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ありがとうのチャンスを君にあげる

まだ私が恋を知らなかった頃、私はいくつもの恋を経験した友人の話を聞いていた。

彼女の好きなタイプは、「ありがとうとごめんなさいがきちんと言える人」だという。

その場では、ふむふむ、なるほどね、とわかったような顔を浮かべつつ、内心はそんな些細で当たり前のことが好きな人の条件になるのかと少し驚いていた。私も誰かと付き合うことになったら、その言葉の意味を理解できるのかなとぼんやりと思った。


友人とそんな話をしてからしばらく経って、私ははじめてお付き合いをすることになった。

そして、私はあのときの友人の言葉を思い出すことになる。


私は、彼の家で、少し悩んでいた。
私の目の前には、洗われる前の洗濯物が山になっている。

その日、彼は朝早く実験装置の予約をしていたから、先に家を出て研究室に向かっていた。私はとくに用事がなかったため、ゆっくりしていっていいよ、という彼の言葉に甘えて、漫画を読んだりしながらゴロゴロしていた。そろそろ家に帰ろうかと部屋を見回したとき、洗濯物が目に入ったのである。

最近研究が忙しそうだし、洗っておいてあげようかな、と思いつつ、勝手に洗濯されるのが嫌な場合もあるかも、と手が止まる。

少し悩んだ末、洗濯してから帰ることにした。時間があったし、とくに根拠はないけれど彼はたぶん喜んでくれる気がしたからだ。


その日の夜、家に帰ってから、彼から電話があった。

とくに洗濯物の話はされなくて、気づかなかったならそれでもいいか、と思いかけたとき、「そういえば」と彼は切り出した。

「洗濯してくれたよね?ありがとう。」と言われてちょっと安心した。

だけど、そのあとに続いた彼の言葉にちょっと慌てた。

「こういうことは、ちゃんと言ってほしいな。」

勝手に洗濯されるの嫌なタイプだったのか、と少しひんやりとした気持ちになった。

「ごめんね、勝手に洗っちゃって。これからはちゃんと聞いてからやるようにするね」と謝った。

そうしたら、電話の向こうの彼もちょっと慌てていた。

「いや、そういう意味じゃなくて。何かをやってくれるのはすごくうれしいし、助かるんだけど。せっかく何かをしてくれたら、教えてほしいってことだよ」

よかった、迷惑ではなかったみたいと胸をなでおろした。

「僕は、ももがやってくれたことに気づきたい。でも、全部には気づけないかもしれないから。気づかなかったら、ありがとうって言うチャンス逃しちゃうじゃん。だから、僕が気づいてないときは、ちゃんと教えてね。」

ありがとうを言うチャンス。

そんなこと、考えたこともなかった。

彼のその言葉を聞いたとき、私が好きになった人も、ありがとうをきちんと言える人なのだな、と友人の言葉を思い出した。

でも、そう思ったあとで、きちんとありがとうと言えるかどうかは、ありがとうと言われる側の問題でもあるのだと思い直した。


誰かのためになにかをするとき、人知れずするほうがかっこいいと私は思っていた。逆に、相手に自分のしたことを伝えるのは、「恩着せがましい」という言葉があるように、悪いことだと思い込んでいた。

だけど、自分のしたことが誰にも認められないことが度重なると、自分だけが損をして、我慢しているような気持ちになってくることもある。

そして、そんな自分の心の小ささに気づいて惨めになる。

我慢は、美徳のように語られることも多いけれど、別の言葉で言いかえるなら、「あるはずの気持ちを見えないように隠すこと」なのではないかと私は思う。

本当は、感謝してほしい・認めてほしい・つらい・悲しい・・・そういう気持ちを、押し殺してなかったことのように振る舞うこと。でも、本当はあるものをなかったことにはできなくて、心の中で燻り続ける。

けれど、その気持ちを見えなくする前に、ちらっと見せることができたなら。

本当は受け取れるはずの言葉に出会えるかもしれない。

我慢は、誰かの優しさに触れるきっかけに変わるかもしれない。


ありがとうのチャンスだと捉えられるようになってからは、自分のしたことをアピールすることが少しずつできるようになってきた。

「お皿洗ったよ」
今では夫となった彼にそう伝えるとき、なんだかありがとうと言われるのを待っているみたいでソワソワする。

だけど、ありがとうと言われるのは、ちょっとこそばゆくて、でもやっぱりうれしい。