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アンパンマン・シンドローム

芸能人の不祥事が報道される。
よってたかって袋叩きにする。
正義の名の下に悪を叩くことは、人々に得も言われぬ充足感と万能感を与えてしまう。そのせいで一人の人生を奪うことになるかもしれない、なんてことまで想像は至らない。誰が正義で、誰が悪かなんて分からなくなる。

「正義」とは。
「悪」とは。

悪を叩くという行為になると、なぜ人々は歯止めが効かなくなり、やり過ぎてしまうのだろうか。子どもが生まれてから大人になる過程の中で「正義感」はどのように育まれていくのだろうか。

この年の瀬にそんなことを考えている。

1.正義のヒーロー アンパンマン

日本における「正義像」を考察するにあたり、まずもって頭に浮かぶのはあの国民的あんぱんアニメの主人公ではないだろうか。古今東西、全く色褪せることなく子ども達からの人気を保ち続ける彼は、日本人が最初に学ぶ「正義のアイコン」と言っても過言ではないだろう。

あらすじはこうだ。

生きているバイ菌が悪さをする。
正義のあんぱんが飛んでくる。
必殺のあんパンチをお見舞いする。
バイ菌は「バイバイキーン」という自己紹介ギャグとともにぶっ飛ばされる。
悪は一掃され、街には平穏が取り戻される。

古来から変わらぬ様式美である。

悪に討ち勝つこの爽快なストーリーも含め、このアニメは時代を超えて子ども達から愛されている。このアニメを見て育った「元・子ども」が新しく親となり子育てをするのだ。その子どももまた、このアニメを観て育つ。この一連の流れは別段不自然ではないように感じる。

この様にして日常的に「武力行使」を用いて悪を排除するシーンを繰り返し視聴することで、幼い子ども達の頭には無意識のうちに「正義vs悪」という構図が構築されていく。 

「悪いヤツには武力行使が正解なんだ」と無意識のうちに...。

もちろん幼少期に「アンパンチという暴力」(言い方)を日常的に見ていたからといって、暴力的な子に育つかといえばそうではない。むしろ外敵から身を守るために戦うのは自然界では当たり前のことだ。

しかしここでは「問題解決としての暴力」が是か非かを問いたいのではない。

「悪を排除することが正義」という画一的な価値観の醸造と、それが当たり前になっているアンパンマン国家・日本という教育環境にちょっと待ったと言いたいのだ。

2.ぼくのおとうさんは、桃太郎とかいうやつに殺されました。

やがて月日が流れ、幼い子どもが成長すると「脱・アンパンマン期」がやってくる。そして今度は昔話を嗜むお年頃になる。

皆さんは桃から生まれた少年の話はご存知だろうか?

桃から生まれた少年(以下・桃太郎)は、人間から略奪の限りを尽くす悪しき鬼達を討つべく、美味しいきび団子で傭兵を雇って討伐の旅に出る。長きに渡る鍛錬と旅路の末、ついには最大の悪である「鬼」を成敗することに成功する。人間から奪われた宝物を見事に取り返し、人間界に平穏と富をもたらした。

やれやれ、
めでたしめでたしである。

以上を踏まえてこちらの広告を見てほしい。

2013年度「新聞広告クリエーティブコンテスト」より 最優秀賞作品「めでたし、めでたし?」


昔話「桃太郎」を鬼サイドから描写したこの広告作品。
実に示唆に富んでいる。

人間を苦しめた鬼にも、家族がいたのかもしれない。
この小鬼は、生まれてこの方なんの罪も犯していないかもしれない。そんな鬼の子どもから見た桃太郎は「突然家族を殺して、財産を奪っていった巨悪」として、生涯その存在が心に刻まれるだろう。

その後、両親や仲間を奪われた小鬼がどう育っていくのかは想像するだけで物悲しい。

この広告が示すように、正義と悪は立場によって入れ替わる。漫画ドラえもんに非常に胸に刺さる一コマがある。

漫画「ドラえもん」小学館

正義の反対は悪ではない。「もう一つの正義」である。昨今の中東情勢が思い起こされる。「正義vs正義」という悲しい争いの構図が、この世の中には溢れている。

私たちは幼い頃、アンパンマンや桃太郎から「正義とは何か」を学んだはずだった。しかし、どうやらその常識だけでは何かが足りないらしい。

3.僕たちは悪を討つことでしか正義を自覚できないのか?

悪を討つ。
それこそが正義だというならば、正義など「悪ありき」でしか存在することができないではないか。

なんとも他力本願な正義感だこと。

残念なことに、アンパンマンや日本昔ばなしを経て「正義vs悪」の価値観に染まって大人になった私たちは、その影響をモロに受けている。なんせそういう教育を受けてきたから

その「アンパンマン式教育」の影響が顕著に現われているのがSNSのコメント欄ではないだろうか。個人が自由に、匿名で発言できるようになったおかげで、悪いことをすると容易にSNS上で晒されるようになった。

冒頭で述べた芸能人の不祥事を例に出そう。
アンパンマン式教育の世界でいうと不祥事を起こした芸能人は「バイキンマン」つまり悪だ。そして悪を見つけたらそこに正義の味方がやってくることになっている。悪がなんの裁きも受けずにいるのはアンパンマンの世界ではあり得ない。

そしてSNS上では誰もが「匿名のアンパンマン」になれてしまうのだ。しかも、自分だけではなく他にも大量の「アンパンマン」が仲間となって「みんなで叩いていい雰囲気」が作られてしまう。

「悪いヤツを叩く」という行為は、手っ取り早く「正義感」を味わうことができる言わば一種の脳内麻薬。自分は正義サイドにいるという安心感を得ることができて爽快感すらある。

フジテレビの番組「スカッとジャパン」も構造的には同様で、悪役を倒すことでスッキリしようというシンプルな趣旨がウケて人気の番組だ。

X(旧Twitter)でも、悪を成敗する系の投稿はバズりやすい。私人逮捕系YouTuberなんてのも現れるくらい、アンパンマン的で水戸黄門的な「正義が勝つ」構造は人々に受け入れられやすい

けどなぁ。
悪を討つことでしか自覚できない正義ってホントに正義なの?悪がいなきゃ正義は存在できないの?

