【エッセイ】ののは無目的に出かけられない

タイトルの通り。
わたしは家でゴロゴロすることが好きだし、ぼんやりすることが好きだ。その反面、わたしは友達と出かけたり買い物に行ったりするのも大好きだ。
ただし、出かけるという行為には「何らかの目的」が伴う。伴わないと何故か、出かけられない。

服を買おうと思った時はやはり「服を買いたい」から出かけるし、スーパーで日用品を買おうと思った時は「必要品を買う」という何らかの目的があって初めて、わたしは出かけることができる。
だから、夜に気晴らしに徘徊しようとか、今日は暇だしウインドーショッピングしにいこうとか、そういう指向性がどうにも伴わないのである。

何故かは、わからない。誰かから「日々を無為に生きるな」と脅迫されたのかもしれない。その割にはわたしは眠ることが好きだし、常に思考とは裏腹な行動を取りがちである。だからわたしは「自分とは一体何なのだろう……」と言った自問自答を繰り返している。
当然だが答えは出ないので、ただただ、人生という無限のようで実はマジで有限の時間を無為に過ごしているのである。

常に何かの意義を考えながら過ごすなんて、常にエネルギーを必要とするし、かなり無謀な行為に見えるけれど、何故だかわたしは、常にその無謀に無意識のうちに挑戦をし続けている。
そして失敗して挫けて落ち込んで、の繰り返し。無駄に生きていることの証明をしているのだ。
こうして端的な表現にしてみると、実に実に滑稽だ。なんてアホらしい人生なのだろう。

言い訳をすると、今は余裕がない。
けれど書くことは好きなので、いろんなよしなしごとを書いて自己洞察を深めて、自己理解を深めて、奥行きのある人間になりたいものだとわたしは切に願う。
余裕を持った生き方を、今更ながらにしてみたいのだ。

だからnoteを始めてみたし、自分について改めて書いてみようと思った。
体裁にとらわれず書きたいものを書き、自己表現の一環とする。
いつしか湧き上がるであろう余裕を夢見て。
今日は暇だからウインドーショッピングをしようかと思えるくらいに、おおらかでマイルドな生き方がいつかできるようになることを夢見る、金曜の夕方なのである。

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