消え去ってしまい、紅白歌合戦という年中行事が成立し得なくなりつつある現代、“日本”という国民国家の一員として、周囲の人びとと同じ世界を生きているという実感を支えてくれるのが“学校空間”であると言えるのかもしれない。

 パラレル・ワールドを描いた村上春樹の『1Q84』に描かれた世界を、ひとまとまりの世界へと修復していくための結節点となるのが、青豆と天吾が教室という空間で体験した出来事であったというのも、偶然ではないのかもしれない。

現代文学の舞台

 高見順には、「青春の健在」という詩もある。
 これは、鉄道の朝の風景を描いたものである。

 電車が川崎駅にとまる
 さわやかな朝の光のふりそそぐホームに
 電車からどっと客が降りる
 十月の
 朝のラッシュアワー

 死の床にある高見順がしぼり出した言葉だということからくる感慨とともに、「電車のある風景」が描かれているということがこの詩の魅力を生み出している。
 おそらく「電車のある風景」というものもまた、「黒板のある風景」と同じように、多くの人びとにとって、周囲の人びとと同じ世界を生きているという実感を支えてくれるものである。
 もしかすると、鉄道ファンがすそ野を広げ、「乗り鉄」「撮り鉄」「音鉄」「車両鉄」「鉄っちゃん」「鉄子」「ママ鉄」「子鉄」などと多様化しているのも、多くの人びとと共有しうる体験が見い出しがたくなっているという現実に対する不安の反映かもしれない。

※2011-02-03「黒板のある風景―現代文学を可能にする舞台(1)」 による         


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