そうではない。
という気がしてならない。

4.正義を法律に求めがち。

実際のところ、時代や立場によって正義の価値観なんてコロコロ変わる。それでも社会が成り立つのは、ある一定の「秩序」が私たちの暮らしに根付いているからだ。その最たるものが「法律」である。

「法律」によって、私たちの社会生活はある一定のラインまで秩序が保たれるようにデザインされている。法を守れば正義、法を犯せば悪とする考え方は、多くの人が納得する一応のガイドラインに見える。

しかし、この法律だって万能ではない。

例えば、戦時中に存在した「治安維持法」という法律は、国家の考えに従わない人をとっ捕まえて酷い拷問にかけた。「国家転覆を目論む輩の摘発」という御名目の裏で、理不尽な犠牲者も多かったという。こんな法律は正義でもなんでもない

現代でもそうだ。

凶悪犯罪の判決が軽すぎると憤りを感じた経験はないだろうか?冤罪のニュースに心を痛めたことは?

法の整備が甘く、ぎりぎり合法の抜け穴を見つけては「法には触れてないんで〜」と言い逃れする人達は果たして「正義」なのか?

法律も所詮は人間が作るモノだ。
完璧ではない。

「正義の定義」を法律に依存してしまうと、変な法律が作られても黙って従う人間になってしまう。この国の主権は国民にあるんだから、自分の頭で正義とは何かを定義し、変だと思った法律にはNOと意思表示(投票行動)して変えていく必要があるのだ。

つまるところ正義は個人に委ねられている
法律はあくまでも秩序を保つためのルールであり「正義か悪か」を定義するモノではない。時代や立場、法律が変わっても変わらない芯のある「正義」をあなたは持っているだろうか?

5.胸に手を当てて考えろ

ここまでの話によれば、

  • 悪を討つ=正義というワケではない。

  • 法律=正義というワケではない。

  • 正義は個人に委ねられている。

ということが言えそうである。
アンパンマンが「正義のアイコン」と信じて止まなかった幼少期の自分には信じられないかもしれない。

「胸に手を当てて考えろ」

という言葉がある。自分の良心に問い掛けろ、自分の行いを振り返れ、自省をしろ等という意味だ。最近あなたは胸に手を当てて考える機会はあっただろうか?

例え話で考えよう。


満員電車に座っているあなた。
あなたは優先席ではなく普通席に座っている。
目の前には立っているのがしんどそうな高齢の方。

「席譲った方がいいのかな?」という考えが頭をよぎるが勇気が出ない。少し向こうには優先席がある。優先席に座っている若者が譲ってくれよと祈る。しかし優先席の彼らは気付かない。気付いているのはあなただけ。

数駅が過ぎ、意を決して声を掛けようとする。
その瞬間その高齢者の方は駅へ降りて行った。
ついぞあなたは席を譲ることはできなかった。


どう感じただろうか。
「優先席のヤツらが気付いて譲れよ」かな?
「普通席だから譲らなくても落ち度はない」かな?
「特に何も」かもしれない。

ここで胸に手を当てて考えてみよう。
ポイントは自分自身の良心に問い掛けることだ。
このシーンにどうすべきだったかという正解などない。
別に席を譲ろうが譲らまいが全く問題なく社会は回る。

だがこのシーンを振り返って、もしあなたの良心が痛むという場合は問題だ。あなたは自分の良心に背いた行動をとってしまったのだ。

自分自身の良心に背く行為というのはなかなかに苦しい。たとえ誰からも咎められなくても、たとえ法律が許しても、自分に嘘は付けないからだ。

日々生きていくのは大変だ。
綺麗事ばかりは言っていられない。
ときにはズルい心が顔を出し、利己的に動いてしまうこともあるだろう。

それでいい。
それが人間というものだ。
聖人君子なんてこの世にいやしない。

しかし、利己的にばかり生きていると人は自分から離れていくし、小ズルい自分に嫌気がさして辛くなる。そんなときはぜひ胸に手を当てて考えてほしい。

自分の良心と向き合い、良心に従い生きていく。
めちゃくちゃ難しいことだ。だが私はこれこそが正義のあるべき形ではないかと思っている。

自分自身の良心と向き合うのはめちゃくちゃ難しいし苦しい。だからこそ人は、お手軽に正義感を感じられる「アンパンチ」(比喩)に依存するし、法律こそが正義と言いたくもなる。不祥事を起こした芸能人を叩いては、自分は正義サイドの人間だと安心したくなる。

でももうやめよう。
善悪の判断を他人や自分の外側に委ねるのは。

正義とは自分自身と向き合うこと
何が良い振る舞いかなんて自分が一番よく分かっているでしょ?誰も見ていないところでの自分の振る舞いを、自分で律する自制心を正義感と呼んでも良い。どこに出しても恥ずかしくない胸を張れる自分を目指そう。

偉そうなことを書いて結局私自身へ向けた文章になってしまった。かく言う私は真人間でもなんでもない。
日々煩悩にまみれて生きているのを自覚している。

それでも、ふとした時に胸に手を当てて考えてみることにする。この生き方に胸を張れるかなと自問自答しながら生きてみようと思う。

胸を張れないようなら...
まぁそれはそれでええねんけど。

つづく

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