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日記 #2

2022/09/01

朝起きて、ごはん食べ、洗濯。書き物をいくつかして、挽肉を買いに行く。買えた。昼ごはん作ってたら出かける時間。

帰ってきて、残りの洗濯物を干して、寝る。

起きたら雨。正確には雨が降るすこし前に起きて、雨が降っていないことを確認し、もう一度寝たらその隙に雨が降り始めた。いつもはベランダまで入ってこない雨が、大粒かつ強風のせいで入ってきて、ハンガーが飛ばされていた。もう!いやね!雨雨雨。ますます嫌い。利害関係のないときの音は好きだけど、降られるのはほんとうにいや!

鶏の照り焼きがうまく作れたので機嫌を直した。コウケンテツに特大感謝の鶏胸肉皮目焼きまくり人生。めんどくさがらず片栗粉をしっかりやるのが大事だった。

郷原先生が燃えている。おじさん・おばさんになることがどんどん怖くなる世の中だ。歳を取るごとにますます笑われ馬鹿にされるような存在になっていきたい(そういうふうに扱いを受けたとしても、ひとを不当におとしめていいわけではないが……)。

2022/09/02

稽古の前にAPACの見学。画面の前で踊った。

遅刻なので短い稽古。2時間くらいだとあまり疲れない。
帰りに図書館に寄る。図書館では何も借りなかったけど、読みたかった本のことをたくさん思い出して、その場で予約した。

家のリビング、キュンとするタイミングの話。俺は「断言に弱い」と言った。ほかのひとは、「無邪気な笑顔」と「押しの強さ」。

2022/09/03

平塚市美術館。工藤麻紀子のことはよく知らないまま観に行く。w/明源、中尾

一周目はひとりで。描かれている対象(少女や動物)がかわいい、色の感じが良いとかではなく観ようというのは基本的な構えとしてあった。
いくつか見て、絵の中の物の輪郭を混線させるような描き方をこの人はするのだな、と気づいて、そこからは複数の輪郭の可能性を辿るようにして見ていた気がする。気づきの瞬間が、一番楽しかった。
そういう、物と物や、人と物の輪郭を曖昧にする手つきの延長線上として、人間(の世界)と動物(の世界)の混在があり、しかしそれには乗り切れない感覚がある。いくつか、もういいや、と飛ばし飛ばしにしてしまう。

適当に見ていた後半で、ふと、絵を媒介にして自分の記憶を振り返るほうが、工藤の絵画に向き合う態度として真摯なのでは?という気がしてくる。記憶を引き摺り出すことの苦手な自分と絵に向き合いながら、(経験していないかもしれない)川べりの景色を思い出す。

街の上に、人間の顔、キツネとタヌキ?

2周目は3人で話しながら。
作者の作為・恣意が、単に画面に押し付けられるのではなく、他の要素と関係を持ちながらかろうじて成立しているものだと捉えられると、これは見るべきものなのかも、と思えた(たとえば、街の風景の上に重ねられた人間の横顔には、ビルと同じように日光が注いだり注がなかったりしている)。
輪郭をないまぜにすることで、ひとつの画面上に複数の空間(プールと湖沼と山と……)を成立・並列させる。並び立つはずのない箱が並んでしまっている。そのことは単に面白いかもしれない。なにかもうすこし思っていた気もする。
閉館までいて、僕らより多い数の監視員に囲まれながら絵を見て話しているのは奇妙だった。

『初恋の悪魔』5話と6話まとめて配信してるのいま知った!おい!今日までじゃんか!もっと早く言ってくれ!!!

