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ポップコーン


ポップコーンが好き。
塩気のあるお菓子がそもそも好きなのと、
あの軽い食感でいくらでも食べられる感じが大変好ましい。(しかし穀物なのでカロリーは高いというトラップ付き。油断してはならない。)

友人などと家で集まったりする際に、
スーパーでお菓子を買い込むことがある
大抵その時私は選ぶお菓子の中にポップコーンを提案する。

しかしながら、これまでの自分の体感的に
この案はあまり採用されたことがない。
みんな無難にポテトチップスだとか
そういうものを選びたがる。

いや、却下されたとかではないのだけれど、
「ポップコーンはどう?」
と投げかけると
「あー、ポップコーンねぇ」
と、なんかふわっと流されてしまう。
何が一体ダメなんだろうか。
さっきまで「なんでもいーよー」とか言うてたじゃないか。

私も私で、自分もお金を出すのだから、
これ食べたーいと何も考えずに軽いノリで
買い物かごに入れてしまえばいいのだけど、
そういうことがなぜか、昔から苦手。

"みんなで食べるもの"という前提がある故か、
「ちゃんとみんなに賛同してもらいたい」
という考えから、食べたいという気持ちより遠慮が勝ってしまう。

これはお菓子とか食べ物に限った話ではない。

何かを選ぶとき、何かを決めるとき、
私は心のどこかで、自分以外の人にも
賛同してもらえるか、共感してもらえるか
を大きな判断基準としてしまっている。

そして、自分の求める共感が得られなかった時、
内心拗ねたような気持ちで、選択や決断を諦めてしまうことが多い。

なぜなら私にとって「共感」とは、
"私の感性への肯定"という認識であり、
逆を言えば、「共感が得られない」ということは、"私の感性を否定された"ように感じてしまうためだ。

勿論そうでないことは、頭ではよくわかっている。でもどうにも心が子供っぽくて、我儘で。
そんなみっともなくて情け無い自分にうんざりする。

共感が得られなくとも、自分の選ぶ道なのだから好きに決めればいいじゃないかって。勿論そう。

それでも私が選択を無意識に人に委ねてしまうのは、その先の未来で、責任を負いたくないからなのだ。
もしその選択が間違いだったとき
自分のせいだと思いたくないからだ。
あたかも他人の気持ちを優先しているフリをして
本性は浅ましい。
なんて保守的で身勝手な考え方だろうか。

そうして、その身勝手さの根源を辿っていくと
「自分を信頼していない」
という心の弱さに行き着く。

誰に何を言われても、自分を信じてあげる心が
私には備わっていないのだ。
一番大切な自分の気持ちに寄り添えていない。
そんなことにふと気がついた。

自分の気持ちを大切にする心と
行動力と、ちょっとした無鉄砲さがほしい。
そして自分で選んだその先で、何が起こっても
誰のせいにもしない、責任感を
私は持たなければならない。

私がやりたいことは、私が選んでいい。

酷く当たり前のこと。

でも時々、そのことから
逃げてしまうこともあるから、
忘れないように、ちゃんと向き合うために
今、言葉としてここに残しておく。

あ、でも先日ね、「ポップコーン食べたいなぁ」って呟いてみたとき、すんなり買い物カゴに入れてくれた人がいて、「え、ホントにいいの?君も食べたいの?」って私が聞いたら、「あやのちゃんの好きなものを食べたらいい」
ってさらっと言ってくれたことがあって
なんか嬉しかったなぁと。
ほんと何でもない会話なんだけども。

あ、言っとくとポップコーンは単なる
例え話であって、ポップコーンからここまで
悶々と考えたわけではないですよ?
そこまで面倒くさい人ではないからね。
そこんとこよろしくお願いしますね。

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