『のび太の宇宙英雄記』(2015年)とアロンの孤独 【映画ドラえもん感想】

2015年公開『映画ドラえもん のび太の宇宙英雄記(スペースヒーローズ)』
2024年2月1日 AmazonPrime Videoで鑑賞。

 公開当時観たときの印象があまり良くなかったのでどうかと思ってたけど、改めて観てみるとそんなに悪くないじゃん、という印象になった。

 ギャグの幼稚さが最初観たときに気に入らなかった一番の要因だったと思うけど、それは確かに今回も感じた。
 のび太のズボンが脱げるくだりが特にしつこく感じた。この場面はBGMが逆回転になる演出込みのメタ的なギャグにもなっていて、こういうのはあまりドラえもんに求めていないかもしれない。
 クライマックスでのび太があやとり技で戦おうとする場面もいちいちコミカルな効果音が付いていて、この音は無い方がいいと思った。無くても滑稽さは伝わるし、役に立たないことを必死でやっているのび太のいじらしさというコメディだけではないニュアンスも生まれて、ぼくとしては好みな塩梅になっていたと思う。
 この場面、最後にあやとりが大きな網になって敵を捕まえるってオチなんだけど、そこもただいきなり網が出るようになるんじゃなくて、今まで作ったあやとりが繋がって巨大な網になるとか、もっとカタルシスを持たせることもできたと思う。
 この作品全体的に、戦いのシリアスな空気感が希薄だ。遊びとして冒険に参加したのび太たちが本物の冒険だとわかる話なのに、全編通しておどけたテンションだとその落差が出ていなくてもったいないんじゃないかと思った。
 でも全編コメディ調で突き通すというのは本作の意図したところなのだろうなということも確認できた。リニューアル後のオリジナル作品で今の所唯一のストレートな成功作といえる『ひみつ道具博物館』のノリに則ったんだと思う。それが好みのバランスでなかった要因でもあるけど、それによって魅力が生まれているところもまた確かにあると思う。

 今作の一番わかりやすい良かった点は、悪役キャラ4人の魅力にある。デザインもかわいくて個性も立ってて、ドラえもん映画史上でもトップクラスに好きなヴィランだ。湿っぽく過去が語られたり改心したりしないのも良い。コメディ作品ならではのバランスで出来たキャラだと思う。
 ポックル星の太陽・アルマスの、恒星ではなく光の反射によって光ってる星だとか、ダイヤモンドなので中の炭素がキーアイテムになるとかの設定も比較的凝ってて好感が持てた。能天気な作風だとしても、こういう風に作品内の世界に説得力のある切実さを持たせてくれると嬉しい。

 ストーリー的な見どころで言うと、メインゲストであるアロンの性格付けが興味深い。
 映画冒頭とラストで町の子どもたちに慕われているのび太と重ね合わせられるように、アロンもポックル星の子どもたちに信頼され慕われている場面が何度も入れられ、心優しい人物であることがわかる。
 そしてアロンは孤独でもある。(名前もそういう含みなのかもしれない。)星を豊かにする営みにただ一人疑いの目を向け、幸福な住民たちに危機を説いても相手にされず、単独で捜査活動を決行し、命からがら見知らぬ星にたった一人流れつく…というのがアロンが背負ってきたストーリーである。星の常識的な大人たちから見れば、それこそまさに英雄症候群的な、子供じみていて狂った人間だ。彼はそもそも思い込みが強いタイプの人間で、今回悪党の目論見を見抜けたのもたまたま見当が当たっただけのことかもしれない。
 そんな誇大妄想的気質のあるアロンだからこそ、彼の“まるで映画の登場人物のような”振る舞いによって、演技をしているつもりののび太たちを冒険に巻き込めたのかもしれない。アロンの行動を本物ではないと思っている中盤までののび太たちの視線は、ポックル星で大人たちがアロンに向けたそれと根本的に同質のものだ。
 ただしのび太だけは、アロンが流した涙に演技ではない何かを感じ取り、本物だと気づきはしないまでも早いうちから彼と芯の部分で共鳴している。のび太も人に笑われ、蔑まれるタイプの人間であればこそである。
 だからクライマックスで、祝祭に浮かれていたポックル星の人々が一転、闇に覆われ不安と絶望に包まれるに至ってようやく権力者が「アロンの言っていたことは本当だったのか」と独りごちる瞬間、ぼくはとても後ろ暗いタイプのカタルシスを感じてしまった。
 こうした孤独なヒーロー譚を明るく希望に満ちたものにしているのが、先述したのび太やアロンが子どもたちに慕われている、という無条件の善性を見せる場面である。のび太がアロンに共感を寄せるのも、弱者としての連帯感だけではなく、思いやりを持つ者同士という側面が強くなる。逆に言えば、この子どもたちとの描写がなければ、“周囲に理解されない孤独な人間がついにその正しさを認められ、称賛される”という不健康で独りよがりな風味が際立つ話になってしまっていたかもしれない。それはそれで面白かったかもしれないが、ファミリー向けシリーズ『映画ドラえもん』の1作品としてどちらがふさわしいかは言うまでもない。的確なエピソード配置だったと思う。

 少し穿ちすぎた見方をしてしまったが、それにしても本作は映画ドラえもんシリーズの中では特殊な作品である。
 まず作画が普段のTVシリーズとほとんど変わらない。これは映画シリーズとしてはかえって異色の作風だ。コメディ寄りである本作の軽さ、楽しさを邪魔しない見た目という良さもあるが、キャラクターが横一列に並んでいるような絵面が多かったりして、最近の作品にしては映画的な絵の面白みにかける部分も正直ある。
 それから、スネ夫は手先が器用、静香はお風呂が好き、などといった各キャラの得意技の元となる性質が、のび太のあやとりのようにエピソードの中で語られるわけでは必ずしもなく、前提として使われているのも独特だと思った。観客がレギュラーキャラの性格やお約束について知っているのを踏まえた話作りになっており、ある意味メタ的だと思う。
 こうした一見さんお断り的な要素は(『ドラえもん』という巨大フランチャイズを前にその言葉がどれだけ実質的に無意味か承知の上で)、ちょっと引っかかりを覚えてしまう。前年の『STAND BY MEドラえもん』が、番外編的な位置づけであるにしろ『ドラえもん』シリーズの再解釈・再構築だったので、その脱構築的な要素のかすかな影響下にあるという見方もできるかもしれない。

 とはいえ、前年の『新大魔境』とは打って変わってコメディ調、なおかつ前々年の『ひみつ道具博物館』とは違ったタイプの勧善懲悪ものを成立させている本作は、映画ドラえもんシリーズの振れ幅をまた大きく更新していて、意義深い作品であると思う。

 あと、オープニング曲『夢をかなえてドラえもん』はキャラクターが歌う特殊バージョンになっててめちゃめちゃアガるので最高!(またこの曲に戻してくれないかなあ…。)


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