土田の劇。「線」。劇場にいる人間の目と、他の場所、たとえば美術館にいる人間の目は異なるだろう。席に縛られた人間として、また別の人間を見ることに、なにかしらの可能性を感じるからこそ演劇を、劇場という制度とともに引き受ける。そういう倫理の話ばかりをしてしまう。
劇場と美術館は異なる、と言ってみたが、同時に土田のパフォーマンスは非常に静的であり(つまり、最初に提示された輪郭が、パフォーマンスが終わるまでほとんど変化しない)、その点で絵画のように、フォーカスを移しながら見ることが可能だというのは面白かった。舞台美術の「美術」がより強く響く。ひもの先が見えないことで、天井が一枚の板として感じられるのが変な感覚だった。土田は滑稽なことをシリアスにやっている気も、ずっとしている。

帰りながら『初恋の悪魔』、結局2話とも観れた。大豆田とわ子は途中で脱落してしまったので、これは頑張りたい。坂元裕二はやはりすごいな。前半はあんまりピンとこないまま見ていた(仲野太賀はめちゃよい)けど、ここに来て、別のストーリーラインを混線させていく手つきが……。坂元裕二作品のいくつかに見られる、擬似家族的なつながり、過去の変えがたい行動への着目があり、立て付けはコメディタッチのミステリ?だけれど、描こうとしているものは変わらないのだなーと思う。

寝起きの仲野太賀、良すぎる

2022/09/04

昼からし……

だけ書いてあった。稽古場で軽く自主練して、それから金管コン。大学時代のサークルのコンサート。もう知らない人が大半。そんなことはないか。でも、たくさん関わりのほとんどないか、薄い関わりだけある人が、自分たちがかつていた場所でなにかしている。
むかしは色々アンケートに文句を書くタイプだったが、いまはそういうことを真に受けてもらえなさそうだし、3年ぶりにやっとできたコンサートだし、よかったことだけ書いた。打楽器の人たちがおおむね上手くなってて、続けることの大事さを思う。代表挨拶ではかせが揺れるたびに仮設舞台がギシギシいってるの、ほんとうにみんな「フラフラするな!笑」と思っていたんだろうな。

編集会議。見学した稽古の感想をシェアする。直前まで全く何を話すか思いついていなかったのに、喋り始めたらなんとなく面白いことが言えるときがある。今日がそれだった。こういうとき、「思う」とか「考える」とかいう動詞のことがよくわからなくなる。「〜と思う/考える」と表現するときには、その主体が思考の対象への明確な意識を持っていることが前提になっている気がする。しかし、こうして言葉が先立って意見や感想みたいなものが現れてくるときには、喋っている最中でさえ、私は本当に喋っている当のことを思ったり考えたりしているのか定かじゃない。ただ口から言葉が出ているし、その言葉を面白がっている。嬉しいことだけど、出どころのわからないものはすこし怖い。

2022/09/05

寝落ちした先の夢で、10年くらい前まで関わりのあった子のフルネームが急に出てきた。といっても、それが本名?、正確な名前かどうかわからない。顔は覚えているけど、今の今まで名前を覚えているとは思ってなかった。夢のなかで記憶の千本引きが行われて、たまたまその子の名前が当たった。ほんとうの名前か、確かめようがない。

稽古。師匠だ。

うまく人に相談(いろんなレベルの)できないがゆえに困ることが多いと感じる。事情を伝えて理解してもらうことをサボるとしわ寄せがくるようになっている。

今度家のあるビルの屋上でイベントが開催されるのだけど、屋上にはトイレがないので家の男子トイレをイベント参加者に使わせたい、全員そこを使うので入居者含めてその日は個室だけの運用にしよう、という話の流れで、ああつまりオールジェンダートイレ的に使うのね、といったら、男女共用でしょ?笑、と言われてしまい、言われてしまったーと思ってるあいだに話題が過ぎ去っていった。

↑これは日記なのか?例えば、以下の方が日記という意識かも

テント場のときに、男子トイレを参加者に開放するらしく、その日はみんな小便器は使わず個室だけを使ってほしいとのこと。なるほど、オールジェンダートイレ的な使い方にするのか、と言ったら、男女共用でしょと笑いながら言われて、ちょっとしょげた。おそらく男女共用を大袈裟に言ってると思われたんだろうな。でも、そんなこと言ったら、あんたらもおれも住んでる共創型コリビングだって大概だろう。

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